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幻水ティアクライス(DS)異説解1

2011-04-30 10:00:00 | 幻想水滸伝ティアクライス(DS)


嬉しいことがひとつ。

ティアクライスの記事がこのブログにあることで、

とあるブログで、
このブログをご紹介いただいた。


……実は、
そのブログというのが、私がわりとよく見に行っていたブログであって、
自分がブログを始めようとした、きっかけのひとつでもあった。


私のブログが紹介されていることに、全く気づいていなかったのだが、
見た瞬間、私の心に衝撃が走った。

思いもよらぬ、感動であった。


さて、占い士でもある私が

「やってみなきゃわからねぇ」

を主題とするシナリオのゲームを云々するというのは、
あちこちから非難が舞い込んできそうではあるのだが、

まあ、それは、仕方がない。

ことわざにも
「百聞は一見にしかず、百見は一行にしかず」
という言葉もある。


さて、そんなわけで、
「やってみなきゃわからねぇ」という主人公に対する敵というのは、

「未来は決まっている」という思想集団である。

さらに、
「未来は決まっているのだから、あるがままに受け入れろ」
と、その教義が深化する。






なんとなく、仏教思想、
しかも、大乗仏教、


浄土教のような雰囲気を感じる。

このあたりは、
輪廻転生、来世利益で考える宗教であり、


現状が辛い→来世に希望→来世に導き、すがれるものが本尊→他力本願

という構造をしている。


で、
仏教を専門に研究されているかたなどの知見を無視する形で話を進めると

浄土教というのは、
阿弥陀如来に西方浄土へ招いてもらう宗教だと考えておく。

輪廻などの「前世・来世」というのは、
思想をきちんと読み解くと「地球上で幾度も生まれ変わりをなしている」のではなく
「どこか見知らぬ宇宙のかなた(谷川俊太郎)」で生まれ変わっているような雰囲気がある。

西方浄土にしても、
「無量寿経」などに、その場所が書かれているが、
とんでもなく遠くて、明らかに宇宙空間に飛び出して行ってしまう、と見ることもできる。



「あるがままを受け入れる」のは、仏教では悟りへの修行のひとつである。
心を迷わさないことで悟りが成就する。



これがティアクライスの「ひとつの道の成就」というものと極めて近しい関係にあるのだ。

宇宙のかなたにある極楽浄土の世界へ進んでいこう、とする宗教は
百万世界における「世界をひとつに、未来をひとつに」というお題目に似ている。



まあ、これだけだったら、
ただの仏教批判で終わってしまう作品なのだが、


ティアクライスは、さらに思想文化に詳しい一面がある。


この「ひとつの道の成就」
一般大衆にとっては、そうした他力本願の宗教でしかない、のだが。


これのボス、ベルフレイド閣下というのは、
「よい未来しか見えない世界」を呼び起こし
現世利益にしようとしている。


仏教で考えると、
この現世・地球に、阿弥陀如来を連れてきて、
地球そのものを極楽浄土にしようという話である。


「極楽100年の修行は 穢土1日の功徳に及ばず」
といって、現世の一日を大切にせよ、という教えがあるのに、真っ向から対立するわけである。




ベルフレイドは、そうした意味では、まがいもの仏教である。



しかし、ベルフレイドは、
ある仏教の思想史になぞらえて、ひとつの道を成就させようとしている、と私は考える。


ルネサンスの少し前の時代。
仏教が少しずつ西洋に流れると、なぜか黒魔術が宮廷で流行りだす。


仏教の思想を模倣しながら取り入れ、
かつ
キリスト教には受け入れられないために魔術として伝わっていくわけである。

当時の西洋の感覚で仏教をとらえると、
とんでもなく歪んだものが完成していき、

いまも伝わる黒魔術のいくつかは、仏教的な要素を含んでいる。



いわく、
「現世利益を生むためのイケニエの儀」
という黒魔術の伝統は、系譜として仏教の流れを汲んでいるのである。





この精神文化にかかわるリアルさに、

このゲームがただものじゃないところを感じるのだ。





と、誰もそこまで意図していない可能性はあるだろうけれども。






幻水ティアクライス(DS)キャラ読み1(ドガ)

2011-04-16 18:00:00 | 幻想水滸伝ティアクライス(DS)



ドガは

無口で無愛想で変わり者なおじいさんである。

しかし、ツンデレ要素があることと、
決戦前夜にとある暴露をすることで、

思いのほかファンは多いことと存ずる。



この人物の
現在の行動様式と、過去の出来事とは、
かなり密接に関係しているように、私には思われる。

では、キャラを読んでみよう。


Q1:なぜドガはチオルイ山に詳しいか?

テハの村で、山のことはなんでもわかる人物としてドガの名はあがる。
実際に雪崩を主人公たちの目の前で当てて見せたりする。
山の達人であることは間違いないが、なぜ、こうも詳しいのか。

考えるに。
チオルイ山に30年ほど住んでいるのだ。
本人の言葉から「山の声を聞き、山の表情を見れば」
つまり、長年住んでいるから分かる
五感から入る細かな情報が、山歩きをたすけるのである。

