透析ライフと散歩と写真

陽気につられて気ままに散歩!
透析生活を前向きに過ごしたい
日々の生活を感じたままに
書いています。

ブログまた始めます

2023-03-02 | 私の透析ライフ
3月になり日中の気温が上がって、
春を感じさせる日が増えてきました。

皆さんお元気でお過ごしですか?

コロナの影響と私自身の体調不良もあって、
長く休んでいたブログの投稿
そろそろ再開してみようかなぁ



茨城県を通過して福島県散歩へ

2016-05-17 | 私の透析ライフ
茨城県通過。やった~♪
数日前から福島県に入っている。宮城県までの距離は166.73km

天気のいい日は新宿駅までの一駅分を、テクテク歩いているが、
スマホのGPS機能で測ってみたところ、2kmの距離のつもりが
実際は1.5kmだったことが判明したからだ。
えぇ~ ちょっとがっかり。距離を稼げなくなってしまった。

しかし歩きを続けてきたことで、足腰が着実に強くなってきたと実感。
それに食後2時間の血糖値も、昨日は120だった。

病院に着いたら着替えをして、手洗いをしてから体重計へ、
時々エッとかゲッという言葉がつい出てしまう。
分かっちゃいるがまた増えちゃった・・?

既に透析を始めて横たわっている仲間達に挨拶をして、自分のベッドへ。
私の一連の動作は次の通りだ。
最初にタオルケットを敷いて枕にタオルを巻き、リュックから
ノートパソコンとタブレット・スマホ・携帯ラジオを取り出して
ベッドの足元に置く。マスクとティッシュボックスも
あとは読み物の本を出す。最近は東腎協と全腎協の会報を
読むことが多い。

次に体温計で熱を測る(体温計は自前のを使っている)
そしてベットにた横たわると、ちょうど食後2時間めになるのだ。
通院を歩きにしてから、体力がついたこと、足腰が強くなったこと、
血糖値が下がったこと、この三点で効果がはっきりと出た。
うれっしい~な
ここで看護師さんが来て、血圧を測ってから穿刺へと続く。

その後は、今日の除水量を看護師さんと相談し、決定。
飲水量・小水量・お通じの回数を報告。
液温はいつも36.4でお願いしている。
大抵は食欲あり・体調好し・気分好し・薬の追加なしと
報告するのが流れである。

持って来たパソコン等をセットして、3時間のベッド上の生活が始まる。
私の場合、有難いことにまだ横にならなくても、ほぼ座って3時間過ごせている。
「何をやっているかって?」それは、次の機会に紹介します。




通院距離で千葉県通過

2016-01-28 | 私の透析ライフ
昨年の1月に血液透析病院に通うようになってから、年末の12月31日で、
歩いた距離が650kmとなった。フ~
東京湾岸沿いにテクテク歩いて、内房から館山を抜けて外房に出て、
太平洋岸沿いに、なんと銚子まで到達したのだ。

これは、その距離を実際に歩いた訳ではないが、私の持っている万歩計で
歩いた距離を、地図上で計測すると千葉県を通り過ぎて、
茨城県に入ったことを意味する。

この万歩計は海岸沿いに歩いたら、どうなるかという伊能忠敬の
地図作りに真似た、日本一周を目標にしている。
1年かけて、やっとこさ千葉県通過なので、日本一周なんて・・・
あぁ、どうなるんだろう。到底考えられない距離だよなぁ。
なんたって2万キロだよ。

なんで伊能忠敬を選んだろう。東海道五十三次にしておけばよかったかなぁ。

でも、いいこともあったさ。
第一に、2年前に入院していた時に、弱くなってしまった足腰が、
かなり回復してモモとスネにハリが出てきたと実感。
通勤時のサラリーマンに、置いて行かれない程度の速さになった。ニッコリヽ(^o^)丿

それと体力も随分ついて来たと感じてる。
パソコンを背負って、甲州街道沿いに約2kmの距離を、片道30分で歩きます。
いつも食事療法・運動療法・薬物療法が、3本の柱だよと教えられているが、
運動療法に何とか取り組めていることが嬉しい。

お蔭で昨年の8月ごろから、体調がとてもいいのだ。
毎回、看護師さんから飲水量・小水・お通じは?聞かれるが、
その後で体調好し・気分好し・食欲ありと答えられている自分であることが嬉しい。
血糖値も食後2時間で、150を切るようになっている。

