多趣味多彩

雑多な書き散らしブログ

竹の花、咲く

2011-05-26 08:00:00 | 日記


百年に一度、とか言われるのだが、
私の家の裏手の竹林は、30年ほど前まで四六時中、花を咲かせていた。

その竹林はだいぶ伐採したのでいまはもう花が咲かず、毎年すこしずつタケノコがはえる程度なのだが、


今日は散歩気分になったので夜明けとともに珍しい方角へ足を伸ばしてみた。



と、花の咲いている竹林にめぐりあった。


雪化粧の竹も好きだが、花の咲く竹もまた趣き深い。








謝するを感ずる

2011-05-25 16:00:00 | 日記


「謝」の訓読みは「あやまる」であり、
日本語ではほかの意味(訓)がつけづらい。


「ありがたいと感ずること」を「感謝」という言葉で表現することはできるが、

そもそも「ありがたい」とは「有り難い」であり
「自分などのために特別な計らいをしてくれるとは、なんとマレなことであろうか」という
日本の奥ゆかしく、回りくどいだけの言葉ですらある。


「謝」の文字の構成をとくと
「言」によりて「射」る、とでも解釈できようか。

漢字は古代中国の神を伝えるものだ。
「言」とは神を賞賛したり訴えごとをするための「のりと」
「射」は弓を抱えた身体であって、遠くへと神の威光を届かせる「弓打ち」である。

日本で言えば、あずさゆみとか破魔矢とかというものに似るのだろう。


「謝する気持ちは、遥かかなたへ飛ばしたいもの」ということは多い気がする。


J.S.バッハの「主よ、人ののぞみよ喜びよ」という曲があるが、
このタイトルもよくよく考えれば、神への感謝。

世界に生かされることを唯一神そのものに託し、
われら人がのぞむ平穏そのものが神であり、
またそれを喜び、感謝するというものであろうと思うのだ。

「ハレルヤ」という言葉もある。
喜びと感謝が寄り添って、人は神ならぬ身で神の心となるのだ。



私は「興味は幅広い」と自負するが、
基本的に「極めるにいたらない」という欠点がついて回る。

世の中には、とんでもない才人は多いもので、
私は時として「極」を持ったオタクと呼ばれるひとにも憧れを抱いたりもするのであるが、

そこはそれ、
最終的に自分は他人にはなれぬ、なりかわることはできぬのだからいたしかたない。


占いの業界では派閥や門下や師弟関係が、
どうにも相撲協会の比ではないほど染みついているので、
まるっきり師匠や憧れの占い師のコピーとなろうとする者も少なくないのだが
(稼ぎが大きくなるのが主たる要因のような気もする)

運命学の観点からしても、
自分のありかたをゆがめているのだから、
それに気づかない占い師とすればイマイチと評せざるを得ないものである。
(誰かを参考にするのはまた別の話。ここでは「なりすまし様なもの」が問題)



さて、
私は説話や伝承、神話、おとぎ話などを好む。

同時に児童文学もかなり好きだ。

そして、いわずもがな、ゲームやマンガも愛する。



これらの共通項は、教訓である。

寓話(でないものもあるが)のなかに、子どもが生きるための智恵が眠っているからである。


どれだけ歳をとろうとも、人間はこの宇宙に寄生したガキ(餓鬼)のようなもの。

飢えを知り、枯渇を知り、なおもって、頭や体を働かせ
それらに抗い生きていこうとする。



分かりやすく他者を追体験するに、児童文学は最適、
かつまた、RPGやマンガは、よりとっつきやすい。
(とっつきやすくとも、これらに「取り憑かれる」のは問題があろうけれど)



