goo blog サービス終了のお知らせ 

多趣味多彩

雑多な書き散らしブログ

くびなし

2011-05-07 13:00:00 | 妖怪、伝説、伝承


ろくろ首、の類に含まれる妖怪は各地にさまざま残っており、

首そのものがヘビのように伸びるという系統と、
頭が胴体と離れて飛び回るような系統と、

大雑把に二種類があるように考えられる。


「首そのものが伸びる」系統は、ヘビのように執念深いという感情的な暗喩が含まれ
男性よりも、圧倒的に女性のほうが多いという特徴がある。


「頭が胴体と離れている」系統は、罪人が妖怪化したものが多く、
女性もいるにはいるが、男性が多いように思われる。


さて「頭と胴体が離れている」系統の妖怪を
ときとして「首なし」と呼ぶことが多く、
マンガ「ぬらりひょんの孫」にも相当な人気のキャラであるので、
今回はこれを考えてみようというわけである。


「くびなしおばけの怪」という伝承があったように思う。

江戸の妖怪話であったと記憶するのだが、はたしてどうだったか。

とりあえず、私が知る話は以下のようなものである。


~~~
とある盗賊、たっぷりと金を盗み、
満足して、酒処でよくよく酔った。

店から出ると人にぶつかったが、
酔って気が大きくなっていた。

罵詈、怒鳴りつけると、
あろうことか盗賊改方のお役人、

盗賊は、相手がすらりと刀を抜いたところを見たような気がしたが、
一瞬のあとには、こともなげに通り過ぎていってしまった。

「なんでい、虚仮おどしか」
と、内心ひやひやしながらも、
次は夜の町へと繰り出そうかと意気揚々と歩き出した。

そこへ「火事だ」と叫び声があって、
人々が押し合いへし合い、あっちへこっちへ走り出す。

後ろから突き飛ばされて、
盗賊は地面にころげて、

悪態ついて起き上がろうとすると、
どうもおかしい。

身体は起き上がったはずなのに、
鼻が地面にこすりつけられたままだ。

とっくに首は、切り落とされていたのである。

「こりゃ、たいへんだ」
と、あわてて自分の頭をひろって
首に戻そうとするが、そんなことでくっつけば医者はいらない。

「医者にいかなきゃ」と思うのだが、
火事騒ぎで人がごった返す往来、
人の波にのまれて首がぐらぐらする。

どっちが火事か。

男はスッと自分の頭を首から持ち上げて
人の群れの上から火事の方角をみた。

仰天したのは周りにいた人々、
「くびなしのおばけ!」
と叫んで、もんどりうって
その場の人垣が割れて道ができた。

「こりゃあ、いい」
と、男は自分の首から頭を離して小脇に抱えたまま、
医者に向かって走り出したのだそうな。

