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前日の記事に添えるべき写真資料

2011-07-24 14:00:00 | 古代・民俗・宗教



正面。



やや近影。



胴体、裏側。



胴体、表側。



文化財としての説明看板。



さきぶれの幟。



当番提灯。



舞い手が交代中。



右見て、



左見て、




泣きじゃくる子供に噛み付く。



尻尾。



揉み。わりと全速力。



反対に揉み。かなり全速力。



担ぎ、内部。



頭の内部。



クチを開く。



耳が動く。



八幡からの帰途。



演舞。



演舞。



まだ帰らない胴体。



町を逆走。



神社に帰すために当番が待ち構える。



獅子と目をあわせられない「ささら」は待ちぼうけ。



頭部のほうが先に帰社。



吊り下げの太鼓をはずす。



八坂の神輿。



終えたあとの背中。


舘一番 獅子保存会

2011-07-23 21:00:00 | 古代・民俗・宗教


私にとって、一年でもっとも体力を使う二日間が毎年、この時期にある。

石岡市(旧八郷地区)祇園祭という祭典である。



通常「石岡のおまつり」と称される「常陸総社祭」と、
地域として似た特質を持ちながら、規模や歴史的観点から
やや異なるものである。


さて、この祇園にあたって、獅子がいかなる役割を果たすか。

昨今、解析的な研究が進み、
この獅子の頭部が室町時代にはすでにあったであろうことが指摘されている。

獅子頭の内部の印、納めている箱の銘、また古文書などにより
かなり歴史的な古さがあるものであることが知れた。



獅子頭といえば「常陸総社祭」といわれ、
時として関東三大祭りともいわれ、
また日本一の獅子頭といわれる巨大モニュメントも石岡市にあるのだが


実質的な歴史として、旧八郷の獅子のほうが古いものであるようだ。


そこで、
通常は、この八郷地区から石岡地区へ獅子が伝播したものと考えられるのだが、
それだとつじつまがあわない形状を八郷の獅子はもっている。



全国一般の獅子頭とも比較してみると、
形状に他にはみられない特徴があるのである。



まず、通常の獅子舞といえば、
たむらけんじさんの姿を容易に想像することになるが、


八郷獅子は、
とても一人や二人で舞いまわせるものではない。

杉や竹で井に組まれた5~6mほどの胴体、
およそ200kgはあるだろうか。

これを、大の大人が何人もで
肩に担いで、厳かに町を練り歩くものなのだ。


石岡市総社の獅子は、車輪があり乗り込み型の山車形状をとるが
八郷祇園の獅子は、人が担ぐことで徒御を可能とする。

通常の神輿よりは軽いものの、
筆の穂の形状をした胴体の、
筆でいう根元部分(太くなっている部分=頭をつける部分)は
かなりの重量があるものである。

さらに、胴体の中央よりやや後ろに、和太鼓が吊り下げられていて
これもまた、この付近だけやや重い。


子供の描く、夏休みの絵画でこの獅子がモチーフとなると
胴体から人の足がぞろぞろと生え出て、ムカデのようになっている。

多足はある一点で神性をしめすものであるから(ときに妖性も示すが)、
この獅子は多くの脚をもって地を駆ける力強さを示すものであろうか。


さて、この胴体に、紺地に白抜きの獅子巴紋をほどこしたながい布がかけられる。

獅子頭は、この布の先端に結び付けられ、
地の匂いをかぐように左右に首をふりながら歩くこととなる。

この獅子頭も特徴が満載である。

通常の獅子頭は、下あごがしっかりしている、
あるいは、歯並びが整然と、歯列を輝かせるかのようであるが、

八郷の獅子は下あごが薄い。
