由井・薩埵嶺 江戸より16番目の宿
薩埵[さった]峠から見る富士山の姿は今も画になる。NHK「私の富士山」でもお馴染みの撮影ポイントである。車や電車で東進するとき、由比にさしかかると立派な富士の姿がドンと現れいつも見入ってしまう。海には桜エビ漁だろうか、広重の画のごとく帆を張った漁船が浮かんでいることがある。由比には広重美術館があるが、実景に最も近いのがこの画らしい。
薩埵峠は、東海道の難所であり要所でもある。現在は旧道にバイパス、東名、それに東海道線が並んで眼下を通っているが、かつて旧街道は上道・中道・下道の三つに分かれ、断崖下のルートが「親不知子不知」と呼ばれていたのは、北陸道のそれと同様だ。SHCがまだ準備会の頃、但沼から浜石岳を経て薩埵峠まで歩いた。農作業のおばさんが蜜柑を放ってくれた。長い歩きで疲れた身体に染み渡った。海と富士が見えて蜜柑のなる山、浜石岳から薩埵峠にかけては、いかにも静岡らしい山だ。
(2003年6月記)
現在の薩埵峠から富士山と愛鷹山
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浜石山塊の遮断性
庵原地域は静岡県内で南北が最も薄い所で、興津の国道52号線の起点から山梨県境の境川(富士川支流)までは、直線で僅か16キロである。この薄い地点を駿河湾まで塞いでいるのが浜石岳で、標高707メートルの低山ながら山塊と言える程の随分と大きな山なのだ。広重・東海道五十三次「由井」に描かれたように山塊南端の薩埵山下の断崖に海岸が迫る地形は、大崩海岸で駿河湾に落ち込む高草山塊と同様に、非常に強い遮断性を保つ。また、この山塊は安倍奥・青笹山から分かれ徳間峠、高ドッキョウ、樽峠と続く県界尾根の支脈(つまりは白峰南嶺の末端)であるから、東西方向に対するのみならず、北の甲州側に対しても一定の障壁となっている。
こうした地形的特性は同時に交通の要所となり、現在、由比南側海岸の猫の額程の狭い平地に、国道1号線、東海道本線、東名高速道路(薩埵峠下は短いトンネル)が並んで通り、東海道新幹線はトンネルが南の尾根を貫き、新東名は山塊の北端をやはりトンネルで貫いている。北からは国道52号線(身延街道)が万沢の峠と宍原の富士見峠(逢坂)を越えて興津へ、また富士川側からは稲瀬川を遡り逢坂へ、有無瀬川を遡り大代を越えて由比へと通じている。
浜石山塊の遮断性が強く、古くから東海道の難所としてあったのは「磐城山[いはきやま]ただ越え来ませ磯崎の許奴美[こぬみ]の浜に我たち待たむ」(『万葉集』巻12-3195)〔大意:磐城山(薩埵山の古名)をまっすぐ越えてきて下さい。磯崎の許奴美の浜(由比倉澤辺りか?)に立って、私はあなたを待っています〕という恋歌でも示されるとおりで、下道しかなかった当時、この山を越えるには波に攫われないよう断崖絶壁にへばりついて通るか、干潮を待って崖下の磯を駆け抜けるしかない『親知らず子知らず』の場所だった。中腹を開削した中道は1655年、朝鮮通信使を迎えるにあたり幕府の威信をかけて新たに造られた峠道で、さらに江戸後期になって山側により安全な上道、現在の薩埵峠が整備された。現在、国道や鉄道の通る海岸部の僅かな平坦地は「安政の大地震」(1854年)の隆起による偶然の産物に過ぎない。
このような遮断性は、駿府の東側の最終防衛線とするに相応しいところで、1568年、武田信玄の駿河侵攻に際し今川氏真は1万5千の兵力を薩埵峠周辺に配し、自らも清見寺に本陣を構えた。今川勢はよく峠を守ったというが、重臣の武田側への内通などもあって駿府は陥落した。翌年、北条氏政率いる今川への援軍と武田軍との第二次合戦においては、立場を替えて武田側が薩埵峠に防衛戦を引くことになる。
浜石岳周辺の地形図
ところで昔、『ジャズ大名』(筒井康隆原作、岡本喜八監督)という映画を観た覚えがある。幕末、東海道の要所に位置する(架空の)庵原藩に漂着したニューオリンズの黒人ジャズメン三人組の音楽に惚れ込んだ藩主が、佐幕派、維新派どちらにも与[くみ]せず、城そのものを通行御免のただの通り道にしてしまう。通り道と化した城内(廊下)での官軍、幕軍の争い、世の喧騒をよそに自らは地下に籠り、黒人ジャズメンや家臣たちと共に琴や笛、和太鼓、三味線なども加えて“ええじゃないか”セッションが繰り広げられる。やがて地上の方にそっと顔を出してみると明治が訪れていた…、といった話だったような……。「庵原藩」の地形的設定が抜群に面白かったのだが、どんなに遮断性を持った場所でも無理やりにでも開き、均一化していくのが“近代”であるわけで、地下の非政治的熱狂[カオス]も「やがて悲しき……」という運命なのかと思えた。
(2021年12月記)
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