~~~

「ハリー・ポッター」シリーズの「ほとんど首無しニック」の絶命日パーティーにでてくる
「スッパリ首無しポドモア卿」あたりを彷彿とさせる。

あるいは、後藤寿庵先生のある方面の作品などを連想しかける。



「ぬら孫」の「首無し」は、この江戸怪話が元になっているのではないか、という気がする。


さて、彼の持ち物は黒縄。

縄を黒くするのは盗賊か忍者、あと、SMの舞台用に使用することもある。


女性の髪の毛を混ぜて縄をなうのは、雨乞い、治水などの意味もあるのであるが、
なんといっても、ヘビの象徴性がでてくる。
執着心、執念、である。

山田風太郎「甲賀忍法帖」(マンガでは「バジリスク」)にも、
「夜叉丸」というキャラクターが黒縄を使う。

これも、女の髪(むしろ陰毛ではないかと思われる部分もあり)で作られた縄で
妙に硬く、しめつける忍術のタネである。


夜叉丸、
たぶん名前に「丸」がついているから元服前だろうと考えられるが、
ショタっ子なのに「女の情動を使いこなしている」と見ると、


妙に萌えが入る気がするのは私だけだろうか。

なんとなく、ツンデレ性質が感じられるのは私だけだろうか。



ともかく、
「首無し」も、ある種の女性的な執拗さ、残虐さを秘めていることが
首を伸ばすいわゆる「ろくろ首」と同じ妖怪と見ることができるわけで、


女郎通いの伊達男、女心を知るイイ男、という雰囲気がある。



「首無し」をマンガ化するとなれば、
釣り目が似合うというのは確かだろうと思うのだ。








とんでも昔話「イモ太郎」

2011-05-01 03:30:00 | 妖怪、伝説、伝承



むか~しむかし
あるところに
おじいさんとおばあさんがいたそうな


おじいさんは山へ芝刈りに
おばあさんは川へ洗濯へいったそうな




おばあさんが、おじいさんのふんどしを洗っていると
川上からおおきなイモが
浮きつ沈みつながれてきたそうな



おばあさんは大層うまそうだとおもって
ふんどしをほっぽりだしてイモを抱えて持って帰ったそうな

こんなにおおきなイモだもの
おじいさんと一緒に食おうとおもって
おばあさんは、イモをふかして待っておった




やわらか~く、あま~く、ふかしあがったのだども
おじいさんはなかなか帰ってこんかった

ついつい、おばあさんはつまみ食い
すると、やめらんなくなって
次から次へと口のなかへ放り込んだんだと




とうとう、おじいさんに残しておくのも忘れて
ぜんぶたいらげてしまうと
それは、イモだもの


おばあさんは、腰をちょいと浮かせて
ぶりっ、と、一発、おならをしたんだと







さて、そのおならのカタマリ
だんだんと、おじいさんのいる山のほうへとただよっていってな
ふわふわと、おじいさんの周りをとりまいたんだと


そこでおじいさん、
芝を刈らずに
「くさかった」




イモ太郎、どこに出てきたんだよ。





玉梓がお~んりょ~

2011-04-28 12:00:00 | 妖怪、伝説、伝承


そういえば、
「ぬらりひょんの孫」というマンガに、
「たまずさ」とよばれる妖怪がでてきていたような気がする。

「刑部だぬき」の息子、という設定だったか、と記憶しているが、
(「刑部だぬき」といえば、ジブリの「平成たぬき合戦ぽんぽこ」にも「隠神」として出てくる立派なたぬきだ)

日本のタヌキといったら、もう、妖怪伝承のなかでこれでもかと沢山でてくるわけだが
本質的には、前回このカテゴリーに紹介した「小僧系」の妖怪のほとんどは、化けだぬきであるように感じられる。


このブログでは、ずいぶん里見八犬伝のことを書いているのであるが、
さて、里見にとりついている「玉梓」の正体は何か、ということの言及をしてみよう。

先に「刑部たぬき」の名称を確認すると、
「隠神刑部」とかいて「いぬがみ ぎょうぶ」という。

この音を通じさせて「犬神」というあらたな呪術信仰もあったりするのだが、
とにかく、この神格に近いタヌキは、犬の守り神のような雰囲気すらもあるわけである。

さて、馬琴はどこまでこれに目をつけたか、はなはだ想像の域をでないのだが、
「刑部だぬき」の講談が馬琴に届いたであろう時期と
それを参考に「八犬伝」を書いたとすれば時期は見事に一致する
(どちらも1800年代初頭で、刑部だぬき講談は1807年前後、八犬伝は1814年から刊行)

と、いうわけで、
八犬伝で重要な役割を果たす「八房」というワンコに乳をやって育てるのが、
「いぬがみ」という性質のあるタヌキ、と馬琴は描いたのではないかと、私は考えている。


八犬士の父親は三人いる。
この「八房」という犬。現実それぞれの父親。それと金碗大輔(いわゆる「チュ大法師」)である。
(ちなみに、信野、現八、大角などには、さらに「育て親」の存在もあり、ややこしい)


