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郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

美作 三星城跡 ~美作後藤氏の城~

2020-07-24 09:34:35 | 城跡巡り
 今回は、美作市にある後藤氏の三星城(みつぼしじょう)跡です。近くには湯郷温泉がありそこには何度も訪れているものの、その周辺に城跡があることを知ったのはほんの数年前のことです。
 城跡は峰々に延び、かなり広範囲にわたりますが、頂上からの景色は抜群です。




▲三星城跡全景(北からの鳥瞰)   by Google Earth




三星城跡のこと     岡山県英田郡美作町妙見(美作市妙見)

 三星城跡は、梶並川と滝川の合流点の西側に聳える三星山 (233m/比高150m) の山上にある。山頂が三峰に分かれていることから三星山と名付けられたようである。
 築城年代は応保年間(1161〜1163)に渡辺進左兵衛長寛によって館が構えられたのが始まりと伝わっている。
 美作の後藤氏の初見は観応元年(1350)の山名義理書状である。それによれば後藤下野守が塩湯郷地頭職としてこの地に入り、以後、康季・良貞が地頭職を受け継いでいる。美作の後藤氏は播磨の後藤氏の流れと考えられている。

 康安元年(1361)山名時氏が美作に侵攻したとき攻められ落城した『太平記』。
応仁の乱が始まった応仁元年(1467)に美作国の失地奪回を狙って赤松一党の中村五郎左衛門尉が美作国院庄に入ると、山名勢は妙見ノ城(三星城カ)等に立て籠り抵抗したとある(『応仁別記』)。
 出雲の尼子氏が、備前周匝(すさい)(赤磐市周匝)の城山を攻撃し、「英田郡倉敷村ノ三星ノ城」を落とし、次に「粟井村ノ赤松之城」を攻め落とし、出雲に引き返したと伝える(『備前記』)。
 永禄3(1560)年とされる5月江見久盛と三星山下の入田で合戦があり、江見左馬之助は久盛と尼子晴久から感状を受けている(「美作国諸家感状記」)。

 後藤勝基のとき尼子氏に従属していたが永禄9年(1566年)  尼子氏が毛利氏に敗れると浦上宗景に属した。そのあと宗景の被官宇喜多直家の娘婿となっている。
 
 元亀2年(1571)勝基は秋ごろから浦上宗景と対立し、翌年(1572)毛利氏に属したため、3月宗景により三星城を攻められた。一旦は退けるも、浦上氏による策略で三の丸を奪われ、毛利輝元は足立十郎衛門尉らを送り込み、さらに救援の派兵を報じている(山田家古文書」)。まもなく将軍足利義昭の仲裁で和議に向かうも、10月の時点で三星城には浦上・宇喜多氏の陣が構えられたままであった(『閥閲録』)。

 天正3年(1575)天神山城の戦いにおいて浦上宗景は宇喜多直家に攻められ敗北した。
 天正5年(1577)江見九郎次郎は山中鹿助幸盛を通じて、織田信長に「三星出頭事」を段取すると申し出て、本領安堵と恩賞地の約束を受けている(「江見文書」)

 天正6年(1578)吉川元春が「三星之儀堅固」との報に接しているが、同年上月合戦に出陣した「作州三星ノ城主、直家むこの後藤」は戦後、宇喜多直家の在陣する八幡山城(上郡町有年)に呼び入れられ討たれたといい、三星城も翌7年(1579)2月からの攻撃で5月に落城。後藤勝基は長内(美作市長内)に逃れたものの自刃したとされる「吉川家中並寺社文書」、「佐々部一斎留書」、「東作誌」など)。

 その後の当城については不明だが、慶長3年(1598)に明石掃部頭は宇喜多秀家から「山之内」9,610石を預け置かれ、掃部頭組の明石四郎兵衛尉も「三星城領」として1,000石加増されている(『宇喜多秀家士帳』)。


参考 『美作国の山城』(津山市教育委員会)