ウォーキングを始める前までは、180~200位だったので、
確実に改善されてきたと感じています。

よ~し、この調子で今年も頑張るぞ。

会員交流会に参加

2015-11-11 | 患者会イベント
11月8日(日)に東腎協中南部ブロック 会員交流会に参加しました。
参加者は約30人でした。

今回の趣旨は
「長期透析者の体験談を聞きながら、日頃の透析生活の悩みなど、
ざっくばらんに話し合い情報交換をしましょう」でした。

最初に東腎協会長さんの挨拶がありました。
1部は講演は前東腎協会長 糸賀久夫さん。
タイトルは「透析歴43年、今もやっぱり自己管理が大事」

会員交流会学習資料としてテキストが配られ、透析に至るまでの経緯と、
初期時代の透析治療について説明されました。
まだ透析医療が確立していない中で、今日まで続けてくるには、
多くの困難があったことが分かりました。

新たに出てくる病状と合併症に悩まされ、それにその都度対処しながら
今日まで忍耐強く乗り越えてきたことがよく分かりました。
「どんなに大変なことだったでしょうか」
淡々と話されていても43年間透析を続けてこられた、
一言一言には大変な重みがありました。

43年間体調を維持しながら、今も元気に講演をこなし、
毎日患者会の活動の先頭に立って、誰よりも行動していることを知りました。
私には驚きと尊敬の念しか湧いてきませんでした。
まるで患者会の「レジェンド」を見ていような感じでした。

2部は通っている病院が同じにならないように、5~7人のグループに分かれて、
会員交流会になりました。
そこでは現在抱えている問題が話し合われ、先輩患者から体験談と
長期透析者だからわかるアドバイスが聞けて、とても有意義な時間となりました。

私を含め透析患者は、
日頃から他の人は「どんな透析生活を行っているのだろうか?」
「どんな問題を抱えているのだろうか?」
そして「どのように病気と向き合い、乗り越えているのだろうか?」
などについて、大きな関心を持っています。

今回、患者同士の「生の体験談・生の声」も直接聞けたので、
とても為になりました。。
次の機会には透析仲間を誘って参加したい思いました。

[待機者のための移植塾」に参加

2015-10-26 | 患者会イベント
先週の日曜日に「待機者のための移植塾」という勉強会に参加しました。

日程:10月18日(日)14:00~17:00
主催:東京女子医大 移植者の会
場所:日本教育会館 
参加人数:50人位 

プログラムは講演が2名、体験談が3名でした。

テーマ:「移植のメリット・デメリット」
講 師:村上徹先生(東京女子医大 腎臓外科)講演とQA

テーマ:「腎臓移植後のアフターケアー」
講 師:松村里美 看護師(東京女子医大 看護部)

体験談発表は3人の方で、生体腎移植レシピエンド・献じん移植レシピエンド
生体腎移植ドナーによる、貴重な体験を聞かせてもらいました。

最後はアンケート記入して終わりました。

その後は場所を近くのレストランに移し、講演者も最後まで参加して
にぎやかな懇親会となりました。

<参加した私の感想>

私が今回、この勉強会に参加したのは、腎臓移植の実情を
知りたかったからです。
私自身が腎臓移植を薦められていることもあって、以前から関心を
持っていました。
ただ体調のこともあって具体的に勉強会に参加したり、
移植者の体験談を聞いたことがありませんでした。

講演と体験談、更には懇親会にも参加したので、
会員の方との交流を通して大まかな移植についてと、
会の雰囲気も知ることが出来ました。

会長さんが隣りに座って下さり、貴重なご自身の移植体験を
直接話して頂けました。
また他の方の腎臓移植の事例も沢山知っているので、
質の高い体験談を聞かせてもらいました。

体験談を発表された生体腎移植ドナーの方からも、
貴重な移植経験を聞かせてもらいました。
この方は夫に移植した方で、話を聞きながら夫婦とはいえ、
嫁の夫を支えたいという心意気と、その気持ちの温かさに
「すごいなぁ」と感じました。

