早くに父を亡くしたこともあるだろうし、義父が命を粗末にするようなことをしてくれたこともあって、私は『死』というものをよく考える。
『死』と言うよりも『死ぬということ』と言う方が、適当かもしれない。
『死』については、たぶん子どもの頃から、漠然と感じていたのかもしれない。
ただその時は「死んだらどうなるのだろうか」とか、「死ぬのは怖い」とか、子どもだったら誰もが一度は考えることだったろうと思う。
でもいつの頃からだろうか、死ぬことが怖くなくなってきたのは…。
今でも、それほど恐怖は感じない。
ただ、子どもがいるから、迷惑をかけない程度に「少しでも長く生きていられたらなぁ~」という“欲”は出てきた。
先日、心理学の勉強に行って来た。
カウンセラーになるのは諦めたけど、やはり想いは捨てきれず、自分自身の研鑽の為にも、可能な範囲の勉強を続けている。
“発達心理学”について学んできた。
“発達心理学”と言えば、子どものことのように捉えられそうだが、生まれてから生を全うするまでのことを言う。
興味深く感じたのは、中年期以降…つまり、今の私の年代以降の発達の心理のことだった。
これは私が常日頃から感じていたこともあって、共感を覚えた。
子どもが一人立ちしていく過程で、またその後、自分の所在のない女性…、仕事に先が見えてくるサラリーマン…、その先に更にあるのが“老後”、そして“死”。
“死”は誰にでも公平にやってくる。
いつやってくるのだけは、誰も知らない。
その恐怖に怯えながら、衰えていく体力・気力、金銭的・社会的な不安、しなければならないことがなくなってしまった虚無感、孤独…。
そんな多くの不安や恐怖を抱えて、どう“死”と向かい合っていくのか。
ウチの義父母がそうだったが「どうせ年寄りだから…」というのは、私としてはいただけない。
「年寄りだから、何?」と、聞き返してやりたいほどだった。
彼らにはきっと、悲しいことに自分に対しての自信も、人に対する信頼もなかったのだろう。
二言目には「死んでいくだけやから」…。
みんな死んでいく、それがいつだかわからないだけ。
私は義父母と同居して、多くのことを学んだ。
“年寄り”でないと出来ないこともある。
そして、いかに“死”を迎え入れるか。
人は誰も孤独。一人だ。
それが人と繋がりあっているからこそ、生きていられるのだ。
人との繋がりに感謝し、どこに自分の存在を見出すことが出来るか…それが、老いていく=“死”を迎え入れる ということではないかと私は感じる。
3年前、引っ越すことによって私の存在は、見事に掻き消されてしまった様に感じた。
今まだ、その空虚感を多少引きずりながら、立ち直ろうとしている。
いい年を重ねる為に、自分の人生を納得して終えたい為に。
何かにしがみついて生きていくのだけはイヤだ。
人も自分も大切にしながら、自分に出来ることは何かをもう少し模索して、これからを生きていきたいと思う。
出来れば、人から思い出して頂けるようなヒトになりたい。
――― それが理想。

『死』と言うよりも『死ぬということ』と言う方が、適当かもしれない。
『死』については、たぶん子どもの頃から、漠然と感じていたのかもしれない。
ただその時は「死んだらどうなるのだろうか」とか、「死ぬのは怖い」とか、子どもだったら誰もが一度は考えることだったろうと思う。
でもいつの頃からだろうか、死ぬことが怖くなくなってきたのは…。
今でも、それほど恐怖は感じない。
ただ、子どもがいるから、迷惑をかけない程度に「少しでも長く生きていられたらなぁ~」という“欲”は出てきた。
先日、心理学の勉強に行って来た。
カウンセラーになるのは諦めたけど、やはり想いは捨てきれず、自分自身の研鑽の為にも、可能な範囲の勉強を続けている。
“発達心理学”について学んできた。
“発達心理学”と言えば、子どものことのように捉えられそうだが、生まれてから生を全うするまでのことを言う。
