久喜市長 田中 暄二(たなか けんじ) ~久喜市の発展のために~

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企画展「本多静六を支えた妻銓子と養父晋」

2015年12月16日 | 日記
久喜市役所 菖蒲総合支所5階の本多静六記念館にて、企画展「本多静六を支えた妻銓子(せんこ)と養父晋(すすむ)」を、平成27年11月16日(月)~平成28年3月27日(日)の日程で開催しています。

久喜市菖蒲町出身で我が国初の林学博士となり、日比谷公園、明治神宮、大宮公園等の設計、建設にあたった本多静六翁の妻銓子とその父親である本多晋にスポットを当てた企画展です。

本多銓子(1864~1921)は、父・晋と母・梅子の長女として生まれました。

幼少の頃より才媛の誉れ高く、英語にも堪能で、14歳の頃には外交官夫人のために通訳をつとめています。

明治21年(1888年)には、日本で4番目の公認女医となっています。ちなみに1番目は、埼玉県出身の荻野吟子ですね。

明治22年(1889年)に静六と結婚。

明治23年(1890年)には、港区芝2丁目、3丁目に診療所を開業しています。

熱心なキリスト教徒であった銓子は、同情心に厚く、困っている人には着物などを惜しげもなく与え、本多家に集まる人々は銓子を信頼し、銓子の言葉ならどんなことでも聞く風であったといいます。

また、家庭内を平和に保つため、ジャン憲法を考案しました。夫婦間、家族たちのあいだで、意見の一致をみないことがあると、お互いに二度までは意見を主張し合うが、それでも決まらない場合、三度目はジャンケンで決めるというルール。

そのおかげで、本多家にはいつも笑顔が絶えることがなかったといいます。

そんな銓子でしたが、不幸にも43歳頃から慢性腎臓病を患い、大正10年(1921年)に57歳で亡くなりました。

静六は、自分が研究活動に専念できたのは、家庭内の庶事は勿論のこと、静六の助手として原稿の浄書や講義原稿の整理、さらには英文翻訳や手紙の代筆まで行ってくれた銓子がいたからこそであり、彼女の存在なしには、今日の私はあり得なかったと、後に語っています。

すばらしい女性でしたね。

詳しくは、本多静六記念館に是非足を運んでください。










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