やはり生の体験談を聞くことが一番の勉強になり、
元気をもらえることだと改めて思いました。

会員の方達は透析病院に比べると年齢層が若く、全体的に移植済みの方と
待機者の方は、私が通っている病院の患者よりも、
格段に明るい人達でした。

たぶん移植に対する希望があるからだろうと思います。
そして移植で元気になった方達が、待機者の会員を温かく励まして
いるからだと思いました。

会員さん達の会話を聞きながら、前向きに生きている人達の姿が、
ある意味でとてもまぶしく感じました。

犬がいるので散歩している人の話し

2015-10-16 | 私の透析ライフ
最近乗ったタクシーの運転手との会話から。

会社の健康診断で毎回血糖値が高いのと、運動不足を指摘されているという。
「どうしているんですか」と聞くと「犬がいるのでどうしても散歩に
連れて行かなければならないことが、自分の運動にもなっている」との答え。

「犬がいなかったら散歩に行くんですか?」と聞くと
「多分いかないと思う」だった。

犬のために少々の雨なら散歩に行くそうだ。
お犬様さまである。
何故なら、それは犬の為の散歩というよりは、自分の為の散歩に
犬に付き合ってもらっているようなものだからです

私は天気のいい日は、透析クリニックの通院を歩くようにしています。
片道30分、2kmの距離だ。往復で1時間は、今の私にはちょうどいい距離だ。
お蔭で足腰が強くなり、体調もいい。血糖値の調整にも効果的てきめんです。

透析のない日は散歩に出かけて歩くようにしています。

透析の先輩の話しを聞いても、足腰が弱くなるにつれて、
身体全体も弱っていくと誰もがいいます。
足の衰えが一つのバロメーターなのだ。

ところが透析仲間で、よく散歩の行くという人がを見つけるのが難しい。
まだ十分に体力がありそうな人でも、実際に歩いている人は少ないのだ。

上記に紹介したドライバーのように、私には散歩の連れていく
ワンちゃんがいない。
一緒に散歩に行く仲間が1人いるが、毎回一緒に行くのは難しい。
そこで思いついたのが写真撮影でした

カメラは腕になるべく負担がかからないように、最軽量の物にし、
杖も一脚に変えて、都立公園を1ヵ所ずつ巡る計画を立てました。
撮影に血糖値と足腰の強化を兼ねた散歩を目標に歩いています。

歩きながら見かける庭のよく手入れされた花と、その時々の季節を
感じられるのが嬉しい。
写真を撮るに行くという目的を立てたことで、散歩が格段に楽しくなりました。

私のような人間は、やはり何かきっかけがないと動かないものですから、
写真撮影という楽しめるものが出来て、散歩が続くようになりました。

散歩の時の犬も写真も、それがキッカケであり楽しみとなり、
自分の助けにもなるのなら大いに利用したいものです。

「臓器提供意思表明カード」 配布会

2015-10-07 | 患者会イベント
10月4日(日)の午前10時から11時過ぎまで、上野公園で
東腎協主催の「臓器提供意思表明カード」の配布会が行われました。
この催しは毎年行われているそうで、今回は上野公園と
井之頭公園の2ヵ所で行われたそうです。
私は、上野公園に参加しました。

参加者は40人位、天候に恵まれ爽やかな秋空の風を感じながら、
公園に来ている家族連れや高齢者・カップルなどに配ることが出来ました。
写真をクリックすると拡大します。
         

私は今年の5月からから患者会に入会し、その活動にも
参加するようになりました、
体調に問題がない限り、なるべく参加することにしています。

新しい透析仲間に出会えることと、何よりも活動の後に和気あいあいとした
交流出来るのが楽しみで参加しています。

透析患者はいつも黙々とベットの上で3~4時間透析を受けているので、
終わると直ぐに帰ってしまいます。
患者同士でゆっくり話す機会がほとんどはありません。
しかし患者会に入ったことで、先輩患者から透析治療の体験談と情報を
生で聞かせてもらえるのが、一番役立つと分かりました。

何よりも患者会の歴史を教えてもらったことで、透析治療の現在受けている
恩恵の大きさを知ることが出来ました。
当たり前のように受けている透析治療に、心から感謝するとともに、
真面目に治療に取り組もうという気持ちにさせてもらったのも、
患者会に入れてもらえたからでした。

光が丘公園 散歩

2015-10-01 | 気ままに写真散歩
昨日、新宿駅から大江戸線で光が丘公園に行ってきました。
歩数12785歩、透析の後だったので「疲れるかなぁ」と思いましたが、
爽やかな秋空を逃してはいけないと思ったら、元気に歩けましたよ。

