写真は、「高桑城趾」説明板
高桑城跡・境川(覚書1の地図参照)堤防上に掲げられている。
説明文
「高桑城趾 鎌倉時代初め(一一九〇年代)から一五六七年(永禄一〇年)まで、ここに高桑城がありました。 この城は土塁で築かれ、周囲は約四〇〇メートル、その北西には御館様と呼ばれる城主家高桑氏の住居がありました。 城は、一五二七年(大永七年)八月留守居役の武山氏に渡り、一五六七年(永禄一〇年)織田信長の手によって落城しました。 今は、堤外に土盛りが一部残っており、城石は慈恩寺の観音堂の石垣に使われています。 柳津町 柳津町文化財保護審議会」
今も御館様(おやかたさま)の地名が残っている。
慈恩寺:後に由緒と写真
観音堂:後に写真
石垣:後に写真
覚書(1)の地図 参照
長良川を挟んで、高桑城と向き合って、墨俣城が在る。墨俣城というと「墨俣一夜城」物語が人口に膾炙している。写真は墨俣一夜城跡。
永禄3年(1560)~9年にも及ぶ尾張の織田信長と美濃の斉藤道三との攻防戦(後記)の時、秀吉(当時、木下藤吉郎)は、美濃攻略には、墨俣に攻略基地を設けるのが必須であると進言し、信長が秀吉に任せたところ、何んと僅か3日にして城を築いたという。若しこれが真実であったなら、高桑城とは目と鼻の先であるから、一夜にして忽然と長良川の対岸に姿を現した城に、高桑城中の者は、呆気にとられると同時に、さぞ脅威を感じたであろう。現に後に高桑城は、織田軍に攻撃され、落城の悲運の中で、多くの悲劇が生まれた。(この戦いの経過とその悲劇に付いては、後に詳記)
長年「高桑氏族」関連資料に当たってきて、かなりのページの覚書になったが、浅学菲才の身、誤謬を恐れ、諸賢の批判を仰ぐ為、今後このブログ更新を重ねながら、敢えて公開を続けていきたいと思っている。
高桑氏族は、歴史家が確実な資料として利用している諸書に、鎌倉時代初期から登場するが、時代を逆にして、先ず室町・戦国期に於ける高桑氏の動きから記してみたい。
「高桑城」周辺の地図
墨俣城:岐阜県大垣市
川手城(革手城):岐阜市川手(美濃国守護・土岐氏の本城)
高桑城:岐阜市柳津町字高桑(川手城の支城、城主・高桑氏)
(高桑氏:土岐氏 の重臣 )
高桑氏族発祥の地とされる岐阜県柳津町字高桑の「高桑城」は、上記地図の通り、木曽川・長良川の大河、更に境川・荒田川と二重に囲まれた要害の地に在った。高桑城は、境川の河畔に位置していた。境川は、旧木曽川本流の河道であった。