興味深く感じたのは、中年期以降…つまり、今の私の年代以降の発達の心理のことだった。
これは私が常日頃から感じていたこともあって、共感を覚えた。
子どもが一人立ちしていく過程で、またその後、自分の所在のない女性…、仕事に先が見えてくるサラリーマン…、その先に更にあるのが“老後”、そして“死”。
“死”は誰にでも公平にやってくる。
いつやってくるのだけは、誰も知らない。
その恐怖に怯えながら、衰えていく体力・気力、金銭的・社会的な不安、しなければならないことがなくなってしまった虚無感、孤独…。
そんな多くの不安や恐怖を抱えて、どう“死”と向かい合っていくのか。
ウチの義父母がそうだったが「どうせ年寄りだから…」というのは、私としてはいただけない。
「年寄りだから、何?」と、聞き返してやりたいほどだった。
彼らにはきっと、悲しいことに自分に対しての自信も、人に対する信頼もなかったのだろう。
二言目には「死んでいくだけやから」…。
みんな死んでいく、それがいつだかわからないだけ。
私は義父母と同居して、多くのことを学んだ。
“年寄り”でないと出来ないこともある。
そして、いかに“死”を迎え入れるか。
人は誰も孤独。一人だ。
それが人と繋がりあっているからこそ、生きていられるのだ。
人との繋がりに感謝し、どこに自分の存在を見出すことが出来るか…それが、老いていく=“死”を迎え入れる ということではないかと私は感じる。
3年前、引っ越すことによって私の存在は、見事に掻き消されてしまった様に感じた。
今まだ、その空虚感を多少引きずりながら、立ち直ろうとしている。
いい年を重ねる為に、自分の人生を納得して終えたい為に。
何かにしがみついて生きていくのだけはイヤだ。
人も自分も大切にしながら、自分に出来ることは何かをもう少し模索して、これからを生きていきたいと思う。
出来れば、人から思い出して頂けるようなヒトになりたい。
――― それが理想。





瞬時の共有時間を大切に生きたいです。
ブログ止めるような文書かないでくださいm(__)m
最近、ブログに振り回されている自分の事はイヤだと感じる。
記事にしたようなことは、以前から感じてたことであって、勉強してきたことと被ったから、書いただけ。
それだけのことよ。
くらむぼんさんこそ、大丈夫?
他人(ヒト)に頼ってちゃダメよ、ご自身の人生なんだから。
他人(ヒト)が何をどうしようと、ご自身がどうしたいのか、そっちの方が大事だと思うんだけどなぁ。
他力本願なんてよくないよ、ゴメンね、人生の先輩に生意気言って…。
「死ぬということ」一度ではなく何百回も考えました。答えは見つかりません。
高校のとき課題で「生きる」が出されたとき、「よく死ぬことができたとき、よく生きたということだ」という趣旨を書いたことがあります。
でも今も答えは出ていません。
どんなに出来る事が少なくなっても、寿命が来るまで、生ききる…。
それが意義ある事だと感じています。
そして、欲を言えば、日々、すこしでも幸せと思える自分を感じて生きていきたいです。
なぜ生きているか、答えは出なくても、生きるんだったら小さくても幸せを感じながら生きていきたいです。
そして、寿命がつきる時、「楽しかった」と言って、あの世に旅立ちたいです。
>よく死ぬことができたとき、よく生きたということだ
…本当にその通りだと思います。
“死ぬ”って、一言で言ってみても、体験してきたヒトは誰も居ないわけなのだから、未知のことですもんね。
死んだ自分に気付いて初めて、“死”がわかるのかもしれませんね。
でもおーちゃんのブログを拝見していて、おーちゃんはステキにトシを重ねていらっしゃるんだなぁ~と感じております。
ご本人には、色々とおありなのでしょうけど。(笑)
風民さん♪
実体験に基づいた貴重なお話をありがとうございます。
>寿命がつきる時、「楽しかった」と言って、あの世に旅立ちたいです
同感ですね。