公園までは銀杏並木の道を通ります。
銀杏はあちこちで落ちていましたが黄葉はこれからのようでした。
広い公園は芝生広場があり、野球場・テニスコート・ゲートボール場などもあって、
歩きがいのある公園でした。
写真をクリックすると拡大します。
       
入り口にあるモニュメント広場では、噴水の周りで子供たちが水遊び、
若者たちはスケボーを楽しんでいました。

       
丘に広がる芝生の上では寝そべっている人や読書をしている人がいて、
やさしい陽ざしを受けて皆さん気持ちよさそう。
ワンちゃんはご主人様とお散歩。嬉しそうに駆けまわっている。
丸々と太った猫は、どうもこの公園の住人のようですが、風に吹かれて動く枯葉と
戯れていました。
この猫にはご主人様はいないようだ。

そうそう屋根と机のある所では、15~6人のお年寄りたちが3ヵ所で将棋を
指していました。
どれにも盤を囲んで見学者がいて楽しそうに見えました。

        

広い公園の割には思っていたよりも花が少ないと思いました。
深い緑の公園もいいのですが花の種類が少ないのはちょっと寂しい。
ここは野球やテニスを楽しんでいるグループがいるかと思えば、
一人で黙々と走っている人も多かったです。
みんな健康志向なのでしょう。いいことだ。

そういう私も今日は一人で散歩に出かけた。
私の場合、糖尿病対策が動機ですが、管理栄養士の先生からは
しっかり食べることを指導されています。
しっかり食べるとリンとカリウムの数値も上がりますし、食べた後の血糖値の
コントロールも気になります。
散歩でカロリーをしっかり消費し、同時に筋力アップも心掛けています。

散歩がいいのは足腰の衰えを心配して、これ以上弱らなければいいと
思っていただけなのに、今では確実に足腰が強くなっていると感じています。
てきめんの効果だ。(^O^)/

それだけではありません。散歩で外に出るだけで気が晴れ、気分もいいのです。
何よりも歩いていると、色んな発想が湧いてくるのが嬉しいことだと、気付きました。
時には湧いてきた発想を忘れないうちに「書き留めなくっちゃ」と思って、
立ち止まって手帳に書くことがあります。
散歩は私の隠れた気力アップの秘訣です。

清澄庭園 散歩

2015-09-29 | 気ままに写真散歩
透析の後に昼食を食べてから、久しぶりに公園散歩に行ってきました。
場所は清澄庭園、新宿から都営大江戸線で30分、
駅からは徒歩2~3分の距離。
今回は出発がちょっと遅かったので3時半に到着。
早速写真を撮りながら庭園をコースに沿って散歩しました。
歩数は 9348歩です。

写真をクリックすると拡大します。
       

池には鴨・沢山の鷺・亀・大きな鯉がのんびりと暮らしていました。
           

岩崎家3代が築いた名石の庭園です。
石の産地を見ると伊豆から運んできたものが多かったです。

           

清澄庭園は回遊式林泉庭園」です。
江戸の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と伝えられていて、
享保年間(1716~1736年)に、下総国関宿の城主・久世大和守の下屋敷となり、
その頃に庭園が形づくられたようです。
 明治11年、岩崎弥太郎が、荒廃していたこの邸地を買い取り、
社員の慰安や貴賓を招待する場所として庭園造成を計画、
明治13年に「深川親睦園」とした。
弥太郎の亡きあとも造園工事は進められ、隅田川の水を引いた大泉水を造り、
周囲には全国から取り寄せた名石を配して、明治の庭園を代表する
「回遊式林泉庭園」が完成。
 清澄庭園は、関東大震災で大きな被害を受けたが、
この時図らずも災害時の避難場所としての役割を果たし、
多数の人命を救った。岩崎家では、こうした庭園の持つ防災機能を重視し、
翌大正13年破損の少なかった東側半分(現庭園部分)を
公園用地として東京市に寄付し、市ではこれを整備して昭和7年7月に公開。