【後藤氏の家紋】  

参考 「web  武家家伝 美作後藤氏」



▲『美作の山城』(津山市教育委員会)より




アクセス



美作インターより南下し、美作中央病院を目指していけばよい。
梶並川に沿った国道の右手に三星城址の案内がある。




▲三星城址の案内板(写真右上)



 
▲上にみえるのが居館跡                       ▲妙見稲荷神社方面




▲登城口の説明板「三星城史」

 


妙見稲荷神社の赤い鳥居をくぐり、登って行くと「右登山道 三星城本丸跡」表示があり、右に進む。




▲「右登山道 三星城本丸跡」




すぐに、広い曲輪跡(屋敷跡)に至る。
本丸三段の曲輪(居館跡)があり、最上段に供養碑や忠魂碑が建てられている。






▲広い居館跡



 
▲上段部                              ▲城址の説明板



   
▲忠魂碑                              ▲後藤勝基の供養碑



また、元に戻り登山道を登っていく。この登山道はおそらく忠魂碑や稲荷神社などの造成の時に敷かれたのだろう。
しばらく歩くと切岸があり、その先に曲輪と土塁が現れた。



 
▲切岸跡                    



▲曲輪とその淵に土塁跡が残る。その下には12の畝状竪堀がある




▲土塁跡



 これより向きを変えて、登りにかかる。右に「登り土塁」が続く。西の谷からの攻撃を防いでいるようだ。





▲登り土塁



次に二つの登り口の表示があり、左に向かった。いきなりの急坂コースになる。

縄張り図の表記と案内柱表記とは違っているので、やや混乱しそうだが、三星山の三つの峰の中心部(主郭)に至る道を案内している。




▲展望地・頂上への表示 



   
▲遊歩道 



急斜面を登れるように遊歩道が敷かれている。途中ロープが用意されていた。
登りきると、三星の真ん中の最も高い主郭に至る。ここからの展望はすばらしい。




▲頂上(主郭) 楕円形の4~5mの小さな曲輪



▲頂上からの展望


斜面の円柱の袋が何かわからなかったが、帰り際に撮った写真を見て意味がわかった。

▲美作の「美」の文字と夜間点灯

※後日調べて見ると2013.4美作国建国1300年記念事業に設けられたということです。点灯は4月3日~5月6日



ここでしばらく、眼下を眺めた後、西の曲輪跡方面に降りて行くも、草木が生い茂った細い道を進む。



 




 尾根筋には平坦な削平地を確認できるものの、ゆるい感じであった。縄張り図には西曲輪の南にも曲輪が描かれているが、そこまでは行かなかった。
 また元の頂上にもどり、下山は南の峰を南下し、八幡神社あたりに降りた。

  


 
▲南尾根筋               ▲途中で見えた東南部(林野)




雑 感

、この三星城跡の探索で気になる所がいくつか出てきた。その一つは縄張り図にある麓の居館跡の虎口が確認できていないこと。それと屋敷跡の上段に続く道を見ていないこと。
 もう一つは、山上の曲輪群の西の谷を隔てた南に延びた曲輪を見ていない。この曲輪は、星山と峰続きで入田山にあり、これを入田(にゅうた)城ともいうが、今は三星城の出城と解釈されている。 それらを再度確認したいと思っている。

、三星城跡の関連で、同じ作東にあって、戦国期に後藤氏と敵対した近くの有力武将江見氏のことが気になっている。次回三星城の南にある林野城(倉敷城)を取り上げる予定ですが、この城が江見氏と関係があります。



地名の呼び名 

旧国の呼び名
美作は、みまさかと読み、作州は、さくしゅうと読みます。
作をさか、さくと読みかたが違うのでご注意を!