ただ何となく、私は寿命が来るのを待つだけはイヤ。老いてゆく自分…、もう老いて来ているのだけど、もっと老いを感じるようになった時に、それを迎えるだけの気持ちの準備をしておこうと思う。…うん。
自分と向き合う、対峙することになるのだが、一気に色んな想いが溢れ出てくる。
それは重い心の様でもあり、ふっとその時感じたことの様であったり…。
でもどれも、自分自身の中から湧き出てきた感情であることには違いない。
生きるってホントに難しい。
いつか死に行く私に対して、風民さんの仰るように“幸せ”を感じながら日々を過ごして行きたいな…そう思う。
う~ん、自分で書いておきながら、難しいな。
勉強に行くと、いつも2,3日こういうモードになるわ、私は。
私はサボりぎみですたい
あまり深くHiromiさんを知らないので、「死」について語るあなたをとても、遠く感じます。
でも、みんな違った面をもっているのですよね。
そんなことを、感じました。
平均寿命の延びた今、考えるべき問題、取り組まねばならない事柄が多過ぎます。人生50年の昔であれば、私などとっくに寿命が尽きています(67歳です)。その時代の人生観はどうだったのか。おそらく、現代とは異なる死生観があったはずです。人生80年の今の世にも、それを生きてゆくのにふさわしい
死生観が必要なのでしょう。
ただ、いつの時代にあっても、人間はどうあるべきか、という回答は見つからないような気がします。
Hiromiさんは「老後」という言葉を使っておられますが、今の世の中でこの定義は何なのでしょう。私は、幸か不幸か、この年でまだ仕事(会社勤務)をしていますので、一般的な意味での、定年後を老後として捉える感覚は、まだありません。
沢山のコメントがありますが、風民さんの「死ぬまで生きる」という言葉は最も端的に人生を表現していると思います。ご存じかと思いますが、五木寛之だったかの著書に「たとえ、寝たきりの植物人間になっても、〝生きている〟だけで人間には価値がある」という言葉があります。詳しい説明はスペースの上から省きますが、そう思えれば気楽になります。
いずれにしても、「どうして死ぬか」より「どう生きるか」ということなのでしょうが、私としましては、余生を余分の人生としてではなく、余裕の人生として生きてゆきたい、と思っています。
勉強…?頑張ってないよ。
だってもう、一応はさじを投げたんだからね。(^^) あがいているだけ。(笑)
「死」についてでもそうですが、「どう生きるか」ってこともよく考えます。
機会があれば、色んなお話がしたいですね。
お越し頂いて、嬉しいです。ありがとう。
貴重なご意見を伺い、新たな視点が私の中に湧いてきたように感じました。
こういうことは、説明できる確かな答えというのはなく、それぞれの奥底に“何か”があるものなのでしょうか…。
>たとえ、寝たきりの植物人間になっても、〝生きている〟だけで人間には価値がある
五木寛之さんの本は、読んだことはないのですが、この言葉には、納得できます。
事実、私の父は植物人間でよければ、生きる方法はある…と言われて亡くなりました。
それでもいいから生きていて欲しかった…という思いは幾度となくありました。(これは勝手なエゴかもしれませんが…笑)
また、植物人間になった本人にも、周りに解る人間らしさはないだろうけど、本人には何事もわかっているのだろうなと、信じているからです。
ウチの子が「生まれてくると言うことは、何か意味があるから生まれてきたと思う」とよく言うのですが、その意味を時には考えながら日々過ごすことが、今の私に出来ることだと感じます。
“余裕の人生”…いい言葉ですね。
私もそう言える様な年を重ねて参りたいと感じました。
色々と、感じ考えさせていただきました。
ありがとうございます。
先程、Michikusaさんのブログにもお邪魔してきました。
記事を読ませていただいて、今、色々と思い巡らせているところです。