また、この獅子の舞は、通常、みだりにクチを開かない。

クチを開くのは、もっぱら、子供に噛み付くときである。



この地区に住むものは、かならずと言って良いほど知っている儀式だ。


町を練り歩く獅子の前に歩み出て、
賢く健康であるように、という祈願をかけて、
子供の頭を獅子にあんぐりと噛ませるのである。


この獅子頭も相当な重量がある。
交代はするが、これをひとりで持ち、舞い、子をアマがみするという動作は
なかなかに疲労のたまる動作である。

また、舞い手は布を常時頭にかぶせているカッコウで
息苦しく、暑苦しく、たいへんなものである。



さて、頭の特徴を続けると、
この獅子頭は、アゴヒゲではなく、クチヒゲをはやしている。
これもまた、珍しい特徴であるといえよう。

髪の毛もある。
あるいは、細かい技術で耳が動く。

毛はもとは馬の毛であったのだろうか。
黒一色であり、頭の朱の漆に濃い陰影を描いている。


重要な頭の特徴として、頭部、中央に、ツノがあることがあげられる。

通常、オニであるならば、丑を模すので、耳近くに二本となるのが普通である。
(鬼門すなわち丑寅の方角、いわく丑のツノと寅の毛皮)


なぜ眉間に一本のツノであるか。
実に珍しい特徴である。


タテガミといえるほどの髪ではないことや
クチを開かないこと、

諏訪神社からの徒御であること
(主神はタケミカヅチのミコト)


あくまで推論の粋をでないものであるが、
獅子と呼びながら、あきらかに獅子とは違う形状、
むしろ水の系譜の神に近いのではないかと考えられる。


古来の日本人にとって想像上の生き物であった
サイを模したものなのではないか?
と、思うのだが、決定的な古文書は存在しないと思われる。




諏訪神社から、祭りの開始を告げるべく、
もっとも最初に動き出すのが八郷獅子である。


舘(たて)一番という言葉がある。
獅子のある諏訪神社のある地域を特にこういう。

もっと正確を期すならば
舘(やかた)、すなわち武士の砦があった地域である。

江戸時代序盤には
春日の局の実子のひとりである稲葉正勝が治めていた地方でもある。


この祭りの始まりを告げる役割、
すなわち、神輿が町へと繰り出す前に、町をねりあるき
露払いをする、というのがこの獅子の祭典としての役割である。


この地区には、もうひとつ、同じく露払いをすべく、
「ささら」と呼ばれる三匹の龍頭も練り歩く。


ささらも獅子の一種と言えるようであるが、
頭に鳥の羽根冠があり、
こちらは残念ながらあまり詳しくはないのだが
風の神の系譜の雰囲気がある。

ささらは八幡神社より繰り出される。


獅子とささらは、
長年の伝統にしたがって、徒御の際、おたがい出会ってはならないという不文律がある。

推定された水と風の神であれば、
これが出会うと嵐となるゆえに、忌避するものかと思われる。


さて、八郷獅子は、道が分かれているとき、暴れに暴れる。
これを「揉む」と呼び慣らす。

獅子頭は、地を掃くように、方向を見定める匂いをかぐように、
あごを落とし、ゆらり、ゆらり、と舞うのだが、

胴体のほうはその際、
担ぎ手たちが頭部を円心にして、左右にワイパー運動するのである。



八郷の祇園祭で、唯一事故がありうる荒っぽい部分であると言われる。

史実として、不名誉なことであるが、30年ほど前に
胴体によって胸を強く打った人がおり、
近年の傾向として、揉むのは比較的穏やかである。

そもそも、この揉むという動作は、
担ぎ手にとってとんでもない体力を消費する。

担ぎながら走り、走りながら持ち上げ、
地元の底力を見せ付ける大暴れっぷりである。

少し時代をさかのぼれば、農家の多い地であるから、
米俵を担ぐよりは安易なものであったろうが……、
しかし、この揉む動作、やっているほうはかなり興奮するものである。


