山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

城ヶ尾峠の怪

2024-05-06 13:43:43 | エッセイ

 2006年9月末、冬に予定されていた北丹沢・菰釣山の下見にAN夫妻と出かけた。菰釣山から稜線を東進し、城ヶ尾峠から車を留めた道の駅道志に向かって下ろうとしていた。城ヶ尾峠は、山中湖北東の大棚ノ頭から菰釣山、加入道山と続く西丹沢の県界稜線縦走路を、大又沢から道志の谷に向けて南北に道が越えている。甲斐・武田の小田原攻めの際に使われたという伝承もあって、峠を南に下った平坦地には「信玄平」というそれらしい地名も残っている。この道は、かつては東海自然歩道となっていたが、大滝峠から信玄平のトラバース道の崩壊が激しく、廃道になって久しい(現在の東海自然歩道は畦ヶ丸を通る尾根ルートとなっている)。また、信玄平から尾根をさらに下った地蔵平には最盛期には二百戸を越える林業従事者の集落があって、小学校分校などもあったようだが、昭和三十年代に廃村となっている。尾根の東には「バケモノ沢」と妖しげな名の付く沢も入っている。

 城ヶ尾峠を下り始めて直ぐに、熊除けの鈴だろうか「チリンチリン」と音が聞こえてきた。峠では先に下りた人も後から来た人にも会わなかったし、縦走路を歩いている最中、鈴の音を聞いたことはなかった。信玄平から峠を越える人がいるのだろうか? 城ヶ尾峠手前の小ピークから分かれる小さな尾根を巻きながら左に大きく曲がると、数十メートル先に佇む若い女性の姿があった。鈴の音は止まっていた。齢は三十前後だろうか……、だがその格好にはどうも違和感が持たれた。まだ「山ガール」ブームには少し早い頃だったが、それにしてもあまりに昭和的な雰囲気とでもいうのだろうか、9月末の千メートルをやや超える程度の山では、歩けばまだ汗をかくにもかかわらず、全く場違いなロングコートを羽織っている。背負ったザックは、だいぶ昔に小中学生のキャンプに使ったような、ポケットが両サイドに付いた横幅のあるリュックサックだった。近付いて来る私たちの方に細面の顔を向け、少し笑みを浮かべているように見えたが、どうも見つめているのはその先のようにも思えた。午後のこんな時間になっての登りに進退を躊躇しているのだろうか。

 谷側に立つ女性に「こんにちは」と声を掛けたが、彼女からは何の反応もなく、同じ表情でただ立ちすくんでいる。「変わった人もいるから」との思いで横を通り過ぎ、右にトラバースしながら暫く下ると、何と登山道が数メートル崩落しているではないか。仕方なく斜面を少し高巻き越えると、その先には「この先、登山道崩落」の標識と共に新しい道が斜面の上に続いていた。新道の上がる先を追うとそこは先程の女性が立っていた場所で、件の女性はまだそこに立っていて、こちらをじっと見下ろしているではないか。おそらく、あの場所にも同じ「この先、登山道崩落」の標識があったはずだ。女性は標識と新しい下り口を、私たちの視界から覆うようにして、あの場に立っていたのだろうか……? 三人共にうそら寒いものを感じながら、無言でキャンプ場へと急ぎ下った。鈴の音が追って来ないことを、ひたすら願いながら……。

 城ヶ尾峠の女性が何者だったのかは今も分からない。ただ、山ではそういうこと(もの)があるのだということを、初めて体験したのだった。もう一つの体験は、昨年(2017年)5月連休に何度目かの「茶臼岳・上河内岳」でのこと。いつもの横窪沢ベースで、夜中に小用を済ませ、ついでに煙草を吹かしていた。何気なく南側の空を眺めていると、向い側の鳥小屋尾根(茶臼岳から畑薙山に続く尾根)の支尾根から、ちょうどヘッドランプの灯のような光が、ひとつ、またひとつと現れ、チラチラと揺れながら列となって横窪峠に向かって下りていくのだ。最初は「こんな時間に登山者?」とちらと思ったが、灯は峠まで来てこちらに曲がったかと思うと消え、小屋に辿り着くものはなかった。横窪峠には小さな遭難碑が建っているのは承知していた(昭和43年、南アルプス全山縦走中、この場所で亡くなった26才の若者の慰霊碑)。ただ、この時は怖いという気持ちではなく、不思議なものを見たという何か満足感のようなものを覚えていた。

 こうした山での不可思議な体験、怪異な現象(心象?)の話は、様々な場所で昔から多く語られてきた。

「日本の山には何かがいる。生物なのか非生物なのか、個体なのか気体なのか、見えるのか見えないのか。まったくもってはっきりとはしないが、何かがいる。その何かは、古今東西さまざまな形で現れ、老若男女を脅かす。誰もが存在を認めているが、それが何かは誰にも分からない。敢えてその名を問われれば、山怪と答えるしかないのである。」(田中康弘著「山怪」山と渓谷社より)

 私は決してスピリチュアルなものへの感受性が強い方ではなく、むしろそうした感覚に依拠する思考には否定的な気持ちをずっと持ってきた。しかし、やはり〝山には何かがいる〟のである。そして、ひょっとすると私たちが山に向かうのは、単に景観といったような視覚的な事柄(実在するもの、論理的に説明できるもの)を味わうためだけでなく、現在の私たちから失われた〝何か〟を取り戻したいがためではないかとさえ思うのだ。考えてみれば視覚こそが全ての世界となったのは、ほんの半世紀前からに過ぎないのであって、そうした視覚絶対主義=近代の立場から離れれば、実はもっと多様な混沌とした世界が拡がっている(いた)のかも知れない。