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「高桑氏族」 覚書(5)

2012-03-16 10:02:53 | 歴史

写真は「無念の地」の板碑

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板碑の碑文

無念の地 信長公天下平定せんとする頃、即ち永禄年間、美濃の残党狩りの際、高桑城支配・高桑党類等、不意討ちを受け、防戦するも、衆寡敵せず、此の地に討出て自害すと、故に御無念の地と称す。」

これは永禄10年(1567年)の事で、織田信長の命を受けた嫡男・信忠率いる織田軍が高桑城を急襲して落城させた。

因みに明智光秀は、「本能寺の変」で、信長を襲った後、信忠を攻めた。信忠軍は明智軍と奮戦したが、敗れて自刃して果てている。

   

    

     

             


「高桑氏族」 覚書(4)

2012-03-15 13:41:35 | 歴史

写真は「高桑城跡」 昭和62年(1987年)9月撮影

今後このブログ掲出の高桑城周辺の写真(10数葉):その殆どは、上記年月に高桑地区を訪れた際に撮影

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高桑城は、境川(旧木曽川)に面した平城で、約400mの土居(土塁)に囲まれていた。

写真右手:境川堤

城跡は写真の通り、公園になっていた。

写真左端の小屋は「高桑大太鼓」の道具倉庫(「高桑大太鼓」の由緒と写真は後出)

この地は現在、町村合併が繰返されて「岐阜市柳津町高桑」となっているが、それ以前は「岐阜県羽島郡柳津町字高桑」であった。古来の地名は「美濃国厚見郡高桑邑(ゆう、むら)」であった。


「高桑氏族」 覚書(3)

2012-03-14 09:53:00 | 歴史

写真は、「高桑城趾」説明板

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高桑城跡・境川(覚書1の地図参照)堤防上に掲げられている。

説明文

高桑城趾 鎌倉時代初め(一一九〇年代)から一五六七年(永禄一〇年)まで、ここに高桑城がありました。 この城は土塁で築かれ、周囲は約四〇〇メートル、その北西には御館様と呼ばれる城主家高桑氏の住居がありました。 城は、一五二七年(大永七年)八月留守居役の武山氏に渡り、一五六七年(永禄一〇年)織田信長の手によって落城しました。 今は、堤外に土盛りが一部残っており、城石は慈恩寺の観音堂の石垣に使われています。 柳津町  柳津町文化財保護審議会

今も御館様(おやかたさま)の地名が残っている。

慈恩寺:後に由緒と写真

観音堂:後に写真

石垣:後に写真


「高桑氏族」 覚書(2)

2012-03-11 11:29:30 | 歴史

覚書(1)の地図 参照

長良川を挟んで、高桑城と向き合って、墨俣城が在る。墨俣城というと「墨俣一夜城」物語が人口に膾炙している。写真は墨俣一夜城跡

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永禄3年(1560)~9年にも及ぶ尾張の織田信長と美濃の斉藤道三との攻防戦(後記)の時、秀吉(当時、木下藤吉郎)は、美濃攻略には、墨俣に攻略基地を設けるのが必須であると進言し、信長が秀吉に任せたところ、何んと僅か3日にして城を築いたという。若しこれが真実であったなら、高桑城とは目と鼻の先であるから、一夜にして忽然と長良川の対岸に姿を現した城に、高桑城中の者は、呆気にとられると同時に、さぞ脅威を感じたであろう。現に後に高桑城は、織田軍に攻撃され、落城の悲運の中で、多くの悲劇が生まれた。(この戦いの経過とその悲劇に付いては、後に詳記)


「高桑氏族」 覚書(1)

2012-03-08 10:39:10 | 歴史

長年「高桑氏族」関連資料に当たってきて、かなりのページの覚書になったが、浅学菲才の身、誤謬を恐れ、諸賢の批判を仰ぐ為、今後このブログ更新を重ねながら、敢えて公開を続けていきたいと思っている。

高桑氏族は、歴史家が確実な資料として利用している諸書に、鎌倉時代初期から登場するが、時代を逆にして、先ず室町・戦国期に於ける高桑氏の動きから記してみたい。

「高桑城」周辺の地図

Map2_2 

墨俣城:岐阜県大垣市

川手城(革手城):岐阜市川手(美濃国守護・土岐氏の本城)

高桑城:岐阜市柳津町字高桑(川手城の支城、城主・高桑氏)

            (高桑氏:土岐氏 の重臣 )                      

高桑氏族発祥の地とされる岐阜県柳津町字高桑の「高桑城」は、上記地図の通り、木曽川・長良川の大河、更に境川・荒田川と二重に囲まれた要害の地に在った。高桑城は、境川の河畔に位置していた。境川は、旧木曽川本流の河道であった。