「公益財団法人東京都公園協会 公園へ行こう」より

私が糖尿病から、人工透析になるまでの経緯⑤

2015-09-14 | 透析体験談

さて、糖尿病の治療と並行して、目の治療を続けました。
目の治療が一段落するまでに、半年間ほどかかりました。

手術後の最初の1か月間はほぼ毎日通院。次に1週間に1回が2ヶ月、
2週間に1回が2~3ヶ月、月1回になってからは13年間通っています。

更に定期的に眼底検査と視野の検査を行ってきました。
眼科への通院は、1年ぐらい前から3ヶ月に1度になっています。、

この期間に視力の低下のために、メガネを変えたり、眼圧が安定するまでにも
結構時間がかかりました。

次に現れた症状が血圧です。
血圧が高くなって中々安定しませんでした。
何度も上が200ぐらいまで上がってしまうので、ふらふらして横になることが
多くなりました。

勿論外出もままならず、外に出て体調が悪くなったらどうしようかと、
不安が先に来るのです。
それで病院に行くとき以外は家の中で過ごすという、
まさに療養生活そのものでした。
この血圧が安定するまでに半年間かかりました。

従って血糖値を下げるための散歩や運動は、目の治療と高血圧の症状で、
最初の1年間は全く出来ませんでした。
この期間が筋力をだいぶ落す原因となりました。

その後、家族に眠っているときに「何度も息が止まっているよ」と指摘され、
ネットで調べて虎の門病院で1泊の検査を受けました。
結果は重度の睡眠時無呼吸症であることが分かりました。

無呼吸症は眠っているときに、よく息が苦しくなって目が覚めることがありました。
息が止まっているのですから、その時間が長くなると、
心臓がバクバクしていたのが、目覚めた時に自覚できるのです。

そこまでいかないときは、眠っているときに息が止まっていることを、
自分では気付かないままに朝まで眠ることになります。

私の場合、仰向けに寝ないで自然にうつ伏せか、横向きになって眠る方が
楽だったことを、自覚していました。
但し、それが睡眠時無呼吸症が原因だとは知りませんでした。

眠りが深まらないので慢性的な疲労感がありました。
しかし、睡眠時無呼吸症だからだという自覚がありませんので、
なんかこの頃疲れが抜けないなぁ・・ぐらいの感じです。

血圧の問題も、たぶん無呼吸症があったのが大きな要因だったのでしょう。

睡眠時無呼吸症の診断で、治療にCPAP(シーパップ)を使うことになりました。
この治療法は 機械で圧力をかけた空気を鼻から気道(空気の通り道)に送り込み、
気道を広げて睡眠中の無呼吸を防止する治療法です。

ところが鼻が詰まっていると、鼻から空気を送るCPAP(シーパップ)は
使えないという説明を受け、ショックを受けたのを覚えています。

確かに私は普段からが鼻が詰まっていることが多く、
鼻呼吸が出来ずに口呼吸になっていました。
当然食品のに匂いも分かりにくくなっていましたし、
その自覚はかなり前からあったのですが、検査のために耳鼻科に行こうと
思ったことがありませんでした。

急きょ蓄膿症の手術を受けることになりました。
こうして鼻の手術を無事に終えて、器械を使えるようになりました。

CPAP(シーパップ)を使うようになってから、深い睡眠を取れるように
なり、熟睡感と疲労回復が得られるようになりました。
今日まで約15年間、毎日使い続けています。
今では無くてはならない私の必須アイテムです。

この睡眠時無呼吸症につては、別の機会に詳しく紹介します。

鼻の手術をしたことで2つ改善されたことがありました。
1つ目は呼吸が楽になったことです。
2つ目は匂いが敏感過ぎるくらいに、よく分かるようになったことです。

この睡眠時無呼吸症も、糖尿病にも深く影響を与えていたと思います。
こんな感じで次々に病が襲ってきました。
一つの症状を解決しても、休む間もなく次に病状が現れてくるのです。

それだけ私の体が、むしばまれていたのでしょう。

この続きは、次のブログで紹介します。

私が糖尿病から、人工透析になるまでの経緯④

2015-08-29 | 透析体験談
糖尿病治療が始まりました。
最初に始めたことは管理栄養士さんに紹介してもらった、
食品成分表の本(五訂日本食品標準成分表)を購入し、
カロリー計算の仕方を覚えたことです。

始めてスグに100g中、何グラムの蛋白か、カリウム、リン、塩分かと
覚えるなんて無理だと悟りました。アッサリ降参です。

それで日常よく使く食材を選んで項目別に分け、ポケットサイズの手帳に、
早見表を作ることにしたのです。
よく購入するスーパーの既製食品と、外食店舗の主なメニューも
早見表に順次加えて、なるべく使いやすいものにしていきました。

この手帳は外出時にも持ち運べるので、外食をするときなどに
今も重宝しています。
もう15年間くらい使っているでしょうか。何度か作り直しました。
我ながら便利なものを作ったと思っています。