獅子としては、これは時間稼ぎであるかしらん。

年に二日しか日の目をみることがないため
(最近は文化財として出張機会もふえたが)
開放されて暴れまわる、という構図なわけである。


また、諏訪、タケミカヅチの神の性質からしても
武神の部分があるわけで、地区の若者の力試しという点もあるのだろう。


祇園であるから、露払いの獅子は、八坂神社へと舞を奉納する。
また、八幡神社へも舞を納め、帰途につくわけである。




さて、この帰途。

道の途中で、胴体を覆う布と、それに付属する頭部が取り外される。



ここからが、本当の暴れ獅子である。

初めて観るひとは、何が起こっているかわからぬかと思われる。

木で組まれた、観るも無残な胴体だけとなって、

これより獅子は荒御霊の振る舞いをするのである。


「千と千尋の神隠し」という映画で、
「おくされさま」なる神様が油屋に湯治に来たとき

カエルたちが提灯をふるって、
めいめいに「店じまいでございます」とやっているシーンがあるが、


この獅子の胴体も同じような扱いを受ける。



当番提灯が道の端と端に陣取り、

まだ神社に帰りたがらない獅子の胴体を
「終わりだ! 終わりだ!」
「かえれ! かえるぞ!」
と囃し立てるのである。


これを、担ぎ手たちは、
うまくすり避けながら、街道を爆走したり、揉み乱れたりとするわけである。

抑えようとする力と、進もうとする力がせめぎあい、

町のものは、これを見るために
パイプイスや縁台を、この圧し合いのスポットに陣取るのである。



荒手として、当番が、胴体の上に乗っかり静止しようとし、
それに負けじと、若手たちは胴体をさらに持ち上げる。



この暴れはっちきで、
ささらが帰るに帰れない(獅子がいるうちは街道にでられない)状態を
続けさせることが、狙いといえる部分があるのかもしれない。


暴れ疲れるまで。
これは、若手が、という意味でも、獅子が、という意味でもそうだが

疲れ果てると、すごすごと神社へと帰っていく。




帰りを待つ頭部のもとへ帰り、一本締めで獅子は終了。

ここから、祇園祭り

各町内の舞い手が凌ぎを削る、排禍(はいか)ばやしなどの山車がいできて
賑やかな様相となる。




この山車、車輪で移動したり
車輪を固定して舞台を猛スピードで回転させたり、
これはこれでけっこう危ないが、

観賞に美しくゆかいなものである。





ところで、
今年(今日)は涼しい陽気だったものだから、





例年にない揉みっぷりで、

私は酸欠ぎみである。







たなばた

2011-07-08 21:00:00 | 古代・民俗・宗教



天界(仙人道教)の一日は地上の一年である。

と、いうことは、
地上の一日は、天界で四分ほどである。



織女と牽牛は、地上では一年に一度しか会えないように見えるが、
天界で換算すれば、毎日会っていて、
毎日、たった4分しか会えない、というだけのことである。


ウルトラマンより長いんだからいいじゃねぇか。


と、
そんなことを考えた今日である。







ああ、思い出した

2011-05-03 05:00:00 | 古代・民俗・宗教


以前のブログ記事「これからのウンコの話をしよう」で
自作を「ウンコのようなもの」と評したとある作家について

名前が思い出せなかったのであるが




今、思い出した。


中村うさぎ先生である。



そういえば「ゴクドーくん漫遊記」に、


性的な欲望をしめすイチジクと
(アダムとイブが羞恥に股間を隠した葉がイチジク)
イチジク浣腸による便通と

といった話があり、


そういえば、

若いみそら(かなり少年期だと記憶している)にそれを拝読し


私の
神話や比較宗教学の興味やら、排泄機能にかかる思考やらのイシズエになったのだ。




人生、無駄なし。

何が助長されるかは分からぬものの、

思い出にひたると

何かしらに生かされているという結果が「自分」というものであったりする。





これからのウンコの話をしよう

2011-05-01 12:00:00 | 古代・民俗・宗教


困ったタイトルであるが。

さすがに
「これからの「正義」の話をしよう」
に対して議論をふっかけるのは私には荷が重過ぎるので、


少々バカらしいタイトルを、大真面目に語ってみようというのである。


ウンコをマトモに話題にする機会というのは、
教育現場でも限られていて、

幼稚園、小学校はそれなりにあるだろうけれども、
中学・高校の時期にウンコ話で盛り上がる生徒がいたら、
ちょっとアブノーマルな感じがするし、

それ以降、大学に行ったり、社会人になったりすると、
ただ下品として扱われてしまって、まったく、話題がないもののようだ。


