舞坂・今切真景 江戸より30番目の宿
東海道もいよいよ浜名湖、舞阪へと到達した。湖岸入江の岩山は完全に構図上の産物であろうが、背後の青い山並は秋葉山から竜頭山にかけての稜線であろうか。遠くに見える白い富士の山影は、広重・東海道五十三次において、以西では見ることはできない。静岡に住む我々は、山に登ればまず富士の姿を探す。富士山はまさに山の代名詞であり、眺望が良いとはこれが見えるかどうかと同義であるような感さえある。ところで実際、富士山はどこまで見えるのだろうか。証拠写真のある最遠の地は和歌山県の大雲取山で、その距離320km、計算上の北限は福島県花塚山の308kmだそうだ。現在は、カシミールなどパソコンソフトを使って富士山が見えるはずの地点をシュミレーションし、あしげく通って確認する人達もいるそうだ。これも山座同定の新しい形なのだろう。
さて12回にわたった拙い連載も、浜名湖を渡り富士の見えなくなった地点で終了。本連載のきっかけは、初回に記したように『岳人』誌掲載の玉置哲広氏の文章であったが、江尻・三保遠望や府中・安倍川、金谷・大井川遠岸のように地元ゆえに見えてくる山もあったように思う。富士山、赤石連峰、白峰南嶺の奥山から里山まで、まさに静岡は山岳県なのであり、こうした山々に囲まれホームグラウンドとできる我々は幸せであると感じる。
先日、新聞紙上に「広重は実際は東海道を旅していない」という記事が掲載されていた。『広重』とは一種のブランドなのであり、おそらく実際はそうなのであろう。だが広重が東海道五十三次を描く上で、沿道から眺望できるはずの信仰(畏怖)対象の山々を想像し構図として置いたのには、何かの必然性もあったのだろう。同じように私もまた想像の山を持っていたいと思う。それは、まだ見ぬ山という空間への憧憬というだけでなく、昔日人々が仰ぎ見また辿った時間の連なりへの想像でもある。
了。
(2004年3月記)
* * *
【2024年9月追記】
「文化遺産オンライン」の解説では
その昔、浜名湖は遠州灘とは砂州で隔てられた湖だったが、明応7年(1498)の大地震以来、浜名湖と海を隔てていた砂州が決壊し、海につながる汽水湖となった。この砂州が決壊した部分を「今切れた」という意味で「今切」(いまぎれ)と呼ばれるようになり、今切の渡しと呼ばれた渡し船が行き交うようになった。画面手前の並んだ杭は波除杭(なみよけくい)で遠州灘の荒波から渡し船を守るために幕府が築いたもの。その「今切」越しに遠州灘を見渡す本図では、浅瀬で漁をする漁夫たちが描かれている。右手手前に帆だけが描かれた帆船もと真白い富士との対比も斬新。正面の山々は実景に存在しないようだ。なのに「今切真景」とはこれいかに。
と述べられているが、“「今切」越しに遠州灘を見渡”しているのではなく、浜名湖側を見ているのは明確だろう。問題は、浜名湖で画のような岩山が実際に見られるだろうかということだ。
これまで見てきた広重・東海道五十三次の山々は、20年前の推測に反して随分と実景に忠実であったように思えたが、この画ではあり得ない山が描かれていることになる。画のように浜名湖に突き出た半島状の地形は、舘山寺から村櫛にかけてと、三ヶ日大崎の二箇所で、「今切」から見ているとすると手前の山の位置は村櫛となる。だが地形図を見ても分かるように、ここは山というより標高30メートル程度の丘陵状の地形で、山と言えそうなのは半島根元の舘山寺の大草山(113m)、根本山(129.2m)位である。一説によると、奥浜名の景が描かれた別の「元絵」(?)があって、広重画はそれを模倣したともされるが、いずれにせよ手前の山が実景には存在しないのは確かだろう。
では背後の富士山左側の尾根はどこだろうか。図は今切北東(0〜60度)の展望図だが、手前の山が同定されない以上、これも判断は難しい。図を見ると秋葉山から竜頭山の尾根が富士山の左側に覗いているのは当然としても、大無間山・黒法師岳などの深南部から赤石岳・聖岳など南アルプス南部の山々まで結構見えているのは意外だった。尖った鋭峰は案外と黒法師岳の可能性もあるのかも知れないが分からない。
さて、広重・東海道五十三次(保栄堂版)の内、静岡県内12宿で描かれた山について、20年前に書いたものを再検討してみた。いったい広重の描く東海道五十三次の風景は、写実的な実景なのか、はたまた想像上の構図なのか、ますます不可解さが強まった気がする。その辺の興味は、以下の大畠洋一氏「江漢・広重東海道五十三次」の考察が面白い。
http://home.catv-yokohama.ne.jp/66/tok53/tok53/tok_index.htm
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