もう一つは、毎日の食べたものを記録する、ポケットサイズの手帳を
作ったことです。これは私の一番のお気に入りです。

記録している食品は、その日のメニュー・量・カロリー・タンパク・塩分と、
カリウム・リン・飲水量です。
起床時間と天気、他に体温・体重・血圧・尿量・お通じの回数の
それぞれを計ったときの時間です。

あと、計量計を2個買いました。調理した材料の分量と、
食べた分量を量るためです。0.1g単位で量ることが出来ます。
これは調味料を量る時に重宝しています。

最初は面倒くさいと感じながら量っていたり、時には嫌々ながら手帳に
記録していた時もありましたが、慣れというものは素晴らしいもので、
今では苦痛に感じることもなく普通にやるようになっています。
もう15年もやっているからね。(^O^)/

しかしながら、記入漏れと記入忘れ、食べた物を直ぐに書かないで、
後でと思っているうちに何グラム食べたか、分量が分からなくなって
しまったりして、失敗も数多くありましたよ。(>_

私が糖尿病から、人工透析になった経緯③

2015-08-27 | 透析体験談
<糖尿病の自覚症状>

自分の自覚症状としては、時どき指先がしびれることがあり、
神経障害が起きていたのだと思います。

出張で新幹線の椅子に長時間に座っていると、膝から下に違和感を
感じることが何度もありました。血行障害が起きていたのだと思います。
ところが私は病院に行くこともせず、あまり気にもしていませんでした。

ある出張の時に喫茶店で書類を整理していたら、
一瞬目の前が暗くなって、文字が読めなくなりました。
びっくりしましたが貧血ではなく、直ぐに回復したので疲れ目だと思いました。

それでもその時から、文字に焦点が合わなくなって、
書類を読めなくなったことがありました。
最初は「目を休ませるしかないか」と思いました。
2~3日してからは「眼鏡を変えた方がいいのかな」とも思いました。

考えてみれば見るほど的外れな発想で、とことん感性が
鈍っていたのだと思います。

目の手術が終わって、腎臓内科の診察に行ったときに、
医師から聞かれたことは、
1.健康診断を受けてこなかった理由は何ですか?
2.家族か親族に、糖尿病か腎臓病の人はいませんか?でした。

私は自分が健康だと思っていましたので、どんなに疲れていても
4時間くらい眠れば大丈夫なんだと、変な自信を持っていました。
人のことは心配し、比較的よく面倒を見ていたつもりでしたが、
自分自身の健康と身体のケアについては無関心でした。アホですね。

仕事が忙しいのことを理由に、健康診断に行かなかったのではありません。
ただ単に健康診断に行くという、考えがなかっただけなのです。

兄姉に同じ病気の人が親族にいないかと聞いてみました。
すると家族の半分が糖尿病で、親族には腎臓病の人が何人かいました。
よくよく聞いてみると母方の祖母が腎臓病で、そのつながりの親族に
腎臓病の人が多かったのです。

そういえば私が子供の頃、祖母は家の中でも色のついた眼鏡をしていました。
それを子供心に不思議に思っていましたが、理由を聞くこともなく、
いつしか記憶から消えていました。

兄姉の話しを聞いて、私の糖尿病は母方の家系からくる遺伝に、
原因があることを理解しました。

勿論、私自身の健康管理の失敗が一番の原因です。
私の反省点をまとめてみると、次のようになりました。、

①自分の健康管理に無関心であったこと(飽食生活・運動不足・睡眠不足)
②健康だという自負から、健康診断に1度も行かなかったこと。
③糖尿病に対する知識が全くない為に、症状が出ていても病院に行くという
 判断が出来なかったこと。
④目を失明寸前まで放置していたこと。
 硝子体出血という糖尿病の末期症状によって、
 初めて健康状態に気が付いたのですから、救いようがありません。
 
健康管理について基本的な知識があり、糖尿病に多少なりとも
知っていたら、症状が出ていた時点で対処が違っていたのでしょう。
病気になってしまってから気付いても手遅れですよね。

まさに無知のなせる業だったのです。
自分の健康に対する無関心と、最低限必要な知識すらなかったことが
私の反省点として残りました。

この続きは次のブログで

私が糖尿病から、人工透析になった経緯②

2015-08-25 | 透析体験談
糖尿病と宣告されただけではありませんでした。
血糖値が高いのと、タンパク尿が出ていることの他にも高血圧と、
動脈硬化症が起きていること、運動不足であるなどの指摘を受けました。、