ある、特定の職業の人は、ウンコをきちんと考えるのである。



私が大学時代にお世話になった教科に「医学」というものがある。
この担当教授(もちろん医者でもある)は、よくウンコについて語ってくれたものである。



あるいは、当然のように、性風俗業界のある一点は、
ウンコに非常なる性的な情動をもっていることを、いまさら言うまでもない。



また、とある作家は、自分の作品について
「ウンコのようなもの」と語っており、文学現象もあるいはウンコを語るに絶好の機会ともなる。

ときに、文学の世界では、作品を吐き出すことを「自慰」ともいうのであるが、
どちらも古典心理学でいうところの「排泄欲求」といえるところである。





さて、ウンコとは、なにか。

呼び方をかえれば、ウンチとも言う。


ここで、考えねばならぬのは、
「Dr.スランプ」
であろう。

「おぼっちゃまくん」も捨て難いのだが、
マンガ史のうえでは、

「Dr.スランプ」が1980年代前半
「おぼっちゃまくん」が1980年代後半

であるからして、
先行した文学的ウンチとして「Dr.スランプ」のほうを論じる。



さて、
ロボットである「海苔巻アラレ」はウンチが極めて興味深い対象である。

当時、アニメで「ウンチをツンツクする」ことに対して
どれだけ保護者から抗議がきたことか計り知れないものがあるが、


(教育の観点ではなく)学問的な観点から言えば、
この行動こそが、人間というものであると私は考える。




公民館などで、ちょっとした宗教学の講義の真似事をすることがあるのだが
多神教、とくに神話というものが存在する宗教には、


「何かを混ぜる」


という描写が描かれることが多い、と私はよく言う。


ギリシア神話・ローマ神話は、
もっとも最初に「カオス(混沌)」から宇宙を語り始め

ヒンヅー教にも、ヴィシュヌやらラクシュミーやらの天地創造のくだり
「乳海攪拌」というものがある。

エジプト神話では、
少々、話がズレて「神の自慰」によって天地創造となるが、

日本神話「古事記」にいたっては、イザナギ・イザナミの国生みの際に
「天沼矛」で混沌をまぜて、という周知の話がある。

魔術の神のひとりに、ダグダという神がいるが、これも
「魔法の鍋を煮てかき混ぜる者」(薬を練る者)である。


これらの現象が、自然現象対人間である「治水」を示すのではないか、
ということは宗教学では常識的なところで、
さらに細かく読むとその治水の方法も似ている部分があったりする。

まあ、常識はえてして知らねばならぬことでありながら、割と本節ではどうでもよくて。



これらを通して考えると
人間は、カオスから物事を生み出したものではないのか、ということである。


それは、暗喩として
「ものごとの区別がつかなかったものが、区別できるようになった」
ということでもあるのだが、
(分類学、分類論の立場からすれば、物事の区別こそが人間の叡智であり、学問であろう)


ウンコだってカオスである。
なんだか分からないものなのである。

これを、
つっつき、まぜ、そこに何かを発見し、創造すること。

もっとも、人間の原初の姿といえる。


「Dr.スランプ」かつ、ウンチといえば、
ニコチャン大王の存在も論ずることが必要である。


コイツの宇宙船の燃料は、ウンチである。


それよりも、
コイツは頭のテッペンが、ケツである。


人間の頭から生み出されるものだとて、ウンコのようなものだ。

それは、本人に、ほどよく消化されたあとにできる汚物であり、混沌である。



頭は、ある種の、排泄器官である。

消化不良がおきれば「屁理屈」がでるし、
きちんと消化すれば立派な「ウンチ」として排泄される。



「クレヨンしんちゃん」で、野原しんのすけが、
立派なうんこをすると写真を撮ろうとするように、


見せびらかすべきウンコも、そこにはある。

あらたな混沌を人にあたえ、
あたえられた人はそれを観察して、
その人の頭のなかに何かを創造するのだ。


ウンコは、肥料でもある。
よく耕してある頭脳に、よいウンコを与えると、

そこに、可能性という芽が吹き出して、
のちにウンコが豊作にみのる。




よく、大学時代、医学の教授が言っていた。



自分の体調を知るには
ウンコを観察することだ。
分析することだ。

でもウチのトイレは、便器が紺色で、
色の比較が難しくて失敗したな、と思ってるんだ。

新築をたてるときは、便器は白がいいぞ」

と。





人間の頭の中にあるモノも、同様。

観察すべき状態のウンコである必要がある。


きちんと排泄された混沌は、
その人がスッキリとするのみならず、
その人がどのように病んでいるのか知る手がかりになり、

かつ、

人に、創造の力をあたえるのである。




……キタネエ話だ。