37 墨田河橋場の渡かわら窯
絵には2艘の渡し舟が描かれている。
渡し舟の右には都鳥(ゆりかもめ)が描かれている。
今戸町には瓦や瀬戸物を焼く窯がいくつも並び、そこから煙が立ち登っていた。
ここで焼かれた瓦を「今戸瓦」瀬戸物を「今戸焼」ともいった。
浅草御門を出た奥州街道は、浅草の東を隅田川沿いに北上し、
聖天町で北西に別れ千住大橋に向かっていた。
千住大橋が架かる以前は、聖天町からさらに北上し、今戸町の先の橋場から
舟で向島の寺島へ隅田川を渡る方法もあった。江戸で最も古い橋場の渡しである。
江戸時代この辺りに、一文銭等の銭を作っていた「銭座」が有った。
現在、橋場の渡しは、白髭橋となり明治通りが走っている。
都鳥は今も、隅田川流域に多く飛んでいる。
桜橋を過ぎた辺りから、高い堤防の横が走れる様になっていて
ランニングをしている人が結構いる。
100 よし原日本堤の内の山谷掘と白髭橋の中間辺り。
絵には2艘の渡し舟が描かれている。
渡し舟の右には都鳥(ゆりかもめ)が描かれている。
今戸町には瓦や瀬戸物を焼く窯がいくつも並び、そこから煙が立ち登っていた。
ここで焼かれた瓦を「今戸瓦」瀬戸物を「今戸焼」ともいった。
浅草御門を出た奥州街道は、浅草の東を隅田川沿いに北上し、
聖天町で北西に別れ千住大橋に向かっていた。
千住大橋が架かる以前は、聖天町からさらに北上し、今戸町の先の橋場から
舟で向島の寺島へ隅田川を渡る方法もあった。江戸で最も古い橋場の渡しである。
江戸時代この辺りに、一文銭等の銭を作っていた「銭座」が有った。
現在、橋場の渡しは、白髭橋となり明治通りが走っている。
都鳥は今も、隅田川流域に多く飛んでいる。
桜橋を過ぎた辺りから、高い堤防の横が走れる様になっていて
ランニングをしている人が結構いる。
100 よし原日本堤の内の山谷掘と白髭橋の中間辺り。
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