ちなみに、
(旧国名)           (別名)  (所属の県)
美作国             ➡ 作州   岡山県
備前国・備中国・備後国  ➡ 備州   備前国・備中国は岡山県、備後国は広島県
播磨国             ➡ 播州   兵庫県 

地名由来については次のアドレスを参照ください。
岡山の街角から

岡山県の地名集



【関連】
美作 三星城・倉敷城

播磨(上郡町) 有年・八幡山城




備前 徳倉城跡 

2020-07-08 09:16:49 | 城跡巡り

 今回は、徳倉(とくら)城です。この山城は、岡山城の北方に直線コースで約15km、岡山空港から東2~3kmの地点、旭川中流域の山間部にあります。街道筋でもなさそうなところで、まして備前ではお目にかかったことのない、みごとな石垣に出会い感動した城跡です。




▲北からの鳥瞰   by Google Earth




備前 徳倉城跡のこと  御津郡御津町河内(岡山市北区御津河内 )


 旭川の支流三谷川右岸の遠藤山の山頂(232m、比高170m)にある連郭式山城である。主郭周辺に曲輪、石塁、堀切、土塁、井戸が見られ、尾根筋・突端にも曲輪、堀切が見られる。
 城史については、康安2年(1362)高師秀(こうのもろひで)が山名勢に攻められ備前徳倉城へ退いたと『太平記』にある。備前松田元澄(元隆)の三男親秀が文明8年(1476)に居城していたと伝える(「松田氏系図」)。
 松田元隆は本拠地金川城と富山城の間にあるこの城を松田元成が金川城を整備した頃に出城にしたようで、松田氏の重臣(家老)の宇垣氏が代々居城したと伝えられている。天分年間(1532~55)から永禄5年(1562)頃には宇垣一郎兵衛が城主であった。

 永禄11年(1568)宇喜多直家は徳倉城主宇垣氏を殺害し、松田氏の金川城を攻め城主松田元輝と子元賢を滅ぼした。この徳倉城には家臣遠藤河内守を入れた。天正20年(1590)頃には遠藤河内守はこの城に城番を置き、岡山に移住した。関ケ原の戦い後、小早川秀秋のとき廃城となった。

参考:『日本城郭体系』



▲説明板の徳倉城鳥瞰図に登り口に番号を書き加えた




▲現地で入手した鳥瞰図と平面図



アクセス


登り口は県道側に①、②の2か所と搦手登山道③がある。今回は、県道沿い②から登城した。





ここを登っていくと竹林があり、それを抜けるとヒノキの平地に出る。このあたりも城域のようだ。



 



次の小山(出丸跡)を登りきると、なだらかな尾根筋が続く。



 
▲出丸跡                                                                ▲なだらかな尾根筋


小山から長いゆるやかな尾根筋を通り抜けると次は、山頂へ向かって急な斜面を右に回り込むと、大手筋にあたる石積みを施した帯曲輪が上に連なる。途中、岩を穿った井戸跡がある。



 



▲井戸跡


石積みの帯曲輪を数段登りきると、みごとな石垣の壁が目の前に現れた。




▲本丸の石垣



▲本丸の石垣(北詰)


 ここまで40分以上は歩いただろう。この高い石垣を見て、汗も疲れも一瞬に吹き飛んだ。高さ4~5m横向きに整然と組まれた石垣に圧倒された。平地ならしも、比高170mの山頂である。400年を経てなお、健在である。




▲広い本丸跡




▲本丸の南詰めの細長い櫓台跡、中央に石階段がある




▲本丸からの唯一の展望 東南方面




▲二の丸跡(北詰め)




▲上下2段の石垣(上は本丸の南石垣)



本丸の東側に搦手登山道があり、そこから下城した。搦手登山道は案内板が設置されている。



 
▲本丸西の搦手道                                             ▲搦手登山道の案内表示板



▲表示板
 


 
▲谷あいの民家近くに下山 



徳倉城主宇垣一郎兵衛供養塔  徳倉神社前
  



 
雑 感 

 徳倉城主であった松田氏は、室町期初頭松田十郎盛朝のとき備前守護職を得ている。戦国期には富田城から金川城に拠点を移し、備前西に一大勢力を持ち戦国大名になる力量があったようだが、宇喜多直家が行く手を阻み全てを奪った。