食生活の改善は急務でした。
食事はカロリー計算をして食べることと、タンパクと塩分量の制限、
他に血糖値が下がるように、食後の運動をするように、指導を受けました。

今思えば当たり前のことを指導されただけでしたが、
私にはものすごく、ハードルの高いことのように思えました。

しかも私には栄養管理の知識が全くありません。
食事の時間は不規則な上に、美味い料理を自由に食べられる
恵まれた環境でしたが、そのことで体は逆に悲鳴を上げていたのでしょう。

好き放題に食べていた時代は、バブルの真っ最中で、若さもあってか、
いつもカロリーオーバーでした。
仕事は常に忙しく、運動はしなくなり、体重も増えていきました。

身長が161cmしかないのに、最高68kgまで増えた時に
背広のサイズが合わなくなって、初めて少し太り過ぎかなと、
体重が気になるようになりました。

多少気にはなっても、本気で何かしようとは思いませんでした。トホホです。

今思えば、その時が糖尿病になるかどうかの、
分岐点だったように思います。

その後にバブルが崩壊し、仕事は一気に減リ始めて、
商品は売れなくなりました。
この時代、誰もがバブルだと思っていなかったと思います。

私も「随分景気がいいなぁ」ぐらいにしか思っていませんでした。
いつまでも好景気が続くものと、お目出度いほどに安易に考えていました。
バブルだと分かったのは、バブルがはじけてからからのことです。

そこからは仕事を拡大した分だけ、在庫が膨らんでいきました。
仕入れ代金の支払いと、銀行への借入金の返済などで、
瞬く間に赤字体質になりました。

仕事が減り始めると、次第に資金繰りが周らなくなって、
会社を整理することになりました。
数年かけてやっとのことで、債務を終わらせることが出来ました。

私は経営者でもないのに、役員の何人かが抜けた後、
経営の実務に携わったために、一番大変な時を担当することになって、
ストレスが増えました。

そんなことでバブルの全盛期と、崩壊のを両方を
体験することになったのです。
この期間、運動不足と睡眠不足、食事管理なしの他に、
ストレスの増大で気付かぬ間に病魔は進行していました。

会社をたたんでから、私はしばらくリフレッシュの為に休養していました。

そろそろ何かしようと思い、新しい仕事を立ち上げてから数年が過ぎて、
仕事に本腰を入れようと計画していた時に、硝子体出血が起こったのです。

まさしくお先真っ暗になった訳です。

この続きは次回のブログで紹介します。

私が糖尿病から、人工透析になった経緯①

2015-08-22 | 透析体験談

今回から数回に分けて、人工透析に至った経緯を紹介します。
私と同じような失敗を繰り返さないためにとの思いから、
書いてみることにしました。

私は血液透析に入ってから、今月でちょうど1年目です。
その前に8年半腹膜透析をしていましたので、合わせると
9年半の透析生活になりました。
但し腹膜透析になるまでの期間が、5年間ほどありましたので
もう15年間腎臓病と付き合ってきたことになります。

最初に糖尿病が発覚したのは、硝子体出血がきっかけでした。
今もはっきりと覚えているのは、最初は左目から出血し、
視野の半分近くが瞬く間に黒くなって見えなくなりました。

近所の眼科に行きましたら、即大きな病院を紹介されました。
ところがそこでも手に負えないと言われ、直ぐに対処しないと
失明する危険性が高いので、腕の確かな先生を
紹介するからと言われて、その日のうちに次の病院に行くことに
なりました。

その4~5日後に右眼からも出血してしまいました。
その頃は初めて体験することばかりで、何も知識が
ありませんした。、
正直に言えば、失明するのではないかという不安に
駆られていました。

診察を受けて直ぐにレーザー治療が始まりましたが、
しかしそれを行ったのは若い医師でした。
何回かレーザー治療に通いましたが、結果はうまく
いきませんでした。
それでようやく本命の医師が手術をしてくれることになり、
入院して本格的な手術になりました。、

目の手術で体験したことは、片目ずつ行うことすら、
私が知らなかったということです。
考えてみれば、両目を同時に手術をしたら、
何も見えなくなるのですから、 生活が出来なくなります。
当然手術は片方ずつになりますよね。全然知りませんでした。
今まで考えたこともなかったことですから。