しかし、それだけではないと私は考える。
ただ住まうだけでそう詳しくなれたのではない。
30年、山の隅々を、歩いていたからだ。

すると、当然、次の疑問が生まれる。



Q2:なぜ30年間も山の隅々を歩いたか

自分の目の前には二度と現れなくなった人を
探すためだったのではないか、と考える。

30年前、ドガは雪女を退治しようとした、という。
油断させるため、友だちになるふりをしたのだという。

それが相手にバレて
雪女はボロボロ泣き、それ以降、姿を見せなくなった。
その雪女を捜しているのである。

ドガから聞ける話を、より深く考えると、

「友だちになるふりをした」というのがドガの照れであったように感じられる。

すなわち、次の疑問を精査する必要がある。



Q3:なぜドガは雪女退治をしようとしたか

通常の英雄譚であれば、
村の皆に乞われて、「人をおそう雪女を退治してくれ」といわれたと考えられるが、

どうも、そうではないと考えられる。

むしろ「雪女がでる」という噂をきいて、
「退治すれば人の役にたてる」と考えたのが若き日のドガだったのだろう。

ドガ自身のことばだと「そのまんまにしとくわけにゃいかなかった」わけだが
退治して、
村人から感謝されることで、
村になじもうとしたのではないかと感じられる。

村社会であれば、
「男たるもの
頼られて、はじめて一人前である」
という気風もあろうかと思う。

とにかく、村の一員となるべくして、
すなわち誰かにあてにされ、孤独ではない者になろうとして
雪女退治を引き受けたことだろうと考えられる。

これによって、件の雪女と、境遇が似てくるのだ。



Q4:なぜ雪女に、退治しようとしていることがバレたか

友だちになるふりをしたのではなく、
実質的に、友だちになったのだと私は思っている。

ドガは、雪女がなぜ人に雪を浴びせるのか、
その理由を聞き出しているらしい。

いわく、雪女は
「雪がおいしい」から、みちゆく人にも食べさせたいのだ。

たったひとり、雪山にあって、
誰かに感謝されたいと思っているのがこの雪女。

「雪山では、親切にする」ことを信条に、
雪をおごっているというハタ迷惑な妖精である。

これを聞いたとき、
先ほど想定された若いドガが
どのように感じたかは想像に難くない。

「人の役にたちたい」と思い焦がれる
ひとりぼっち同士が出会ったのである。

だから、雪女退治のことはバレたのではなく
ドガ自身が自分から告げたのだと考える。

ドガに残ったのは後悔であり
以降、雪女を捜し続けることとなったのではなかろうか。

性格からして、謝ることはできなかっただろうが、
謝りたい気持ちがあったのではないかと、私は信じている。



Q5:ドガが無愛想なわけは

こうした過去から、
人の役にたとうとすることは
誰かを深く傷つけることになるかもしれないことを
ドガは悟ったのだと考えられる。

ゆえに、
ツンデレな性質が助長される。

人が傷つくかもしれないと思った瞬間に、
文句をいいながら人助けスイッチがはいる。

自称の弟子であるナズが困惑すると
いじましくも頼れる山男になるあたり、
すさまじい描写である。

人と、できるだけ関わらないように
関わると誰かを傷つけるかもしれないと思いながら、
本質はかわらず、誰かの役に立ちたいという人なのだ。

それを、ナズという子どもは見抜いていた。

もう一点、人と関わりたくなかった理由も考えられる。

ドガは若い日に噂を鵜呑みにするほど言葉を誠実に受け止める人のようだが、
人は、ほかの人の言葉の機微に疎いのだ。

村人たちは、雪女ときちんと言葉を交わしただろうか。
その言葉の奥にある雪女ならではの優しいものに気づいただろうか。

……気づくはずもないのだが、
ドガも、口下手なほうであるから、
村人たちに言葉を誤解される可能性が十分にあったわけだ。

ゆえに、村には、めったに顔を出さなかった。
自分が誤解されるよりも変わり者としていたほうが、気楽だったのであろう。



宿星は「天異星」

「水滸伝」の原文に還ると、
天異星をもつのは劉唐という人物になる。

生辰綱・略奪計画の発案者であり、
108星が集まることになる「新生・梁山泊」の初期メンバーのひとりだ。

と、いうことは、
「水滸伝」の本格的なストーリーの口火を切る人物であり、



ドガとは、、、


毛深い?ところが似ているという解釈でよいのだろうか。





「天を異す星」であるから、
本来は「流れ者」という性質がドガにはあるのだと考えることもできる。


少なくとも30年、テハ・チオルイに留まってはいたものの、
それ以前は無頼だったのではないかと考えている。






幻想水滸伝ティアクライス(にんてんどう・でぃーえす)

2011-04-13 03:30:00 | 幻想水滸伝ティアクライス(DS)


脚本のすばらしさ。
これに尽きる。

魅力的な女性キャラよりも、
魅力的な男性キャラが多い。

と、私は考える。


恋愛要素が綺麗さっぱりないといって過言でないのに、
おもわずキュン死しそうになった……


いや、それも、一度や二度のことではないあたりが凄まじい。


いや、もうちょっというべきことはあるようだ。





・ストーリーの構成:プレイヤーに疑問を抱かせ、それがだんだんと解けていく爽快さ
・感情移入の度合い:このキャラならば当然そういう感情でそういう行動をとるだろうという納得感
・キャラクター個性:ひとつのセリフでそのキャラクターの性格の分かる単純さ
・主題の演出の方法:なぜ戦い、なにと戦っているのか、世界観の描写のたくみさ
・芯にせまる名台詞:論理の正しさを超えて生き方をきらめかせるような力強さ
・声付き台詞の流麗:声で個性や感情や世界観を演ずるにあまりあるほど心地よい台詞運び


上記、6点。

泣けるし、笑える。

一遍の小説を読むよりも、
ときに秀逸な漫画やゲームには、学べることは多いと考えてきたものの。

実際にそれを軽く凌駕してくれる作品であるように、私には思われる。



のちのち、この世界もブログで紹介していきたいものと考える。