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点の風景

心に感じた風景です。ご一緒にお楽しみ下さい。

8月一周年記念

2008年08月03日 | 8月 一周年記念!
ブログを開設してから1年が経った。このブログのアドレスは、私の弱さや愚かさをよく理解してくれる人にしか公開していないが、「ブログを見たよ。面白かった。」というメールを頂いたり、「あの写真が気に入った」「あの写真はちょっと平凡だと思う」といったようなお言葉を沢山頂き、大変貴重な宝と思っている。そもそも、このような稚拙なブログを訪れて下さったことに感謝の気持ちは絶えない。今読んで下さっている方がいれば「ありがとうございます。」と心からの感謝を申し上げます。

さて、一つの切れ目として、ここでそもそものブログ開設までの経緯を記しておきたいと思う。(全ては過去のことであり、今は何ら関係も関心もない事を記しておきます。)

数年前、日立製作所で「ぱんぽん」という社内文芸誌の編集委員をしていた。業務外のボランティアであるが、伝統ある文芸誌に関われる事を誇りとし、大変入れ込んでいた。しかし2年前のある日、編集長なる男性が、編集部の事務をしていた女性に送った「合コンの誘い」のメールを見てしまったことから、がらりと人生が変わっていく。合コンなどどうでも良いが、時期が悪かった。男性は海外出張中で、私が送るメールへの返事はなく、業務が滞って困っていたところに、かの女性には数通にわたる「早く合コンを!」のメールである。帰国後、さすがに苦情を言ったところ、「私は編集長の資格がありません。退任を考えています。」ときた。しかし編集長を辞める気などないものだから、自分が言った言葉に追い込まれ、逆にこちらを疎み始めた。

女性もそのようなメールをわざわざ見せてきたりするほどだから、何かしら、男性に対する感情があったのであろう。何かにつけて、自分がいかに男性に大切にされているかを仄めかす。そのような事に興味はないが、必要な連絡などを寄越してくれないのは困った。自分の原稿なら許せても、頼み込んで書いて下さった方の原稿に関わることは許せない。許せないが文句を言ったところで、こちらが悪者になるばかりである。「編集長に相談しているんですが、○○さん(私)のことなど気にしなくていい。あなたが一番必要な人だからと言ってくれて。」と勝ち誇った顔で言う女性に何も言い返す気持ちになれなかった。

(以前、ぱんぽんのために長年大変尽力した女性がいたが、男性はその女性をひどく傷つけたまま退任させた。私はその女性の退任延長を男性に頭を下げて願い続けたが、拒否された。そしてその後任に件の女性が入ったわけだが、男性と女性が私を疎ましく思う陰には、そのような経緯も関与していた。)

一ヶ月がたち、半年がたち、一年がたち、既に私など鼻であしらうような態度となっていた男性に、それでも理解し、信じていきたいと、納得できない事があれば、辛抱強く言葉を重ねて問い続け、コミュニケーションだけは取り続けた。しかし言葉を重ねれば重ねるほど、男性は用心して狡猾な保身にまわる。悪循環にしかならなかった。合コンの事を知ってから、1年も編集部に在籍できたのは、とりあえず男性が受け入れてくれているからだと信じていたが、それは大変甘い考えであった。男性は単に他の者にばれないように私の機嫌を取りながら、口封じの機を狙っていたに過ぎなかったのである。ある件で編集部のやり方に関して私が抗議のメールを送ると、ここぞとばかりに逆手にとり、「このような事を言う人は皆さんにも迷惑ですよね。」と巧みに他の編集員を味方につけ、あっという間に私を辞めさせることに成功してしまった。

編集長である男性に疎外されれば為すすべは無かった。苦渋の思いで編集部を離れることになった。しかし、離れてみてしばらくたつと文章が読めなくなっていた。文章を見ると動悸が起こり、立っていられなくなる。文章に関わっていた編集部の事を思い出すからである。理解できない恐怖が始まった。組織から弾き出された恐怖なのだと分析してみたが、頭では理解していても、気持ちと身体がコントロールできない。次第に会社に行くのも嫌になった。夜は何時までも起きていた。寝てしまうとまた苦しみの朝になる。怖くて眠れない。この頃、娘が「ママはいつも笑っているから嫌だ。」と言ったことがあった。娘は私の異変を察していたのだろう。恐怖にもがいている自分と、娘の前で必死で元気にふるまう自分。貼り付かせた笑顔が、すさまじい形相になっていたに違いない。地の底を這うような苦しみの日々だった。

全てのものが色を失っていく中で、赤瀬川原平の写真集に出会った。文章が読めないため、写真集ばかり眺めている日々だった。日常の見慣れた風景が、赤瀬川の撮影により、全く別のものに見える。一旦ばらばらになった世界が、再び形をとり始めてくるようであった。若い頃、貧血を起こし、全てのものが白黒に見えるという体験をしたが、まさに白黒にしか見えなかったものが、だんだんと色を帯びて生きたものとして映ってくるような感覚だった。赤瀬川の写真は遊離した精神を現実に戻してくれ、それは日常の風景にまで及んできた。日常の白黒だった風景が赤瀬川の写真と重ね合わせることによって、少しずつ色を取り戻してきたのである。
写真の判断基準はわからない。芸術性もわからない。しかし良い写真とは、「見ていて飽きない写真」なのだと思う。何気なく隣にある風景が、カメラを通すと、意味と名前の距離感を変幻自在に変えられ、見ていて飽きることがない。写真というものは現実を写しながら、現実に映っていないものを見せる、不思議な力を持つものだと知った。そして恐る恐るカメラを手に取ってみた。