で、この八房を育てたのが玉梓が怨霊であって、いぬがみタヌキである。

もうここらへんになると、里見八犬伝を読みこなしていても理解するのが難しい話になるのだが

八房をそだてたのが玉梓であるとすれば、
八犬士の祖母にあたるのが玉梓ということになり、


かつ、
八房そのものにも玉梓の怨霊がとりついて
「この世の煩悩の犬」であるものを「伏姫」に孕ませたわけだから

玉梓は、八犬士の母親でもある。

八犬士には、これによって、母親も、
伏姫、現実に産んだそれぞれの母、玉梓、と、三人いることになる。

とにかく、二重三重に、玉梓というのは八犬士の肉親(というか執念)である。


で、玉梓というのは、最初は毒婦(人間の女性)であるのだが、
その後まっさきに取り付くのがタヌキだということで、本来的にタヌキがその正体ということになる。


日本には狐狸という言葉があって、化かされるのなんのという話になるわけであるが、


馬琴は「毒婦・玉梓」を「タヌキ」にしたのである。

中国では、傾国美女は「キツネ」、いわゆる九尾のキツネなどが主流であるし、
日本文学や伝承もその傾向を受けてきているのだが、

馬琴としては「本来的にキツネは神」という姿勢で里見八犬伝を書いている節があるので
「傾国美女がタヌキ」という当時としてはオリジナリティあふれる文学解釈で八犬伝の冒頭を書いたのだろう。

里見八犬伝は、登場人物の名前に意味がある。
難しい漢字だと庶民に読めないかもしれない、という配慮ではないかと私は推測するのだが

とにかく、
「伏姫」は幼少に病がちで伏せっている状態と、ニンベン(人)と犬を組み合わせた中間者という性質が読めるし
「チュ大法師」は、恋敵(という言い方もどうかと思うが)である犬の八房、犬の字を、点と「大」とに分けた名前である。

すなわち、玉梓にも意味はきちんと存在する。

以前のブログ記事にもどこかに書いているが、
「玉梓」といえば和歌の枕詞で「メッセンジャー」のことであるという解釈もできるし、
さらに、解釈すると、


これはもう、
「たまづら」
という音から類推している言葉だということもできる。


たまづら、といえば、たぬき顔である。

西遊記に「玉面」という人物がいることをご存知だろうか。
牛魔王の愛人で、やっぱりタヌキの妖怪である。
正式には「玉面公主」(ぎょくめん こうしゅ)とよびならす。


と、いうわけで、玉梓といえば、タヌキなのだが、

「新・里見八犬伝」(ゲーム)でのタヌキの扱いといったら、最弱の敵の次に強いくらいのもので
少々、ものがなしい扱いを受けている。
「新・里見八犬伝」では、玉梓は、完璧に怨霊であるとか闇からの使者であるとかいう象徴であるから、
もはやタヌキではなくなってしまっているのだろう。


