「謝」の訓読みは「あやまる」であり、
日本語ではほかの意味(訓)がつけづらい。
「ありがたいと感ずること」を「感謝」という言葉で表現することはできるが、
そもそも「ありがたい」とは「有り難い」であり
「自分などのために特別な計らいをしてくれるとは、なんとマレなことであろうか」という
日本の奥ゆかしく、回りくどいだけの言葉ですらある。
「謝」の文字の構成をとくと
「言」によりて「射」る、とでも解釈できようか。
漢字は古代中国の神を伝えるものだ。
「言」とは神を賞賛したり訴えごとをするための「のりと」
「射」は弓を抱えた身体であって、遠くへと神の威光を届かせる「弓打ち」である。
日本で言えば、あずさゆみとか破魔矢とかというものに似るのだろう。
「謝する気持ちは、遥かかなたへ飛ばしたいもの」ということは多い気がする。
J.S.バッハの「主よ、人ののぞみよ喜びよ」という曲があるが、
このタイトルもよくよく考えれば、神への感謝。
世界に生かされることを唯一神そのものに託し、
われら人がのぞむ平穏そのものが神であり、
またそれを喜び、感謝するというものであろうと思うのだ。
「ハレルヤ」という言葉もある。
喜びと感謝が寄り添って、人は神ならぬ身で神の心となるのだ。
私は「興味は幅広い」と自負するが、
基本的に「極めるにいたらない」という欠点がついて回る。
世の中には、とんでもない才人は多いもので、
私は時として「極」を持ったオタクと呼ばれるひとにも憧れを抱いたりもするのであるが、
そこはそれ、
最終的に自分は他人にはなれぬ、なりかわることはできぬのだからいたしかたない。
占いの業界では派閥や門下や師弟関係が、
どうにも相撲協会の比ではないほど染みついているので、
まるっきり師匠や憧れの占い師のコピーとなろうとする者も少なくないのだが
(稼ぎが大きくなるのが主たる要因のような気もする)
運命学の観点からしても、
自分のありかたをゆがめているのだから、
それに気づかない占い師とすればイマイチと評せざるを得ないものである。
(誰かを参考にするのはまた別の話。ここでは「なりすまし様なもの」が問題)
さて、
私は説話や伝承、神話、おとぎ話などを好む。
同時に児童文学もかなり好きだ。
そして、いわずもがな、ゲームやマンガも愛する。
これらの共通項は、教訓である。
寓話(でないものもあるが)のなかに、子どもが生きるための智恵が眠っているからである。
どれだけ歳をとろうとも、人間はこの宇宙に寄生したガキ(餓鬼)のようなもの。
飢えを知り、枯渇を知り、なおもって、頭や体を働かせ
それらに抗い生きていこうとする。
分かりやすく他者を追体験するに、児童文学は最適、
かつまた、RPGやマンガは、よりとっつきやすい。
(とっつきやすくとも、これらに「取り憑かれる」のは問題があろうけれど)
今日はマンガ読書の日だった。
よき教訓を得た。
エンターテイメント性も格別であれど、
そのストーリーが私に何かを与えてくれたと思う。
「いつか感謝を伝えたい」と思う作者が、いままで何百人いたことだろう。
これは、マンガにしても、他のさまざまなものにしてもそうだ。
遠くまで届かせたい「謝」が、私のなかにふくらむのだ。
世に著わしてしくれたことへの感謝、
この作品に出会えたことへの感謝、
恍惚と、この気持ちが嬉しいということが、どれだけ「有り難い」ことなのか。
幼い兄弟が思い浮かぶ。
弟が、好きで好きでたまらない絵本に、その作者に、
その思いを伝えたかった。
けれど弟はまだ文字が書けず、兄がただ
ひとこと「だいすきです、おとうとより」と葉書をだした。
ひとことに、どれほどの思いがこもっていただろう。
兄の気持ち、弟の気持ち。
その作者、かつての私は、それをどれほどいとおしく思ったろう。
だから、伝えようと思うのだ。
今日、読んだマンガの一部
「マギ」大高忍 小学館
「ワンピース」尾田栄一郎 集英社
「ぬらりひょんの孫」椎高寛 集英社
心からの感謝を。
このストーリーが、いま現在の世に送られてくることを。
そして、この作者のかたがたが、喜びをもって仕事をされていることを、
特に感謝したい。