当時、全ての編集委員が急いで背を向けた中、一人だけずっと変わらぬ態度で接して下さっている人がいた。Nさんという研究者である。大変教養深い方で、もう20年以上も編集委員をされていた。Nさんとは、殆どメールでのやりとりであるが、不思議な方で、一言か二言、Nさんの言葉を聞くと、なぜか、自分の中で焦点が合ってくる。同調してくれるわけでもないし、教訓めいたことを言うわけでもない。しかし私という人間が、私という名を背負って、何はともあれここに生きているのだという事を思い出させてくれる。どこにそんな力が隠されているかとメールを読み返すが、淡々とした言葉が続いているのみで、秘密はわからない。

写真を撮ってみるとNさんに見せたくなった。しかし毎回、Nさんのパソコンに送りつけるわけにはいかない。そこでパソコン上で常時写真を見られるようにしておける機能はないかと探ってみたときに、ブログに行き着いた。ブログは自己PRをしたい人が行うものだというイメージしかなかったが、相手の都合次第で、気が向いた時に見てもらえるというのは目的に合っていた。こうしてブログを始めるに至った。

Nさんには、重荷に思われたくないので、感謝の気持ちなど伝えてはいないが、今こうして、ともかくも立ち上がって新しい人生を歩き始めることができたのは、ひとえにNさんのおかげと思っている。カラマーゾフなどの文学の話題が、暗闇から少しずつ上に這い上がっていく力をくれたのである。ただ苦しみの時が過ぎるのを待っていた時間が、Nさんに刺激されて、本を読む時間に変わっていった。しかしカラマーゾフなど難しくてわからない。どこがわからないのか探ってみれば、自分は西洋の宗教的な精神世界が全く理解できていないのだと気付く。そこで西洋の歴史や、キリスト教の本など読んでみる。するとまた新しい世界が開けてくる。小さな点のような光が少しずつ大きくなり、だんだんと暗闇より光の方が大きくなっていた。Nさんがいなければ、今頃まだ、暗闇で手探りしているに過ぎなかった。

結局、編集部を辞めた後も、件の女性は、私が編集部に戻ってくるのではと恐れ、私が編集部に迷惑事項を起こしたと会社に告げた。もちろん、その女性は、男性の気を引くため、私を編集部から追い出したかっただけで、会社まで辞めさせろと言ったわけではない。そこまでの副産物は期待していなかったであろう。ただ会社も、昨今では産休や育休を取った女性社員が復帰する事が多いため、その配置に苦心しており、一人でも女性社員が辞めていくことは助かることであった。会社は是非で判断するのではない。全てその時の機運による。女性が告げ口をした、この機を逃さなかっただけである。組織とはそんなふうに収支を取りながら回転していく。恨みはない。私が居た席に、現在育休明けの女性が座っている。それで良いと思う。

10年前、夜通し車を走らせ早朝の日立に降り立った。駅前は、どこを見てもシャッターが閉まり、中には永遠に開かないシャッターも少なくない。人も車も少ない。想像していた以上に寂れた風景だった。
愕然と荷物を置く私に、夫が「ここは地下鉄もないし、早朝に開く喫茶店もない。嫌なら、あんただけ名古屋に帰るかね?」とからかうような目で言った。すかさず夫に「私を誰だと思っているの。10年後にはここに地下鉄を引いて、全部の店を開けて、日本一賑やかな街にしてみせる!」と大見得をきった。「必ず、必ず」と、あの時の気持ちをずっと持ち続けた10年だった。一生を日立のために、日立で過ごすと思っていた。しかし、そんな気持ちもたった一人の人間に吹き飛ばされる程度のものでしかなかった―。悲しさ、悔しさより、不思議だなという気持ちの方が強かった。

中学の時、転んで傷ついた膝の傷跡がいまだに残っていて消えない。(丸尾クンという男の子がいて、帰り道に「丸尾、三角、四角尾!」と叫んで駆け出したところ、段差につまづき派手に転んだのである。一緒にいた親友がおぶって外科まで連れていってくれた。)全く口は災いのもとである。特に男性には余計な口はきかないことが懸命である。膝に醜く残る傷跡は一生私を解放してくれない。心にもそんな醜い傷跡が沢山ある。一人の人のほんのささいな気持ちから、予想もしなかった場所で、予想もしなかった人生を送ることになる。返す返す人生とは不思議なものと思う。書き始めるときりがない。とりあえず、ここで筆をおいて、一人一周年の祝杯をあげることにする。写真のことはまた後で考えよう。