また、
2006新春ドラマスペシャル(TBS)の「里見八犬伝」は、
「牡丹の花に巣くう蜘蛛」である。

この解釈も素晴らしいものだと思う。
里見家の家紋を牡丹として、まとわりつく蜘蛛が玉梓なのだ。



蜘蛛の巣に 春雨やわく みずたまは 風に泣きけむ 女郎なるかな


と、

……いつも以上に適当な短歌がいま頭のなかに閃いたので詠んでみたが、


八犬伝というのは、
男だけが活躍する物語ではない。

というか、男は女装してたり妙にボーイズ・ラブな雰囲気(あくまで雰囲気)があったりして
大衆ウケをねらった活躍ぶりを描いているところが大きい。



が、八犬伝は、壮大に女の物語であると私は主張する。

馬琴が最初から女の物語にしようとしていたかは、

自身の目が見えなくなった後に、
口述筆記をしていた「おみち」(馬琴の長男の嫁、つまり義理の娘)
の影響もあったことだろうし、

微妙なところだとは思うのだが



玉梓は、玉面公主、女の嘆きや苦しみ、である。

風に戸惑う蜘蛛であり、糸に満天きらめく星屑涙を散らすかのような業をもつ。



伏姫と同様に、八犬士の母である、ということは、

母というものにある二面性のうちの一方、ということもできる。



「あはれとも~」という歌をご存知だろうか。
百人一首にもある謙徳公の拾遺集の恋歌だ。

あはれとも いふべきひとは おもほえで みのいたづらに なりぬべきかな

かわいそうだ、と言ってくれるだろう人は思い浮かびません、そしてそのまま(私は)死んでいくのでしょう。

という、
恋する相手に「哀れだと思ってくださらないなら死にます」的な脅迫的な熱烈さのある歌なのだが
(現代でやったら「勝手に死ねば?」とか言われそうな……)

玉梓の場合は、
「人を哀れまないような世の中ならば、世の中のほうこそ滅んでしまえ」
という感じで、化けてでてくるわけである。



どうも、
最近、民俗や妖怪のことをいろいろ考えてみると
タヌキというのはこういうことを教えるために人を化かしているようにも見えてくる。



あはれとも いうべきひとは おもほえで
だから、玉梓は嘆いている。



可愛そうだと言ってくれる人がいない。
女の涙の本質である。








これこそが、玉梓の正体であろう。








豆腐小僧が見ている

2011-04-23 19:00:00 | 妖怪、伝説、伝承


日本の妖怪というのは、




おそろしげなヤツばかりではない。






というか、



文献上、特に悪さもしないし、
なにやってんだかよく分からないお茶目な奴ら、というのは少なくない。



私がそういうワケ分からない奴らに分類した筆頭は、
なんといっても「あぶらすまし」である。


おそらく、こいつは、全ての妖怪のなかでも最も意味不明なヤツだろう。
たぶん、座敷わらしの一種とみなすことができるのだろうけれども、

行灯のあぶらに不純物が入って、炎が揺らめいてしまうようなとき、
その油と炎を調整するためにあらわれるのだ、と私は勝手に解釈している。

描かれる「あぶらすまし」といえば、やや年寄りらしい風貌であるから「わらし」ではないのだが、
伏し目である、というくらいしか特徴がなく、まぶしそうな表情をしているといえなくもない。


とある地方には、
夜中になると行灯のアブラをなめる赤ちゃん、しかし顔は百歳を越えるかのような老人
という妖怪伝承もあるのではあるけれど、これも「あぶらすまし」なのだろうか。


いずれにしても、基本は、能力をもたない妖怪と言っていいのではないかと思う。



妖怪らしい能力をもつ妖怪は、それはそれでいいのだが、

能力のあまりない妖怪という奴らが、日本ではいとおしいものであろう。


基本として、能力のあまりない妖怪というのは、
いわゆる「おどかし系」というべきものであって、

「あぶらすまし」は、行灯が一瞬暗くなったときに、
ふっと、灯りの影にあらわれる妖怪なのだと思われる。

少し現実的に考えると、
そういった、光が一瞬届かなかった部分に、人間は恐怖を感じるのではないだろうか。
そこに、だれかいるような気配がする、というとき、
『「あぶらすまし」がいた』と言ったのではないかと考える。


