《三輪の白い片栗(種山高原、令和3年4月27日撮影)》
白い片栗はまるで、賢治、露、そして岩田純蔵先生の三人に見えた。
そして、「曲学阿世の徒にだけはなるな」と檄を飛ばされた気がした。
【『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版、550円(税込み))の表紙】
【キャッチコピー】
【目次】
【序章 門外漢で非専門家ですが】
【終章】
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《三輪の白い片栗(種山高原、令和3年4月27日撮影)》
白い片栗はまるで、賢治、露、そして岩田純蔵先生の三人に見えた。
そして、「曲学阿世の徒にだけはなるな」と檄を飛ばされた気がした。
《新刊ご案内》
『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版、550円(税込み))
【目次】
【序章 門外漢で非専門家ですが】
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来る3月20日開催の講演会『宮澤賢治をめぐる女性たち―高瀬露について―』は予定どおり実施致します。
ただし、新型コロナウイルス対策のため、講演会場を
矢巾町国民保養センター(『イーハトーブ本の森』の、道路を挟んだ北隣り)
に変更いたしましたので、取り急ぎご連絡申し上げます。
なお、ご出席はどうぞご無理なさらないで下さい。また、お越しになる方はマスクをご持参下さい。
2020年3月 . . . 本文を読む
《「一緒に晴らしませんか露の濡れ衣」の栞(『本統の賢治と本当の露』用)》
吉田 それは、あの石井洋二郎氏があの式辞で警鐘を鳴らしたことが、賢治研究の分野でも例外なく起こっているということかも知れんな。
鈴木 私はここまで十年程賢治研究の分野で実証的に検証してきたのだが、その結果最も驚いたことは、賢治研究の分野でもそれは例外ではなく、石井氏が嘆いているように、
・「本来作動しなければならないはずの批 . . . 本文を読む
《「一緒に晴らしませんか露の濡れ衣」の栞(『本統の賢治と本当の露』用)》
鈴木 さて、そろそろそ「Wikipediaの高瀬露」の検証もそろそろ終わりにしたいのだがいいだろうか。
そもそも今回は何がことの始まりだったのかというと、『ウィキペディア(Wikipedia)』の中の「高瀬露」の項目に対して、Wikipedia側から、
この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 . . . 本文を読む
《ヤマルリトラノオ》(平成30年7月19日撮影)
鈴木 さて、以上で背景を塗りつぶした部分の考察は全て終わったのだが、次の部分がやっぱり気になるんだよな。
また、賢治の詩「最も親しき友らにさへこれを秘して」における
あらゆる詐術の成らざりしより
我を呪ひて殺さんとするか
然らば記せよ
女と思ひて今日までは許しても来つれ
今や生くるも死するも
なんぢが曲意非 . . . 本文を読む
《ヤマルリトラノオ》(平成30年7月19日撮影)
「押しかけ女房」としての露の行動は、賢治の死後、1939年11月発行の機関誌「イーハトーヴォ」創刊号に掲載された高橋慶吾「賢治先生」や、1943年9月20日刊行の関登久也「宮沢賢治素描」(協栄出版社)における羅須地人協会員の座談会を通じて広く知られるようになった。これに対し、露は「事実でないことが語り継がれている」と発言したほかは何も弁解しなかっ . . . 本文を読む
《ヤマルリトラノオ》(平成30年7月19日撮影)
鈴木 では今度はこれだ。
「押しかけ女房」としての露の行動は、賢治の死後、1939年11月発行の機関誌「イーハトーヴォ」創刊号に掲載された高橋慶吾「賢治先生」や、1943年9月20日刊行の関登久也「宮沢賢治素描」(協栄出版社)における羅須地人協会員の座談会を通じて広く知られるようになった。これに対し、露は「事実でないことが語り継がれている」と発 . . . 本文を読む
《ヤマルリトラノオ》(平成30年7月19日撮影)
荒木 そうか、「聖女のさまして近づけるもの」とは実は限りなく伊藤ちゑだったのか。でもさ、待てよ。ならばこの〈悪女〉はちゑとされてしまうのか。
鈴木 いやいや、もちろんそうはならない。たしかに、賢治自身は、「たくらみすべてならずとて」とか「われに土をば送るとも」などと書いてちゑに当て付けたかったということはほぼ間違いないが、拙著でも、
なお、最後に . . . 本文を読む
《ヤマルリトラノオ》(平成30年7月19日撮影)
鈴木 では今度は、
の後半、
この露の行動に賢治は怒り、
聖女のさましてちかづけるもの
たくらみすべてならずとて
いまわが像に釘うつとも
云々という詩を「雨ニモマケズ手帳」に記している[15:p.158-159]。 についてだ。
吉田 それではまず[15:p.158-159]について、例のリストの中の該当項目 . . . 本文を読む
《ヤマルリトラノオ》(平成30年7月19日撮影)
鈴木 では今度はこれ、
やがて1930年10月頃、恋に破れたと悟った露は賢治を恨むようになり、賢治の作り話である「癩病」の噂を周囲に言いふらして歩いた[14:p.158]。この露の行動に賢治は怒り、
聖女のさましてちかづけるもの
たくらみすべてならずとて
いまわが像に釘うつとも
云々という詩を「雨ニモマケズ手帳 . . . 本文を読む
《ヤマルリトラノオ》(平成30年7月19日撮影)
鈴木 では今度はこれだが、
困り果てた賢治に対し、父の政次郎は「その苦しみはお前の不注意から求めたことだ。初めて会った時にその人にさあおかけなさいと言っただろう。そこにすでに間違いのもとがあったのだ。女の人に対する時は、歯を出して笑ったり、胸を拡げていたりすべきものではない」と叱責した[13:p.152-158]。
これについては既に一度引 . . . 本文を読む
《ヤマルリトラノオ》(平成30年7月19日撮影)
鈴木 では今度は、
賢治は露を追い払うため、顔に灰を塗って面会したこともあり、わざとぼろをまとって乞食のような姿で露の前に現れる、などの努力を繰り返した[10:p.153]。また「私は癩病ですから」と嘘をついたこともあるが、露はこの言葉を聞いて同情し、かえって賢治への執着心を強めた[11:p.153-154]。このことが地元で注目を集め「賢治さ . . . 本文を読む
《ヤマルリトラノオ》(平成30年7月19日撮影)
鈴木 では今度はこれだ。
賢治は露を追い払うため、顔に灰を塗って面会したこともあり、わざとぼろをまとって乞食のような姿で露の前に現れる、などの努力を繰り返した[10:p.153]。また「私は癩病ですから」と嘘をついたこともあるが、露はこの言葉を聞いて同情し、かえって賢治への執着心を強めた[11:p.153-154]。このことが地元で注目を集め「 . . . 本文を読む