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現代アートの国際展 ヨコハマトリエンナーレ2014

2014年09月01日 | Weblog
◎3年に1度の国際美術展 ヨコハマトリエンナーレが開催をされています。タイトルの忘却とは・・・


ヨコハマトリエンナーレ2014「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」・・・とのタイトル

忘却の海とは、このトリエンナーレのアーティスティック・ディレクター森村泰昌さんは、忘却の海へと向かう冒険の旅ヨコハマトリエンナーレ2014がめざすのは
芸術的冒険の可能性を信じるすべての人々そして、大胆な世界認識を持ちたいと望すべての人々と共に「芸術」という名の舟に乗り込み。「忘却」という名の大海へと
冒険の旅に出ることである。と述べられています。


華氏451の芸術」というタイトルは、レイ・ブラッドベリ作のSF小説『華氏451度』に由来。

以下記述。いわゆる焚書がテーマの小説で、本を読むことも持つことも禁じられた近未来社会が舞台となっている。
1953年作とは思えないくらい、現代社会を予見していて見事だが、それ以上に興味深いのは、これが「忘却」の重みについてあらためて考えさせられる小説だという点である。
物語の後半、「本になる人々」の集団というものが登場する。一人ひとりが一冊ずつ本を選び、それをまるごと記憶しようとする。つまり焚書へのレジスタンス(抵抗)として、本という物質を記憶という非物質に置き換え、本の精神のみを隠し持とうと試みる。
「本になる人々」は本を禁止する社会からの亡命者達であり、また上述のように本を非物質な記憶に置き換えようとしているため、その存在と行為の両側面において、現実社会の表舞台には決して現れることのない、不在の人々となる(=生きている痕跡をこの世から消滅させた「忘却の人々」たらざるをえなくなる)。ところがこの「忘却の人々」にこそ、膨大な本の記憶がたまり込んでいるというのが、ブラッドベリの小説がもたらす、「忘却」に関する重い教訓なのである。


人類はこれまで想像を絶する量の情報「もの」を廃棄(=忘却)し続けてきた。記憶化されないまま廃棄された情報(や「もの」)は、それよりもさらに膨大だろう。死者や、これから生まれる「未来の記憶」とでもいうべき未生の命も、記憶されざる記憶としての「忘却」かもしれない。検閲や弾圧によって消滅させられたり、表舞台に出られなくなったものもあるだろう。
語らないもの、語ってはならないもの、語りえぬもの。見たくないもの、見てはならないもの、見えにくいもの。とるにたらないもの、役に立たぬもの。それら記憶世界にカウントされる値打ちもないと判断された無数の記憶されざる記憶達にも思いを馳せてみよう。そしてこんなふうに痛感してみよう。と・・・

身近なところでこの「忘却」めぐりの旅ができるのが、このトリエンナーレ。

オリンピック憲章には、「文化プログラム」として文化の推進が明記されています。横浜では、オリンピックを機にこうした芸術文化の地に足の着いた拡がりをも推進すべきだと思っています。

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