さて「おどかし系」妖怪の特徴は、

「あぶらすまし」は別としても

たいがい「舌が長い」ということにある。



人間がふだん隠している部分を、表に出す。
ということ自体、日本では、忌み嫌うものであって、

ちょっとばかり昔の「あっかんべ~」(相手に侮蔑をしめすために、舌やまぶたの裏を示す行為)
というものにも残っている。

「あっかんべ」は、舌だが、とくに、まぶたの裏を見せるときは「あっかんめ」とも言う地方がある。
そのまま、「赤、目」である。

「メ」にしても「ベ」にしても、陰陽で考えると陰であるから、
なるほど、こどものいたずらでありはすれど、結構な「呪い」と同等の形式をそろえている。


さて、話が逸れていったが、
小僧妖怪の種類は、舌を出している妖怪が多いことが想像できる。

もともと小僧妖怪の系等は、夭逝した子どもが帰ってきていたずらする姿のような面が大きいので

いたずらであり、おどかしである、舌をだした姿がよく現れやすくなるのであろう。


で、豆腐小僧である。
これも、たいがいは、舌をだした姿で描かれるものと思われる。
典型的な「能力なし」の「おどかし系」妖怪の姿である。


豆腐屋の朝は早い。
あさの時間帯を「かわたれ時」「かはたれ刻」といったりする。

夕方のことを「たそがれ時」といったり「逢魔刻」「マジックアワー」といったりするのだが、

いずれも、太陽そのものは見えないのに、薄明るい時間帯をいう。


人と魔との活動時間の入れ替わりの瞬間である。
この時間帯というのは、人間の感情が一番ザワザワした瞬間でもあって、
ブロードウェイは「ミュージカル」を見る時間としては最適という風習がある。

たそがれ、とは「誰ぞ彼(たぞかれ)」の音変化である。
意訳すると「あそこにいるのはだれかしら」という、
ちょっと離れたところにいる人が、人であるか魔であるか分からない薄暮の時間帯だ。

かわたれ、も、ほぼ同様である。こちらは朝であるけれど
「彼は誰(かはだれ)」という意味だから、ほとんどそのまま
「かなたにあるのはだれかしら」である。


すなわち、豆腐小僧は、
豆腐屋の朝、未明~明け方の妖怪かもしれぬ。朝方妖怪である。


いや、豆腐屋といったら、夕方にラッパを吹いて町を自転車で漕ぎ歩くものだ、と
そういう知識をお持ちのかたもおられるかもしれぬ。

たそがれ妖怪か、かわたれ妖怪か、この疑問に答えるに、

さきの「あぶらすまし」と同様に、絵解きを試みる。


つまり、豆腐小僧は、舌を伸ばしている。

さて、妖怪の中で舌を伸ばしているというと、
風呂場に巣くうって垢をなめる「あかなめ」というのがポピュラーだ。


すると
豆腐小僧は、おどかすためだけに舌をだしているのではないのではないか、という仮説に行き着く。


名前からして、豆腐をなめるためなのか、と考えながら、
それならば、なぜ豆腐を舐める必要があるのか、と。


できあがった豆腐を舐めるのがこの妖怪ではない。
豆腐をクズすようなことはしないと考えられる。
いつも豆腐小僧は、両手の皿の上に、真四角の豆腐を捧げ持っているのだから。

たまにはプリンでも持たせてやりたくなるが、
いずれにしても、よくできた豆腐を見守るかのような、一種のアニマなのだ。


日本人は、いつも、誰かに見られているような感覚が、民族的にあるらしい。
これは「あぶらすまし」も同様であった。

悪さをするのではなく、ただ見ている精霊的存在。
無生物に生命エネルギーが宿ると想定して、薄暗がりからは、そうした魔がいつも見ている。



ネイティブ・アメリカンのことわざにも「ジャッカルが見ている」というものがあったりする。

豆腐小僧は、豆腐を見る。
豆腐を作る過程を、かわたれ時にみる。
そして、豆腐の形を崩さぬ味見を、どこかでする。


このことから、豆腐小僧の舌は、

豆腐の凝固のための「にがり」を調べるものなのではないか、と考えている。



考えているからどうだということもないのだが、


むかしの豆腐屋は、自分の職人だましいのようなものから
自分を鳥瞰してみつめる「豆腐小僧」という妖怪を、朝ぼらけのなかに見つめたのではなかろうか。



それは、ひょっとしたら、自分が子どもの頃にあこがれた職人に
自分が、いま、きちんとたどりついているか見守る、自分自身の子どもの頃の心であるかしらん。


無生物にアニマ(生命力・思考力)を宿し、

あるいは、それが、

アニメの題材になるというのが、日本の根底の文化にあるように見える今日このごろである。


「豆富小僧」というタイトルの映画ができるのだそうだが、はてさて。



この映画のタイトルを聞くたび「バトルロワイヤル」という映画が思い出されるのはなぜだろう。