今日はマンガ読書の日だった。
よき教訓を得た。

エンターテイメント性も格別であれど、
そのストーリーが私に何かを与えてくれたと思う。



「いつか感謝を伝えたい」と思う作者が、いままで何百人いたことだろう。
これは、マンガにしても、他のさまざまなものにしてもそうだ。


遠くまで届かせたい「謝」が、私のなかにふくらむのだ。


世に著わしてしくれたことへの感謝、
この作品に出会えたことへの感謝、

恍惚と、この気持ちが嬉しいということが、どれだけ「有り難い」ことなのか。






幼い兄弟が思い浮かぶ。

弟が、好きで好きでたまらない絵本に、その作者に、
その思いを伝えたかった。

けれど弟はまだ文字が書けず、兄がただ
ひとこと「だいすきです、おとうとより」と葉書をだした。

ひとことに、どれほどの思いがこもっていただろう。

兄の気持ち、弟の気持ち。


その作者、かつての私は、それをどれほどいとおしく思ったろう。




だから、伝えようと思うのだ。

今日、読んだマンガの一部

「マギ」大高忍 小学館
「ワンピース」尾田栄一郎 集英社
「ぬらりひょんの孫」椎高寛 集英社



心からの感謝を。

このストーリーが、いま現在の世に送られてくることを。



そして、この作者のかたがたが、喜びをもって仕事をされていることを、
特に感謝したい。








コーヒー占い(カップ占い)について

2011-05-19 05:00:00 | 占い、占術


私にとっては日常的によくやる占いのひとつなのだが、
相談者さまに使うことがなくなってきた占術のひとつで、
そういえば日本の占い師の業界のなかでは
灯火が消えかかっているであろうと考えられる占い術のひとつとして
「コーヒー占い」というものがある。

昭和後期は喫茶店の流行とともに若干のブームとなったような感じはあるが、
さても、私のやり方はその当時の占い方法であるかどうか疑問もあるものの、
ついえさせるのも勿体無いことであるので、

また、
ブログに晒しておけば誰かの目に留まるかもしれぬという希望的観測のもと
この占術について遺しておこうかと思う。



さて、毎度のことながら前置きが長いが、

この占いについて
「簡易ロールシャッハ・テスト」とどこかに書かれていたのが印象深い。

いわゆるロールシャッハとは、
鼻をかんだチリ紙を開いて、鼻水がどういう図形に見えるか、
(↑はげしく誤解のある見解である)
その回答によって性格検査を行うものである。
※臨床心理学のロールシャッハ・テストは誤診すると人格に危険を及ぼすこともあるので取り扱い注意。
※※誤診については通常の占いでも注意が必要なのは言うまでもない。


カップ占いの系統は、実にロールシャッハに近いものがある。

そのため、
偶然事象をもとにする「卜」に分類すべき占いでありながら、
問占者がどんな人なのかを考える「相」の分類のほうが近しいと考えられる。


この占いは「とごり」ができる飲料が不可欠である。

他の単語で表しようがない概念を方言のままで使うのは私のポリシーのひとつだが、
「とごり」とは愛知の方言である。
日本の喫茶店文化にも愛知は造詣が深いように思う。

「とごり」とは、液体中にできる何らかの澱み(よどみ)のカタマリのことである。
もとの動詞形は「とごる」で、「よどむ」より印象として、固形部分が多い気がする。

「方丈記」の冒頭にある「ヨドミニウカブウタカタハ」の「澱み」に関しては、
「水の溜まり」という語感のほうが強いが、流れにならずに固まっている、という概念である。


私がカップ占いを教えてもらった人からは
「澱(おり)」あるいは「滓(おり)」といわれたのだが、
いずれにしても、日常的に使う言葉でないので説明が難しい。

ソムリエはよく使う言葉かもしれない。
ワインの滓とは「不水溶性物質が底にたまったもの」という感じだろう。



とあるお茶のペットボトルのCMに「お茶はにごり」とあるが、そのにごりのことだ。

急須で入れたお茶の底のほうに溜まる、細やかな茶葉のクズのことを澱という。
コレを飲み下すと、口の中がザラザラする。


田舎味噌の味噌汁も、漉さずにつくれば底のほうにカタマリができていることは多い。

ともかく、これらをここでは「とごり」と呼称する。


コーヒーは、最近の淹れ方では、とごりがほとんど生じないだろうと思う。

ペーパー・ドリップにせよ、ネル・ドリップにせよ、
基本的に目が細かいもので濾過を行うので、カスが通り抜けないのである。

日本でもできるコーヒーは、
エスプレッソの淹れ方の場合か。

トルコ式で淹れたコーヒーや、エチオピア・セレモニー式で淹れたコーヒーがやりやすい。

豆粉をカップにいれてお湯を注ぎ、上澄みを飲むカタチにするか、
あるいは、ヤカンに豆粉をいれてから煮出して、上澄みをカップに注ぐカタチにするか、

そういったやり方になるのではなかろうか。

おそらくコーヒー占いの起源から考えると
ヤカンに豆粉をいれてから煮出して作るコーヒーだと西欧式の占いとなり
豆粉をカップにいれてお湯を注いで作るコーヒーだと東洋式の占いとなるのではないかと思う。