 松田氏の本城は金川城、その出城的役割をもっていたのが徳倉城だとして、ではなぜこの宇喜多直家もしくは秀家は徳倉城という山城を石垣の城に改修し、家臣遠藤河内守に守らしたのかその目的が見えてこない。
 この城の向きは東で、東にのみ眺望がきく。その先には、6年後の天正2年(1574)に決戦をいどむ主君浦上宗景の天神山城がある。いつかその日を見据えて出城として装備を加えたものだろうか。

 直家は天下の落ち着くさまを見ずに天正10年(1582)に53歳で亡くなっている。
 
 


城郭一覧アドレ
  

備前 明禅寺城跡 宇喜多氏ゆかりの城⑤

2020-06-09 08:48:03 | 城跡巡り

今回は、明禅師(みょうぜんじ)城跡を紹介します。城跡は操山(みさおやま)公園の里山ハイキングコース上にあることがわかり、操山公園をめざした。





▲全景  百間川の岸から南方面





▲全景 山麓に恩徳寺がある





明禅寺城跡のこと    備前国上道郡沢田村(現岡山市中区沢田)

 明禅寺城跡は、操山の北部に突き出した尾根筋先端部(標高100m、比高95m)にある。
 北端から南にかけて尾根筋約300mの城域をもつ連郭式の城跡である。主郭が最も広く、帯曲輪を持ち、最南部の曲輪の周囲にも帯曲輪が見られるものの全体的に削平の度合いがゆるい。
 城の眼前に田園が広がり、西方に岡山平野の北部が望める位置にある。宇喜多直家は沼城を根拠に西の旭川が流れる岡山平野を目ざしていた。一方、備中の雄国人領主の三村元親が備中松山城を根拠に美作や備前への侵入を図っていた。

 それに対して直家は、永禄9年(1564)明禅寺城に見張りを配置すると、翌年の永禄10年に、三村勢により攻め落とされた。これにより、同年両者の全面対決が当城周辺で繰り広げられた。それは備前最大規模のもので「明禅寺合戦」といわれ、兵数で劣りながら宇喜多氏の大勝利となり、三村勢の大敗を「明禅寺崩れ」ともいう。




▲明禅寺城と関係諸城の位置図



▲東からの鳥瞰 上部(西)に岡山平野が望める   by Google Earth




明禅寺城の城名及び城主のこと

 明禅寺山の名は、山上に平安期以降に建てられ中世末に廃滅していた明禅寺という名の密教寺院があったことによる。そのため、その城を明禅寺城といった。

 『備前軍記』の「澤田村明禅寺落城の事」の記事の終わりに「澤田村明禅寺山の城を近世に記せるものに皆妙善寺山と書く是は御野郡津嶋の妙善寺あるに混して誤れるや・・」と作者は当時の文献は皆誤っていると指摘している。

 ちなみに当時に編纂された文献に『備前記』、『備陽記』、『吉備前秘録』、『吉備温故秘録』等々あるが、ほとんどが、「妙善寺」とある。また城主については、薬師寺弥五郎(弥七郎)、中島大炊、根矢(屋)与七郎の名があがっている。
 この薬師寺氏については古都荘の代官に、文明2年(1470)以降、薬師寺某、薬師寺次郎の名が見えることから、その関係筋の人物と思われる『言継卿記』。

参考:『角川地名辞典』


▲妙(明)善寺城古城 『吉備群書集成』より



アクセス

操山公園の里山ハイキングコースの一つに明禅寺城跡コースもあり、案内板が立てられているので迷うことはない。







里山センターの前を通りの尾根筋まで登っていくと「ふれあいの辻」に至る。
案内板の指示通り右に進み、すぐまた右に折れる。これより620mとある。


  


 
▲「ふれあいの辻」



次の交叉で明禅寺城跡まで350mの表示あり



 




途中、大岩の道を抜けると、登りにかかる。城域に入ったようだ


 










登りきり、少し進むとひろい曲輪跡に至る。これが主郭である。



▲主郭 

▲主郭からの展望  木々が無ければ岡山平野も見える



▲主郭の帯曲輪 巨石が横たわり、石積みが見られる。




▲東屋 山麓への道



東屋から麓に降りる道がある。ジグザクの道をすすみ降りていくと竹藪があり、そこを右にすすむと、果樹園があり、恩徳寺の本堂近くに出る。



 


