多趣味多彩

雑多な書き散らしブログ

源氏物語

2011-12-19 20:00:00 | 日記


うっかり。
ブログの存在を忘れかけておりました。
日ごろお越しの皆様には、ご不便おかけしております。




さて、映画「源氏物語~千年の謎~」を見た。

めずらしいことに、男性が源氏役の映画である。
生田斗真が光る源氏の君とは、なるほど大変に良いものと。

腰つきとか指先とか、口元とかに妖しげに色香が漂って、
美しい光る君ができたものである。

しかしまあ、源氏物語のようにかなり完成された作品を
おもしろい解釈で味付けするというのは難しいテーマで、
ただ、序盤も序盤である、光る君が若くして結婚し
悶々と義理の母を思いつめるあたりを、
なぜ紫式部は書いたのか、
なぜ「書かずにはおれなかった」のか
という視点に基づくと、
きわめて精密に考証されている映画と見受けられた。

映画のラストは藤壺が出家するところで終わり、
光る君の心象風景と紫式部の心象風景が混在する姿で終わる。

このシーンで、夕霧(源氏物語では人物名でもあるが、この場合、自然現象の「霧」)に沈む
多くのわだち、打ち捨てられた牛車の車輪が見てとれ、
ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」の感覚がにおう。

年上の女に捨てられたような感慨、
理想とする女性がどんどんと離れていってしまう雰囲気のなかで、
ヘッセの主人公のように車輪のしたに屍となるのではなく、
光る君は高笑いをして終劇となる。

男性の感覚からすれば、
いわく「あまよのしなさだめ」であるとか、
幼女の育成、あしながおじさんのような「紫の上」とのやりとりなどが
贔屓目に見えがちであるが、

やはりこの序盤はもっとも見所がある。

藤壺、葵の上、六条のみやすどころ、夕顔などの女性を通して、
紫式部は自分自身をモデルにこれらの女性を描いただろうか。

朧月夜や末摘花あたりが、映画では出てこないが、
たとえば朧月夜は政敵がわの娘であるというストーリーの関わりをもちつつ
奔放な性格で、式部がそう憧れたという気配もあろうし、
末摘花は、容姿の描写にことごとく筆舌を尽くしているあたり、
どうも自分自身の容姿に自信をもたない式部の感慨すら思える。

さても、しっかりした原作を「よくやった」と周囲に言わしめるほどに
パロディ、あるいはリメイクするというのは難しいことだ。

六条のみやすどころの生霊さわぎは、
「あおいまつり」を発端としなければ成立しないのが源氏物語だと私は思うが、
「あおいまつり」の「くるまあらそい」に関して、映画ではふれられない。

「芥子のにおいが……」の意味するところも説明されていないので、
「芥子のにおい」の意味を知っている、
つまり、源氏物語の主要な部分は、
脳内で補完できるほどに源氏物語を読んでいる必要がありはする。

こうした意味では、少々、来場者を選ぶ、高度で敷居がたかいものになっているかもしれない。

源氏物語を全く知らない者が見た瞬間に
「われは何をしても許される身分だ」
と、とある人物が言う伏線の意味には絶対に気づかないだろう。

それは、それで、まあ、いいのかもしれない。
源氏物語に興味をもつきっかけにはなるかもしれない。





とかくに、原作があってのうえに新たなものを見出す作品をつくるのは、
その作品をみる人間の目が肥えておらねばならず、少々やっかいな問題を抱えるものだ。


私の最近の趣味は
18禁童話(←激しく矛盾することばである)を書くことなのだが、
やはりこれも難しい。

なかなかに苦心しているので、感想をたまわりたく思っている。

「黒檀のように黒く、血のように赤く」

18禁であることを、お忘れなきように。