起源は、
コーヒーの貿易によって富を得ようとした商人たちが船旅を占った占いではないか
と、思われるのである。

コーヒーの貿易を早々に断念したイギリスについては、
このカップ占いが、コーヒーではなく紅茶を使ったものとなり
魔女術の諸派ではなぜかコーヒー占いよりも紅茶占いのほうが伝承が多い。

コーヒー占いに関しては、いまだに中東アジアに根付いているように私は思う。

とくにトルコでは
コーヒーを淹れる女性が、よく行う占いであるというふうに聞き及ぶ。


実質的に、とごりがあれば何でも可能であろうとは思うのだ。
私自身は日本茶をティーカップで飲む習慣があるので、これで代用することが多い。

味噌汁でやろうとは思わないが、できなくはなかろう。
抹茶でもできる。

できないのは、ティーバックで淹れた紅茶である。
これも、とごりがほとんど出ないのが難点で、紅茶の場合は
ポットとストレーナと茶葉を使った淹れ方をすることになると思われる。



さて、実際の作法である。
とごりのある飲み物を、とごりが残る部分まで飲む。
飲みきったら、カップのソーサーを持って、水平に反時計回りに三度まわす。
(魔女術の諸派によると七回とも言われる)
カップをソーサーに伏せて、カップの余熱で、カップ内の水分がなくなるまで待つ。
カップの内面を見て、とごりが描いている無意味図形を観る。
この象徴図形に意味を見出して解釈していく。


コーヒーはもともと「ザムザムの聖水」とも呼ばれる。
あるイスラム教の教派によれば、コーヒーは「眠らぬ修行」のための飲み物である。


健康には悪いこともあると思われるのであまりお勧めはしないが、
この「眠らぬ修行」というのは要するに、ずっと眠らないことで脳の雑念部分を麻痺させ
悟りの境地のような脳波を故意に作り出すということだ。
(さらにイスラムならコーランを誦すわけだから、脳を揺らがせることになろう)


起きていながらにして夢をみているかのような脳波をつくりだすわけである。
シャーマニズム、いわゆる巫術に近い、恍惚状態、トランス状態、エクスタシー状態をもって、
日の出の瞬間を見つめるような心持である。



カップ占いで図形を観るときも、似たような精神状態であるとよい。
単純にいえば、ロールシャッハでもいわれる「第一印象」を大切にする、ということでもある。

これによって、図形に意味を求めるのに
「夢判断」「夢診断」がかなり的確にはたらいてくれることになる。


もっとも、
もとが「とごり」であるからして、夢の映像のようにしっかりとものごとが判別できる状態にないこともある。

「鳩」なのか「隼」なのか、とりあえず「鳥」と思いきや、角度を変えると「ナイフ」と見えたりするわけで
むしろ、そうやって考えて、
観えていることの断続をゲシュタルト心理のように考えることもできるかもしれないし、

あるいは、大原則とする「最初に感じたまま」を占断とするももちろん可能である。



また、象徴図形の解釈とあらば、
あらゆる神話に落ちているキーワードから連想を広げていくこともできる。


コーヒー占いは、アラビアの講談師が行った占いでもあるわけで、
その内壁に描かれた何がしかを、吟遊詩人のごとくストーリーを思い出すことで占いにもできるのだ。


アラビアの講談師といえば、ひとまず「千夜一夜物語」は語れようものであるから
カップの内壁に「鳥」と観るものがあったら、
すらりと「シンドバット、ダイヤの谷」くらい連想の幅があると良いものと思われる。
(↑ドラえもんの映画「ドラビアンナイト」にも出てくる部分なのでこれはさすがに有名な一節だが)



