風に吹かれて、気の向くまま

人生折り返し地点を過ぎた下町男の思いつき。

100 よし原日本堤 

2007年02月17日 | 今昔 江戸名所百景 
100 よし原日本堤    

この絵は日本堤を正法寺橋辺りから描いたものだろうか…。
吉原に徒歩で通う人、駕籠で通う人々や、右の方には不夜城吉原と見返りの松が描かれている。



 
現在の見返りの松




現在は川(山谷掘の一部は現存)も堤も無くなって、川の跡には公園に姿を変え
堤は土手通りと名前と形を変えて残っている。
この先をしばらく行くと吉原大門にへ出る。


徳川家康が荒川の洪水から江戸市中を守る為、全国の大名に命じて
聖天町から蓑輪までの間に13丁(1500m)の堤防を築かせた。
日本中の大名が賦役して築いた堤なので、日本堤となった説と
この近くに同じ様な堤があり、二本に成ったので二本堤と呼ばれていたのが日本堤に成った説がある。

吉原が移転してきてから、この堤は舟で吉原通いをする人の通り道に成った。


山谷掘公園
山谷掘がいつ掘られたかは定かではないが
江戸の遊郭吉原との関係からみても、おそらく江戸初期に出来たものだろう。
都下水道局ポンプ場の所から、隅田川へと注ぐ約700mに及ぶ山谷掘は
北区の音無川を源とし、飛鳥山の北側、王子権現の下を経て通じていた。

当時この掘は吉原への通路の1つであった。
山谷掘りを通るので吉原通いを別名、山谷通いとも言った。
猪牙船などを仕立てて、このコースを使う遊興はぜいたくとされ
まさにおだいじん遊びだった。

掘の上流から、日本堤橋、地方橋、地方新橋、紙洗橋
山谷掘橋、正法寺橋、吉野橋、聖天橋、今戸橋と9つの橋が架けられていたが
埋立てに伴い全てが取り除かれており、橋台のみが昔の面影を残している。


現在は、水と緑の憩いの公園として整備されている。






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