そういえば、
「ぬらりひょんの孫」というマンガに、
「たまずさ」とよばれる妖怪がでてきていたような気がする。
「刑部だぬき」の息子、という設定だったか、と記憶しているが、
(「刑部だぬき」といえば、ジブリの「平成たぬき合戦ぽんぽこ」にも「隠神」として出てくる立派なたぬきだ)
日本のタヌキといったら、もう、妖怪伝承のなかでこれでもかと沢山でてくるわけだが
本質的には、前回このカテゴリーに紹介した「小僧系」の妖怪のほとんどは、化けだぬきであるように感じられる。
このブログでは、ずいぶん里見八犬伝のことを書いているのであるが、
さて、里見にとりついている「玉梓」の正体は何か、ということの言及をしてみよう。
先に「刑部たぬき」の名称を確認すると、
「隠神刑部」とかいて「いぬがみ ぎょうぶ」という。
この音を通じさせて「犬神」というあらたな呪術信仰もあったりするのだが、
とにかく、この神格に近いタヌキは、犬の守り神のような雰囲気すらもあるわけである。
さて、馬琴はどこまでこれに目をつけたか、はなはだ想像の域をでないのだが、
「刑部だぬき」の講談が馬琴に届いたであろう時期と
それを参考に「八犬伝」を書いたとすれば時期は見事に一致する
(どちらも1800年代初頭で、刑部だぬき講談は1807年前後、八犬伝は1814年から刊行)
と、いうわけで、
八犬伝で重要な役割を果たす「八房」というワンコに乳をやって育てるのが、
「いぬがみ」という性質のあるタヌキ、と馬琴は描いたのではないかと、私は考えている。
八犬士の父親は三人いる。
この「八房」という犬。現実それぞれの父親。それと金碗大輔(いわゆる「チュ大法師」)である。
(ちなみに、信野、現八、大角などには、さらに「育て親」の存在もあり、ややこしい)
で、この八房を育てたのが玉梓が怨霊であって、いぬがみタヌキである。
もうここらへんになると、里見八犬伝を読みこなしていても理解するのが難しい話になるのだが
八房をそだてたのが玉梓であるとすれば、
八犬士の祖母にあたるのが玉梓ということになり、
かつ、
八房そのものにも玉梓の怨霊がとりついて
「この世の煩悩の犬」であるものを「伏姫」に孕ませたわけだから
玉梓は、八犬士の母親でもある。
八犬士には、これによって、母親も、
伏姫、現実に産んだそれぞれの母、玉梓、と、三人いることになる。
とにかく、二重三重に、玉梓というのは八犬士の肉親(というか執念)である。
で、玉梓というのは、最初は毒婦(人間の女性)であるのだが、
その後まっさきに取り付くのがタヌキだということで、本来的にタヌキがその正体ということになる。
日本には狐狸という言葉があって、化かされるのなんのという話になるわけであるが、
馬琴は「毒婦・玉梓」を「タヌキ」にしたのである。
中国では、傾国美女は「キツネ」、いわゆる九尾のキツネなどが主流であるし、
日本文学や伝承もその傾向を受けてきているのだが、
馬琴としては「本来的にキツネは神」という姿勢で里見八犬伝を書いている節があるので
「傾国美女がタヌキ」という当時としてはオリジナリティあふれる文学解釈で八犬伝の冒頭を書いたのだろう。
里見八犬伝は、登場人物の名前に意味がある。
難しい漢字だと庶民に読めないかもしれない、という配慮ではないかと私は推測するのだが
とにかく、
「伏姫」は幼少に病がちで伏せっている状態と、ニンベン(人)と犬を組み合わせた中間者という性質が読めるし
「チュ大法師」は、恋敵(という言い方もどうかと思うが)である犬の八房、犬の字を、点と「大」とに分けた名前である。
すなわち、玉梓にも意味はきちんと存在する。
以前のブログ記事にもどこかに書いているが、
「玉梓」といえば和歌の枕詞で「メッセンジャー」のことであるという解釈もできるし、
さらに、解釈すると、
これはもう、
「たまづら」
という音から類推している言葉だということもできる。
たまづら、といえば、たぬき顔である。
西遊記に「玉面」という人物がいることをご存知だろうか。
牛魔王の愛人で、やっぱりタヌキの妖怪である。
正式には「玉面公主」(ぎょくめん こうしゅ)とよびならす。
と、いうわけで、玉梓といえば、タヌキなのだが、
「新・里見八犬伝」(ゲーム)でのタヌキの扱いといったら、最弱の敵の次に強いくらいのもので
少々、ものがなしい扱いを受けている。
「新・里見八犬伝」では、玉梓は、完璧に怨霊であるとか闇からの使者であるとかいう象徴であるから、
もはやタヌキではなくなってしまっているのだろう。
また、
2006新春ドラマスペシャル(TBS)の「里見八犬伝」は、
「牡丹の花に巣くう蜘蛛」である。
この解釈も素晴らしいものだと思う。
里見家の家紋を牡丹として、まとわりつく蜘蛛が玉梓なのだ。
蜘蛛の巣に 春雨やわく みずたまは 風に泣きけむ 女郎なるかな
と、
……いつも以上に適当な短歌がいま頭のなかに閃いたので詠んでみたが、
八犬伝というのは、
男だけが活躍する物語ではない。
というか、男は女装してたり妙にボーイズ・ラブな雰囲気(あくまで雰囲気)があったりして
大衆ウケをねらった活躍ぶりを描いているところが大きい。
が、八犬伝は、壮大に女の物語であると私は主張する。
馬琴が最初から女の物語にしようとしていたかは、
自身の目が見えなくなった後に、
口述筆記をしていた「おみち」(馬琴の長男の嫁、つまり義理の娘)
の影響もあったことだろうし、
微妙なところだとは思うのだが
玉梓は、玉面公主、女の嘆きや苦しみ、である。
風に戸惑う蜘蛛であり、糸に満天きらめく星屑涙を散らすかのような業をもつ。
伏姫と同様に、八犬士の母である、ということは、
母というものにある二面性のうちの一方、ということもできる。
「あはれとも~」という歌をご存知だろうか。
百人一首にもある謙徳公の拾遺集の恋歌だ。
あはれとも いふべきひとは おもほえで みのいたづらに なりぬべきかな
かわいそうだ、と言ってくれるだろう人は思い浮かびません、そしてそのまま(私は)死んでいくのでしょう。
という、
恋する相手に「哀れだと思ってくださらないなら死にます」的な脅迫的な熱烈さのある歌なのだが
(現代でやったら「勝手に死ねば?」とか言われそうな……)
玉梓の場合は、
「人を哀れまないような世の中ならば、世の中のほうこそ滅んでしまえ」
という感じで、化けてでてくるわけである。
どうも、
最近、民俗や妖怪のことをいろいろ考えてみると
タヌキというのはこういうことを教えるために人を化かしているようにも見えてくる。
あはれとも いうべきひとは おもほえで
だから、玉梓は嘆いている。
可愛そうだと言ってくれる人がいない。
女の涙の本質である。
これこそが、玉梓の正体であろう。