さて、図形の解釈については「夢判断」に準じ、かつ説話連想をスキルとしてもつとよいが、
さらに図形の現れた位置についても魔女術の諸派は伝えている。

あらわれた図形が
カップの底に近いほど、あるいは底であれば、遠くの未来を暗示し、
カップのふちに近いほど、近くの未来を暗示する、とされる。

また、取っ手に近いほど、自分のより身近の出来事であり、
取っ手から遠い位置の図形は、自分にかかわりがあるものの、やや遠い出来事としている。


いずれにせよ、カップ占いは吉凶判断に用いたり、
未来の出来事を夢想する富豪や貴族のお遊び半分の部分も強く、

「彼の気持ちはどうなんでしょう?」という恋愛相談には使い物にならないような気がする。
誰かの心情を読むのには、かなり使い勝手が悪く、

むしろ問占者が何を思っているのか
深層心理を推察するのには役立つことになると思う。



人間は、無意味なものに意味をもたらすことができるのである。
その人間が、どういう背景をもっていて、どういう世界観で図柄が観えているのか。

そしてもしその図柄のキーワードが不吉なものだったとして


占い士はそこにきちんと救いを見出せる引き出しを有しているか。

ときに吟遊詩人のごとく、
寓話を相談者さまにきかせることで慰め励まし希望を伝えることができるかどうか。

どんな占いも、魂を込めればひとの助けになることはできると信ずる。





もし、カップ占いをなさり、図形が観えることがあったら、
また、その解釈を詳細に知りたい場合は、ぜひ、ご連絡をいただきたい。





人生のやすらぎの一服を。

初対面の人間にもおいしいもてなしの飲料がだせることは、私の理想である。






見方によっては。

2011-05-18 05:00:00 | 魔法・魔術


かつて、西洋で、学問は三つであった。
神学、法学、医学。


とくに神学は、神の定めた世界の構成を知る
自然科学を兼ねていた時代もあったといえるだろう。


その、神学に立ち向かうことになったのが近代科学である、が。


その近代科学を芽生えさせたのは
魔術思想だったと思われるふしがあったりする。

まあ、科学のさきがけの時代であれば、
神学を否定することになる科学の思想も、
神学者からみればカテゴリー上「魔術思想」となんら変わりはない異端ではあったことだろう。

いずれにせよ、
「常識を覆そうとする」というのは、野蛮に見えるものである。


さて、天動説を唱えたとかいう時代、
その辺りにも魔術思想(どうもゾロアスター教系ではないかと思われるが)は巧妙に入り込んではいるが、

そこまで昔でなく、現代的なことを少し考えてみる。

まず「遺伝」あるいは「遺伝子」というものについて。
実は、かなり魔術思想がからんでいるのではないかと思うのだが、どうだろう。


「ソロモン魔術」の系譜をたどると、
この魔術師たちは遺伝子発見の前から、
そうとうに遺伝について考えていたのではないかと思われる。

いわゆる「能力者」が生まれないと後継者がいなくなってしまうために
人間同士をどうかけあわせると才ある者ができるのか?
ということを、検証したであろうことは想像に難くない。

ときとして、その時代には生きづらい障害者をも多く輩出した可能性があり
あるいは、現代の科学倫理に照らせば絶対に避けねばならない方法もとっていることだろうが、
親から子へ、何が受け継がれるのか、ということを調べたことであろう。



「性魔術」の分野においても
(諸派によってはエクスタシーそのものを巫術と同一視している部分もあるが、本当に目指したのは)
「地母神の甦」、すなわち己の輪廻回帰に近い。

あるいはもともと「ホムンクルス」を考えた「錬金術」系なども
己のコピーを創造すること、であろうかと思われる。

ケルトの魔術神ダグダについても
「死した兵を甦らせる鍋」というものをもっている。
現実的には「湯治」か「薬練」を示すだろうが、
男性性における「胎内回帰願望」の暗喩とも見える。

ダグダの鍋については、全く関係がないだろう
「中国房中術」にも似た雰囲気を感じさせる。
不老長寿の仙丹を作る道具、炉と鼎を、女性に見立てて、
身体の内なる薬を練る、というものである。

