古社を訪ねて


大阪・奈良の『古き神々との出会い』

3 大名持神社

2006-10-07 | 大和国
奈良県吉野町河原屋に鎮座する「大名持神社
神社専用駐車場 無し (鳥居前に数台の駐車スペース有り)



大名持神社

大名持神社(大汝宮)

「大名持神社は、吉野町大字河原屋、小字妹山に鎮座されている旧式内郷社です。祭神は、大名持御魂神(おおなもちみたまのかみ)・須勢理比羊命(すせりひめのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)で、鬱蒼とした妹山樹叢山麓に、氏子の崇敬を集めて奉祀されています。
 古くは龍門郷二十一か村の大社でしたが、明治十二年八月、河原屋外二十四か村の郷社とすることに群衆合議で変更され、現在は、河原屋・立野の氏神となっています。
 境内には、紀州大真公の奉幣料と里人の資材の寄進による石燈篭があります。また、神社下には、毎年六月三十日に海水が湧き出るという古い言い伝えのある潮生淵(しおうぶち)があります。大汝詣りといって、大和国中(くんなか)の当屋の人が当神社に参詣し、ここで六根清浄の水浴をいたしました。
 妹山樹叢は当社神域に属し、昭和三年三月天然記念物に指定されています。昭和五十六年五月、吉野地方行幸に際し、陛下には妹山にお立寄りになられて親しく樹叢をご覧になられました。
 由緒沿革 
 創紀の年代は詳らかではありません。延長五年(九二七)に完成した延喜式神名帳によると、大和国吉野郡十座の一つとして金峰神社とともに名神大社に列せられており、月次(つきなみ)・新嘗(にいなめ)に官弊がささげられています。
 延喜式には『大名持神社』、同式臨時祭を受ける名神二八五座の中に『大名持御魂神社一座』とあり、大神分身類社鈔によると、中世には『妹背神社』とも称されました。近時は、俗に『大汝言』(おなんじのみや)、音転倒によって『おんなじの宮』ともいわれています。
 菅原道真らの撰進した史書『三代実録』(九〇一)に「貞観元年正月二七日大和国従一位大己貴神に正一位を授く」とあり、『大和志』(一七三五)にも「貞観元年正月授正一位」とあります。貞観元年(八五九)全国で新階・新叙の神社は二六七社に及んでいますが、正一位という極位を授けられたのは、わずかに大名持神社と河内国枚岡神社のみであり、伊勢神宮・宇佐八幡は別にして、山城国の上賀茂・下賀茂の神、鹿島・香取春日の諸神に次ぐ神階を授かった極めて神徳崇高な社です
 本殿は神明造萱葺で、桧皮葺神明造の拝殿・祝詞殿・神饌所清浄手洗所・宝庫・社務所が整備されています。境内神社は、本殿に向かって左 摂社の若宮神社(祭神事代主神)と右 水神社(祭神罔象女神)、本殿西側石段上 末社の金毘羅神社(祭神金山彦神)、稲荷神社(祭神稲蒼神)です。
 境内には二十二基の石燈篭があり、その中には「文化三年十一月 大汝宮 紀伊大守大真公之奉賽料及里民之資材以両基改造也」と刻されたものや、延享元蔵子八月(一七四四)・明和甲申十二月(一七六四)・文久元年十一月(一八六一)・文化五年七月二十八日(一八〇八)の記銘のあるものがあります。
 営繕について、正徳二年(一七一二)の御宮上葺の記録、天保二年十月(一八三一)の屋根替届書控、明治十八年三月上棟の棟札が残っています。
 『大和名所図会』(1791)に「大名持神社 妹山にあり 山は河原屋村に属す。
境内に大海寺あり。云々」 とありますが、神社東南方にあった神宮寺の大海寺は、明治維新の神仏分離で廃寺となり、わずかにその跡が残っているのみです。かって斎祀した熊野曼茶羅の旧日本地仏十二社権現像十二躯は、仏国寺(河原屋)にまつられています。 祭典は二月二十六日(祈念祭)・七月十日(夏祭)・十月十七日(例祭)・十二月二日(新嘗祭)です。
 大汝詣り
 吉野川行きとも言われた大汝詣りは、桜井市内(旧多武峰・朝倉・安倍・香久山の村村や桜井町)の社の祭を執行するに先立って、当屋の者がこの神社に参詣、社前の潮生淵で六根清浄の水浴をし、神酒口に水を汲み、吉野川原の小石を持ち帰って神事に用いた 海水で穢を祓う潮垢離(しおごり)のことです。『吉野名勝志』(一九一一)に「昔時神宮寺あり大海寺と称せり。寺廃されて倉庫一棟存す。潮生淵は社前吉野川の辺に在り古へ三月三日、六月晦日潮水湧出すと云。周囲約二〇間許り、明治十八年巌石を除きて其跡を滅せり」とあり、『大和志』に「社前有潮生淵。毎歳六月晦潮水湧湧故名」とあることから、少なくとも享保の頃に海水が湧くという伝説があって、その頃より続いた行事と思われます。
