アニメの「トラップ一家物語」であったか、
「電車はなぜ走るのか?」
「それは神の愛です」
という一連の問答がある。
「電車は電気で動く」
「電気は発電所で作る」
「発電所にはダムがある」
「ダムの水は雨と川」
「川は海に、海は蒸発して雲になる」
「雲を作るのは太陽」
「太陽は何でできているのか」
「それは神の愛です」
となる。
キリスト教・カトリックの宗派かと思うが、
宗教の根幹の部分、人間の根底となるものは、
言葉を異にして内容は通じている。
「生きること」とか「生き方」とか「人生」とかいうものに
意味があるかないか。
まあ、たいした意味はない。
あるとしたらそれは「人間の意識」として意味をもたせようとするに過ぎないのだが
我らが「存在すること」は、
存在してしまっているというただそれだけで、
すでに宇宙に受け入れられている、受容されている。
心理学には、認知欲求とか承認欲求とか、
「人に認められたい」という高次のモチベーションがあることが指摘される。
「存在している」のであれば、すでに
偶然とか宇宙の意思とか神とか、言葉はなんでもいいが
そういったものに認められている、ということなのではないか。
受容されていようがいまいが、
ひとつの人間の人生は
時間として一瞬で、宇宙から見るに矮小で、
過大に意味が存在しているわけではない。
しかし、小さくとも短くとも
「存在していること」がすでに何らかの意味と思っておけば
前のめりに生きていけようと存ずるのである。
短小とかいうと、まあ……、
男性諸君にいろいろ別の問題がでてくるのだが、
今回はあえて触れまい。