これも「性魔術」同様、脳波(シータ波)に影響をあたえる秘儀であると同時に
自己存続、あるいは己のコピー、あるいは遺伝子を遺そうとする行為に他ならない。

と、房中術には「先天的な力の源=親から受け継ぐもの」という解釈のある
「元精」という概念も存在し、
これは「遺伝子」にかなり近い概念であると言ってもよいだろう。



思想文化というレベルで考えれば、そういうことになるわけだが、
もっとも、馬や牛やといった家畜を育てた者たちであれば、
より「遺伝」というものを考えていたかもしれない。




ときとして、
「俗説」あるいは「オカルト」「まゆつば」とされることもあるわけだが
それを科学的に検証しようとする人間が現れるまで
蜃気楼を吐き続けることで、

実証できることもあるものである。



さきごろ、
「思考は現実化する」という言葉が流行したことがあったように思うが。

その前(二十世紀中盤?)には
「ある願望があなたの中に生まれる。
あなたは、それを実現する力があることに、同時に気づかねばならない」
という言葉もあった(J.S.バッハの子孫の言葉だったかと思うが)。




いやはや、魔術師(この場合、とくに魔女術の一派)は、
その遥か以前から、それを目的としたお茶目な研究をしてきたのである。



人間はなかなか本当の「脳力」を使いこなすことはできないものだ。

また、そんなことになったら社会性のある動物でなくなる懸念もあるのだが、


雑念をはらって「ぼんやりする」と
意外に、脳内は宝の山であったりすることもあるのである。




占い史観

2011-05-14 16:00:00 | 政治妄想


あくまで、妄想のほとばしりであって、
誰かと理論を戦わせようとかそういうことではないのであるが、


古来、東洋の占いでは、天災(地震)は政治が悪いと起こるものであると伝えている。

文化人類学的にどうなのか、という部分をすっとばして語れば、
それは最もなことであるような気はする。

私たち人間は、人間として成り立ったときから自然の猛威に警戒し続けてきただろう。
しかし、しばしば「人間は忘れる生物」であったために、

本末転倒にも「人間を結束させる力(まつりごと)」が、
「人間を離散させる力」に働くことがあるわけである。


昨今、ふりさけみれば、ねじれ国会は何年つづいたことか。

政治に期待したり、絶望したり、と、人々の心が乱れて、結束どころではないときに限って、
私たちは自然の猛威を「思い出させられ」「結束させられ」ているかのようである。

国が乱れれば、その均衡をとるために、人々が結束できるようなことが起こるものなのかもしれない。
(妄想であって、もちろん例外があることは重々承知している)


古代であれば、その国の乱れと、天災との責任を追及するため、
国のトップ(いわゆる「天子」というものであろう)を刑に処して
新たな旗の下に集結、政治を変えようと試みるという歴史もあろうが、

さて、現代。
国の実質トップとは何者か。



「民主党」

に政権をとらせた者が国のトップである。

それは、国民であるが、



強いて、ひとりの人物に集約すると、小沢一郎であろうと私は考える。


さらに妄想を深める。


かつて、日本がアメリカの属国同然となったとき
これを脱却するために中国と手を結ぼうとした政治家がいたかもしれない。

アメリカは日本に天皇を置くことを、しぶしぶながらも認めたが、
逆転するに、ある意味で天皇が日本をアメリカに売ったとみなした者もいたことだろう。


中国に尻尾をふり、天皇を処刑して、アメリカから独立(孤立)をはかろうとした者たちの計画が、
まだ生きているのではなかろうか、という妄想ができあがる。

ほんのちょっとのやり方の違いで、日本を中国の属国同然にしようとする計画なのだろうと思う。


そんなものが本当にあるのかどうか、
しがない占い士である私には確認しようもないのであるが、

そしてまた、その計画が実行されたとして
良いものなのか悪いものなのか、私には理解の範疇にないのであるが、

天皇を廃そうとするというクーデター的なたくらみが
占術の理論上は天変地異につながるような気がするのである。


あくまでも、妄想にすぎないが

また東日本、東北のかたがたのご不幸を、こんな憶測で片付けようなどとは夢にも思わないが



日本は、一丸となるという意味の「ひとつになる」必要が今まさにあり、
かつ
自立した一個の国として「ひとつになる」ことも
そろそろ考えねばならぬように思われる。