 
▲降りてきた道 恩徳寺の本堂が近い ▲恩徳寺の本堂横の入り口


 この城跡は初めてであったので、尾根筋裏手からの探索となり少し時間がかかった。城跡に行くには、果樹園から登るのが最短コースになる。ここからだと所要時間は約30分もあれば登れるだろう。



雑 感

 宇喜多直家は、「明禅寺合戦」で備中の三村氏に大きなダメージを与えた。このあと、永禄11年(1568)備前西で戦国大名をねらう松田氏の本城金川城を落とすことに成功し、元亀元年(1570)岡山城主金光宗高を倒し、岡山城を奪いそれを改修をして以後本拠としている。こうして主君浦上宗景と肩を並べるまでの勢力を手中にした直家は、宗景と決別する日がこの後やってくる。

 それが天正3年(1575)和気町の天神山城の戦いである。それに勝利し備前を手中にした。
 最後のハードルは毛利と織田の2大勢力の狭間の中、毛利と和睦し織田勢力に向かって播磨攻めの先鋒をつとめたが、その後突如織田へ寝返りを企て生き延びることができた。

 宇喜多直家のゆかりの城跡巡りから備前の戦国期の大筋が見えてきたような気がしている。宇喜多氏によって消された在地領主も少なくない。いずれそれらの城跡も見てみたい気持ちになっている。




【関連】
乙子城
天神山城

城郭一覧アドレ

 


備前 沼城(亀山城)跡 宇喜多氏ゆかりの城④

2020-05-31 10:51:50 | 城跡巡り

今回は、沼城(亀山城)跡です。二つの名をもつ城です。名称は、沼は地名から、亀山は城山の形状から来ています。




▲沼城(亀山城)全景



▲関係諸城の位置関係 北から   by Google Earth



▲沼城跡の鳥瞰      by Google Earth





沼城(亀山城)跡  岡山県上道郡沼(現岡山市東区沼)


 沼城は砂川の西側に大小の丘(標高40m)に本丸(主郭)、その周りに帯曲輪・腰曲輪、東に二の丸、西に西の丸の曲輪等を丘全体に置いています。二の丸は畑地になり、西の丸は学校の敷地として削られ裏山に残る。
 城東に南北に流れる砂川は典型的な天井川で氾濫が絶えず、沼地の中に浮かぶ島のようであったと思われる。

 城の位置は、南に東西に走る山陽道、砂川は西大寺沖に達し、東に向かって5km先には中世の時代から商都として人・物の流通が盛んな福岡があり、東西南北の流通の重要地点にあった。

 城主は中山信正、宇喜多直家。築城者は、中山信正で天文年間(1532~55)に亀山城を築いている。信正は戦国期に備前国西部の鎌倉期からの国人領主松田氏に従っていたが、のち主君を浦上氏に替える。天文20年(1551)に娘を宇喜多直家に嫁がせ縁戚関係を結んだという。 

 永禄2年(1559)浦上宗景の命により、宇喜多直家が信正を謀殺し、亀山城を奪ったという。以後岡山城に移るまで15年間この城を拠点として備前を制覇し戦国大名の道を歩んだ。


直家が謀殺した中山氏のこと

 この亀山城の周辺から西方にかけて居都荘(こずのしょう)という荘園(鎌倉期から戦国期)があり、山科家の荘園であった。

●明応年間(1492~1501)には守護代浦上基久と細川氏の被官薬師寺氏の二人による代官職の交代が繰り返され、天文年間(1532~1555)になると薬師寺次郎と中山与七が居都荘の代官となっている『言継卿記(ときつぐきょうき )』。