 妹山
 妹山は、斧鉞を絶つ神聖な山です。「妹山の土は生きている。だから木も毎日様子が変わる」と今も信じられています。また、山頂には池があるという言い伝えも残っています。これらは妹山を神秘な山とした信仰から生まれたもので、妹山という名は忌山(イミヤマ)から起こったと想像されています。そして、人工美林の吉野の山々の中で、しかも交通の便利な地のこの山だけが、原始林的樹叢を今日に残しているのは、その禁忌的信仰のためだといえます。
 鬱蒼とした妹山樹叢は、昭和三年 天然記念物の指定を受け今日に至っております。山中には、ツルマンリョウ・ルリミノキ・テンダイウヤク・ホングウソウ・ホングウシダなど、珍稀な温地性植物が繁茂しています。特にヤブコウジ科に属するツルマンリョウは東亜固有の植物で、わが国では、屋久島・山口県とこの地のみに成育する珍しいものです。 山腹一帯にはアラカシ、イチイガシ、ツクバネガシ、カゴノキ、ツブラジヒ、スタジヒ、サカキなどの常緑広葉樹・山頂には自然性のヒノキの群落がヒトツバ・ウラジロなどを下草として繁っています。
 ちなみに、ツルマンリョウの学名アナムティア(Anamtia stoIonifera Koidz)は大名持神社の名にちなんで小泉博士が命名されたものです。
 大頭入衆日記
 大頭入衆日記(上田龍司氏所蔵)は、正中二年(一三二五)から大永八年(一五二八)までと、享禄二年(一五二九)から、天正十二年(一五八四)までの龍門郷鎮守大宮社の、大頭役になるための宮座座衆に入る記録で、例年の書き継ぎによるものです。上巻の最初に南北朝時代の四通の文書裏を用い、下巻に幕末の学者穂井田忠友の考証をつけている当地域随一の注目すべき文献です。
 「応永七年カノヘ タツ九月四日座衆百姓評定云 天満宮神主殿・大汝宮神主殿両人座敷事自今以後七日十日両度口仕可為御宝殿口役事名代子々孫々可被免貫者也 難然座敷事悉可不有退転可定申由之仍為後代状如件・・・・」の記録から、吉野山口神社(天満宮)と大名持神社が衆会祭を共催していたことがうかがえます。
 大般若経
 正平年間・龍門庄の惣領主牧尭観賞が楠木氏とともに河内国古市方面に転戦中、その執事の由良門羅雲祥が、凶徒退散・宝祚無窮・二親兄弟従類眷属等の離苦得楽と、自身の願望成就を祈願して、大般若経六百巻を写経し、当神社に奉納しました。各経巻首に『龍門庄大汝宮』の古印が朱印された経巻は、現在川上村運川寺に所蔵されています。
 妹背山婦女庭訓
おんなていきん  妹山と対岸の背山を舞台とした浄瑠璃の『妹背山婦女庭訓』は、明和八年(一七七一)に竹本座が再興されてうち出した傑作で、近松半二・近松東南・三好松洛等の合作です。 暴逆きわまりない蘇我入鹿を、知謀に秀でた中臣鎌足が退治していく大織冠物の一つです。
 妹山は太宰少武国人 背山は大判事清澄の領内で、領地争いで不和の両家の久我之助と雛鳥は恋仲である。しかし、雛鳥は入鹿に入内をせまられる。また、入鹿は、執心していた帝の寵姫采女の局が猿沢池に入水したというのは偽りで、実はその付人である久我之助がかくまっているものと疑い、疑いをはらすために、久我之助に出任せよと難題を命じる。つまりは、雛鳥を奪おうとしての謀りである。ついに雛鳥は、久我之助の無事を祈りつつ妹山の屋敷で母に首をうたせる。久我之助もまた雛鳥の幸せを願いつつ腹を切る。-帝への忠節と、雛鳥の命をかけて守った恋心に、二百年来多くの人々は涙を流したのです。」


全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




御祭神



天然記念物の妹山樹叢、神社はこの神体山に鎮座します。

当社付近の小字「サカキサシ」は、吉野山口神社より当社への渡御の式に、道中供御の人々が榊の小枝を口にして無言でここまで到着、榊を挿し捨てた所らしい。

鎮座地の河原屋は、南北朝期から見える地名。












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