《『賢治の真実と露の濡れ衣』の表紙》
では今回は、「第二章 「賢治伝記」の看過できぬ瑕疵」の中の「「一九二八年の秋の日」の「下根子桜訪問」」をご覧いただきたい。
森荘已池は「一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった。…(投稿者略)…ふと向うから人のくる氣配だった。私がそれと氣づいたときは、そのひとは、もはや三四間向うにきていた」、と『宮澤賢治と三人の女性』の中に書いているが、「一九二八年」はもちろん間違いだとすぐ気付く。さりながら一方で、森は決して「一九二七年」と書く訳にはいかなかったということもほぼ明らかになる。
〈24p〉
〈25p〉
〈26p〉
「一九二八年の秋の日」の「下根子桜訪問」
それでは、露に関して「あやかしでない」と思われるものとしては何がこの「下敷」に書かれているのだろうか。それは、
彼女にはじめて逢った時の様子を『宮沢賢治と三人の女性』に森は高瀬露についていろいろと書いているが、直接の見聞に基いて書いたものは、この個所だけであるから参考までに引用しておく。 <『七尾論叢11号』77p>
と上田が同論文中で断り書きをして引用している、唯一「直接の見聞」に基づいたと考えられる次の記述内容、
一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった。…(筆者略)…ふと向うから人のくる氣配だった。私がそれと氣づいたときは、そのひとは、もはや三四間向うにきていた。…(投稿者略)…半身にかまえたように斜にかまえたような恰好で通り過ぎた。私はしばらく振り返って見ていたが、彼女は振り返らなかった。 <『七尾論叢11号』77p>
だけは少なくともそうだろうと思いたい。
ところが肝心のこれが大問題となる。「一九二八年の秋」であれば、賢治は豊沢町の実家で病臥していたのだから「下根子桜」にはもはや居らず、この引用文に書かれているような「下根子桜訪問」は森には不可能であり、「一九二八年の秋」という記述は致命的ミスであることが明らかだからだ。
そこで、『新校本年譜』はこの「下根子桜訪問」についてどうしたかというと、
「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く。 <同年譜、359p>
と註記して、これを「一九二七年の秋の日」と読み変えている。つまり同年譜は、「一九二八年」は森の単純なケアレスミスだったと判断していることになる。しかしながらこのような判断は安直であり、論理的でもない。そもそも、大前提となるそのような「下根子桜訪問」が確かにあったという保証は何ら示せていないからだ。
まして上田の前掲論文には、「露の「下根子桜訪問」期間は大正15年秋~昭和2年夏までだった」という意味の露本人の証言も載っているから、もしそうだったとすれば、「一九二七年(昭和2年)の秋」に森が「下根子桜」を訪ねたとしても道の途中で露とはすれ違えないので、尚更その保証が必要となる。
しかもよくよく調べてみたならば、賢治が亡くなった翌年の昭和9年発行の『宮澤賢治追悼』でも、『宮澤賢治研究』(昭14)でも、そして『宮沢賢治の肖像』(昭49)でも皆、その「下根子桜訪問」の時期を森は「一九二八年の秋」としていて、決して「一九二七年の秋」とはしていなかった。こういうことであれば、「一九二七年の秋」に森は「下根子桜」を訪問していなかったと、普通は判断したくなる。
そんな時にふと思い出したのが、『宮沢賢治と三人の女性』では西暦が殆ど使われていなかったはずだということだ。そこでそのことを調べてみたならば案の定、全体で和暦が38ヶ所もあったのに西暦は1ヶ所しかなく、それがまさに「一九二八年の秋の日、私は下根子云々」の個所だけだった。しかも、同じ年を表す和暦の「昭和三年」を他の5ヶ所で使っているというのにも拘らずである。
となれば、あれはケアレスミスなどでは決してなく、彼にはその訪問の年を「一九二七年」とはどうしても書けない何らかの「理由」が存在していたという蓋然性が高いと言える。しかもそこだけは和暦「昭和三年」を用いずに西暦を用いているということから、ある企みがそこにあったのではなかろうかと疑われても致し方なかろう。
もはやこうなってしまうと、件の「下根子桜訪問」の年を森は決して「一九二七年」と書く訳にはいかなかったということがほぼ明らかだ。おのずから、同年の秋の日に森はそのような訪問そのものをしていなかったということも否定できなくなったので、今までの大前提が崩れ去り、この「直接の見聞」は実は単なる創作だったということがいよいよ現実味を帯びてきた。
一方で、次のような疑問が湧く。森は『宮沢賢治 ふれあいの人々』(熊谷印刷出版部)の17pで、
この女の人が、ずっと後年結婚して、何人もの子持ちになってから会って、いろいろの話を聞き、本に書いた。
と述べていながら、上田に対しては、
〈一九二八年の秋の日〉〈下根子を訪ねた〉その時、彼女と一度あったのが初めの最後であった。その後一度もあっていない。 <『七尾論叢11号』77p>
と答えたという。もちろんどちらの女性も露のことであり、森は露と会ったのは一度きりと述べたり、別の機会にも会ったと述べたりしていることになるから、件の「下根子桜訪問」に関して森は嘘を言っていた蓋然性が高い。ならばいっそのこと逆に、是非はさておき、その訪問時期は「一九二七年の秋の日」だったと森は始めから嘯くという選択肢だってあったはずだがなぜそうはしなかったのだろうか、という疑問が湧くのだった。
それでは、露に関して「あやかしでない」と思われるものとしては何がこの「下敷」に書かれているのだろうか。それは、
彼女にはじめて逢った時の様子を『宮沢賢治と三人の女性』に森は高瀬露についていろいろと書いているが、直接の見聞に基いて書いたものは、この個所だけであるから参考までに引用しておく。 <『七尾論叢11号』77p>