●永禄2年(1559)8月には山科家の家司田口伊賀守が「居都之代官中山備前守書状・百疋等」を持参している『言継卿記』。

●永禄7年(1564)3月、代官浦上与二郎の名で記されるのを最後に山科家関係での居都荘の所見はなくなる。

 この史料から、中山家は居都荘の代官職にかかわり、信正のとき浦上氏から代官職を手に入れている。しかし永禄2年~7年に中山氏の名が消え、浦上与二郎なる人物が代官になっていることから、この間の永禄2年(1559)直家が信正に手を下した『備前軍記』等の伝承と一致する。


尼子氏の備前侵攻と浦上一族の対応

 天文20年(1551年)頃には、尼子晴久が備前国への侵略がはじまった。この動きに対し浦上兄弟政宗・宗景の意見が対立し、備前は大きく二つに分かれた。兄の政宗(室山城主)は尼子に同調したのに対し、弟の宗景(天神山城主)は反尼子側として、毛利氏と備中三村氏の手を結び備前の国人衆を取りまとめ対抗した。そのため、尼子晴久自らも沼城と天神山城に出向き威圧している。

この時期の尼子と浦上の争いに関して、最近の調査や研究で次のようなことがわかった。
●年月不詳8月12日であるが、沼城が攻撃され、宍甘(しじかい)与三左衛門尉が沼城に入って雲州勢相手に戦った功績が浦上宗景感状(池木氏所蔵文書)として残されている。
●弘治初年(1555~)頃、浦上宗景軍は、政宗方の新庄山城(岡山市竹原)を落とした。(山田家文書・明王寺縁起など)。
●弘治三年(1557)春、宗景に味方する宇喜多直家が「奈良部の城」に入り、城普請を行なっている(備前西大寺文書、馬場氏奉公書)。
直家が手に入れたこの「奈良部の城」というのは、従来は新庄山城と云われてきた(『吉備温故秘録』に新庄山城は「奈良部の城」との記述がある。)が、近年砂川の東岸に近い岡山市西平島字楢部に存在した平城と考えられるようになった。(森俊弘氏「岡山藩士馬場家の宇喜多氏関連伝承について」)。

参考 「沼城 落穂ひろい ふーむ:web」、『角川地名辞典』、他






▲沼城縄張り図  説明板より




▲上道郡亀山(沼ノ)城古図  『吉備群書集成』より




アクセス



浮田小学校を目指していけば、わかりやすい。



 
▲亀山城の説明板               ▲弁天神社の石段を上がればすぐ


 
▲主郭(本丸)跡           ▲「直家飛躍の地」、「秀家生誕地」、「亀山城跡」、の碑   




 
▲二の丸に上がる道                       ▲二の丸から本丸への道 




雑  感


 岡山備前の戦国時代の歴史は、江戸時代に書かれた備前軍記を中心に物語や逸話として語り伝えられた感があります。戦国時代の下剋上を成し遂げた戦国武将を梟雄(きょうゆう)といい、その中の一人に宇喜多直家がよく取り上げられます。
 
 今回の沼城の紹介で、宇喜多直家が沼城主中山氏を騙し討ちをした事に関し細かな手口が軍記物類に出ています。

 従来歴史研究では、軍記物等の扱いは一考を要すというのがあって、ほかに検証のできないことは参考程度に留めるというスタンスなので、史実と断定できない物語ということになります。

 この後に扱う岡山の城跡での宇喜多氏の動きや関連の人物などに関しては近年の岡山の歴史研究の成果や情報をできる限り伝えていきたいと思っています。 




【関連】
砥石城
新庄山城
乙子城
天神山城


城郭一覧アドレ

備前 砥石城跡  宇喜多氏ゆかりの城③ 

2020-05-25 13:15:05 | 城跡巡り
   



▲砥石(といし)城跡全景



▲頂上部ズーム



▲宇喜多氏のゆかりの城跡の位置関係    by Google Earth






砥石城跡のこと  岡山県邑久郡邑久町豊原(現岡山県瀬戸内市邑久町豊原)