と上田が同論文中で断り書きをして引用している、唯一「直接の見聞」に基づいたと考えられる次の記述内容、
一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった。…(筆者略)…ふと向うから人のくる氣配だった。私がそれと氣づいたときは、そのひとは、もはや三四間向うにきていた。…(投稿者略)…半身にかまえたように斜にかまえたような恰好で通り過ぎた。私はしばらく振り返って見ていたが、彼女は振り返らなかった。 <『七尾論叢11号』77p>
だけは少なくともそうだろうと思いたい。
ところが肝心のこれが大問題となる。「一九二八年の秋」であれば、賢治は豊沢町の実家で病臥していたのだから「下根子桜」にはもはや居らず、この引用文に書かれているような「下根子桜訪問」は森には不可能であり、「一九二八年の秋」という記述は致命的ミスであることが明らかだからだ。
そこで、『新校本年譜』はこの「下根子桜訪問」についてどうしたかというと、
「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く。 <同年譜、359p>
と註記して、これを「一九二七年の秋の日」と読み変えている。つまり同年譜は、「一九二八年」は森の単純なケアレスミスだったと判断していることになる。しかしながらこのような判断は安直であり、論理的でもない。そもそも、大前提となるそのような「下根子桜訪問」が確かにあったという保証は何ら示せていないからだ。
まして上田の前掲論文には、「露の「下根子桜訪問」期間は大正15年秋~昭和2年夏までだった」という意味の露本人の証言も載っているから、もしそうだったとすれば、「一九二七年(昭和2年)の秋」に森が「下根子桜」を訪ねたとしても道の途中で露とはすれ違えないので、尚更その保証が必要となる。
しかもよくよく調べてみたならば、賢治が亡くなった翌年の昭和9年発行の『宮澤賢治追悼』でも、『宮澤賢治研究』(昭14)でも、そして『宮沢賢治の肖像』(昭49)でも皆、その「下根子桜訪問」の時期を森は「一九二八年の秋」としていて、決して「一九二七年の秋」とはしていなかった。こういうことであれば、「一九二七年の秋」に森は「下根子桜」を訪問していなかったと、普通は判断したくなる。
そんな時にふと思い出したのが、『宮沢賢治と三人の女性』では西暦が殆ど使われていなかったはずだということだ。そこでそのことを調べてみたならば案の定、全体で和暦が38ヶ所もあったのに西暦は1ヶ所しかなく、それがまさに「一九二八年の秋の日、私は下根子云々」の個所だけだった。しかも、同じ年を表す和暦の「昭和三年」を他の5ヶ所で使っているというのにも拘らずである。
となれば、あれはケアレスミスなどでは決してなく、彼にはその訪問の年を「一九二七年」とはどうしても書けない何らかの「理由」が存在していたという蓋然性が高いと言える。しかもそこだけは和暦「昭和三年」を用いずに西暦を用いているということから、ある企みがそこにあったのではなかろうかと疑われても致し方なかろう。
もはやこうなってしまうと、件の「下根子桜訪問」の年を森は決して「一九二七年」と書く訳にはいかなかったということがほぼ明らかだ。おのずから、同年の秋の日に森はそのような訪問そのものをしていなかったということも否定できなくなったので、今までの大前提が崩れ去り、この「直接の見聞」は実は単なる創作だったということがいよいよ現実味を帯びてきた。
一方で、次のような疑問が湧く。森は『宮沢賢治 ふれあいの人々』(熊谷印刷出版部)の17pで、
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と述べていながら、上田に対しては、
〈一九二八年の秋の日〉〈下根子を訪ねた〉その時、彼女と一度あったのが初めの最後であった。その後一度もあっていない。 <『七尾論叢11号』77p>
と答えたという。もちろんどちらの女性も露のことであり、森は露と会ったのは一度きりと述べたり、別の機会にも会ったと述べたりしていることになるから、件の「下根子桜訪問」に関して森は嘘を言っていた蓋然性が高い。ならばいっそのこと逆に、是非はさておき、その訪問時期は「一九二七年の秋の日」だったと森は始めから嘯くという選択肢だってあったはずだがなぜそうはしなかったのだろうか、という疑問が湧くのだった。
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◇会長 高橋征穂:〒028-3623 岩手県紫波郡矢巾町煙山2-1―41 「イーハトーブ本の森」 電話019-698-2125
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『露草協会』会長 高橋 征穂
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この度、貴会へ入会いたしたく、ここに申込みをしますのでよろしくお願いいたします。
菊地 和子 盛岡市
この度は高瀬露の濡れ衣を晴らすための会、『露草協会』にご入会たまわりありがとうございます。
それでは、
登録番号145 菊地 和子 様
として、登録させて頂きます。
平成30年10月22日 『露草協会』会長 高橋征穂
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髙橋 善雄 盛岡市
この度は高瀬露の濡れ衣を晴らすための会、『露草協会』にご入会たまわりありがとうございます。
それでは、
登録番号146 髙橋 善雄 様
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平成30年10月22日 『露草協会』会長 高橋征穂