 瀬戸内市の西部にあり、千町平野がパノラマに見え、北には長船町福岡の商都を一望できる位置にある。

 城主は、宇喜多直家と伝わる。『宇喜多伝』また、島村観阿弥が在城し、宇喜多三代(能家・興家・直家)在城とある。『備前記』

 城跡の形状は主郭の前に幾つかの細工があまりなされていない曲輪跡がいくつか見られる。主郭には金毘羅宮が幕末期に建てられ、それ以降お宮の台座縁の石垣が新しくなり、その周辺が改変されている。

砥石城及び周辺の地での合戦
 応仁・文明の乱後(1467~1468)の文明15年~16年(1483から1484)の福岡合戦があり、山名俊豊と松田元成に備前守浦上紀三郎則国は破れ、赤松政秀の播磨高田城(上郡町)に逃れた。山名俊豊が備前に乱入し射越(いこし)村の余慶寺涅槃像が散失し、修復したときの記録が寺の文書にも残されている。

 文明17年(1486)の守護赤松政則の復活にともない則国は再び山名・松田軍と合戦を交えるも、戸石城(砥石城)にて討ち果たされた。『庶軒日録』なお、松田元成は余勢をかって、浦上の三石城を攻撃したが、逆に敗退し敗死したという。

 天文末年(1555)頃、砥石城の城主で宇喜多直家の同族でもある宇喜多大和守が浦上宗景の兄政宗に味方をしていたため、浦上宗景が乙子城主宇喜多直家に砥石城を攻撃させ、激しい戦いの後、弘治元2年(1556)頃砥石城を陥落させ大和守を滅ぼしている。(『馬場家記』(森俊弘氏「岡山藩士馬場家の関連伝承について」) 


参考:「砥石城 落穂ひろい ふーむ氏 web」、『日本城郭体系』、『角川地名辞典』




▲説名板より



▲イメージ図 「高取城 落穂ひろい ふーむ氏)の縄張り図をもとに作成




アクセス


登城口は①、②の2か所ある。 所要時間は10~15分程ですぐに登れる。








▲①の登城口

▲登り始め



▲砥石城の説明板


 
▲登城途中



 
▲主郭前                             ▲主郭





もう一つの②登城口は、左に曲がり谷に入ると、間もなく登山道の石柱が道脇にある。この近くに車一台ほどは止められる。




▲右に砥石城跡登山道、左に笠形神社参道とある



こちらの②登城口前には、「宇喜多直家生誕の地」の石碑が立っている。








 



登りきると、城跡の背後に出る。ここに案内版があり、右に進む。直線的な道がつづき途中から石段が敷かれている。











 









▲説明板 




▲眼下に千町川、とりまく千町平野が一望



▲主郭 北側から



▲本丸東石垣 『日本城郭体系』(昭和55年発行)より



上記写真の主郭東の石垣は見当たらない。




▲お宮の台座の下の新しい石垣とやや古い石垣




雑 感

 3年前(2017年)備前の城で、宇喜多氏ゆかりの城としてはこれが最初でした。今になってやっと「宇喜多氏ゆかりの城跡」として紹介しているところです。

 砥石城跡は小規模の連郭式の城跡で、『日本城郭体系』に写真にある主郭東の石垣を探すも見当たらない。お宮の石垣と並んだ自然石の石垣をみてもちがうようだし、また出丸(出城)跡(実は高取城跡)が鉄塔の辺りだと勝手に思い、見落としていたこと。(^^; 
 これを機会に、高取城跡と従来高取城といわれてきた城「高尾城跡」を行きたいと思っています。

 登城中ハイキングのグループの人達に出あって「おくの細道アルプス」(下掲載)というマップをいただきました。この周辺は高くても200m級の山々が並びつながり散策コースが豊富です。「躑躅の小径」があります。たまたま登城した時がツツジがきれいな時期でした。芭蕉の「奥の細道」ならず「おく(邑久郡※)の細道アルプス」とはしゃれています。この山々を南下すれば瀬戸内方面に出ます。




赤〇は射越(村)と余慶寺、仁生田古戦場跡、大賀島寺に宇喜多一門供養の塔


【関連】
・沼城
・新庄山城
・乙子城
・天神山城

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