手術中に分かったことは、手術している目の中の様子が
全部自分の目で見えることでした。これも全く予期して
いなかったことです。
血管を焼く様子や出血した血液を、管で吸い取っている
様子がハッキリと見えました。

ちょうど掃除機のホースで吸っているような感じです。
また硝子体に新しい溶液を入れるのも、全部見えるのです。
医師から「痛くないか」とか「今これをやっている、
次は○○をやるよ」とか、 一つずつ説明を受け、
会話しながら進めていくという体験をしました。

手術は1時間半くらいだったと思います。
無事に終了し、先生曰く「思っていたよりも
うまくいったからね」でした。
それでホッとしたのを覚えています。

何日かして退院することになりました。
退院した日の午後に、ちょっと休もうと思って
バナナ1本食べてから、ベットに横になりました。

家族が夕食時間になったので、起こそうと思って
何度声をかけても 全く反応しなかったそうです。
その時私は初めて「低血糖障害」を起こしていました。
家族はびっくり、あわてて救急車を呼んだそうです。

私はその時のことが記憶にありません。
救急車が呼ばれ大学病院に運ばれました。
私の意識は救急車の中で、救命士に揺り動かされたり、
何度か呼びかけられてボンヤリと戻ったようです。

病院の検査で低血糖障害だったことが判明し、
点滴を打ってもらって意識が回復。何とか問題が
解決されました。

数時間休んで、その日の夜中に帰ることになりましたが、
突如救急車で運ばれたので、気がつけば履物がありません。
それで病院のスリッパを借りて、タクシーで帰りました。
これが私の初めての低血糖障害と救急車体験です。

以上が糖尿病発覚の一番最初の段階です。
そこから、糖尿病との付き合いが始りました。
この続きは次回のブログで紹介します。

私が患者会に入った理由

2015-08-16 | 私の透析ライフ
私は縁あって今年の5月に入会しました。
最初の入会の動機は他の患者さんが、どのように透析ライフを
過ごしているのか、
どのように困難を乗り越えてきたのかを、直接聞きたかったからです。

今まで8年半、自宅で腹膜透析を一人で行っていました。
月に1度定期診察のために病院に行くだけで、医師や看護師以外、
透析治療をしている患者さんに、接する機会が全くありませんでした。

昨年の8月に腹膜透析が限界になってしまい、血液透析に
移行することになりました。

そこで血液透析に移ったならば、今後の透析生活の参考に、
長期透析者の「生の体験談」を、直接聞きたいと思っていました。

私が通うことになったクリニックには、透析歴42年の方がいると
聞いてからは是非とも一度お会いして、貴重な体験談を教えて
もらいたいと思いました。
それでお会い出来たのが患者会の会長さんの方でした。

この方は透析患者の大先輩であり、このクリニックの患者会会長であり、
東腎協・全腎協の先駆者でした。
何よりも「透析の達人」だったのです。

話しを聞いてみて教えられたことは、何といっても
「透析治療は自己管理だよ」でした。
それと患者会が出来た理由と、果たしている役割についても
丁寧に教えてもらいました。

透析治療の困難な時代に、患者の治療にかかる高額な医療費負担の
無料化と、医療環境の改善のために、国と東京都に強く
働きかようとして、患者会が結成されたそうです。

患者会の結成で大きくなった声が、国と都の行政を動かしたからこそ
今日私たちが受けている治療費無料化の恩恵があったのです。

会長さんには、その活動の先頭に立って、国と都の行政に働きかけてきた、
歴史があったことを初めて知りました。

東腎協のあゆみの30年史、40年史を読ませてもらいました。
そこには涙なくしては語ることも、聞くことの出来ないような、
壮絶な戦いがあったことも知りました。
そして自分が受けている恩恵の大きさを痛切に感じました。

特に患者会の初期の方々は、患者会を結成して痛む体に無理を
重ねながら、命がけで国や東京都に働きかけ続けてきて下さっていました。
今日、年間数百万という治療費を、無料で受けられているのが、
私は何か当たり前のように思っていました。
今は何も知らずにいた自分が、とても恥ずかしくてなりません。

会長さんの説明から、現在透析患者を取り巻く環境は厳しく、
国は財政再建のために福祉予算の減額と、個人医療費負担の増額、
それに伴う医療の質の低下が心配されていることも分かりました。

私は血液透析に移ってきてから、患者会の皆さんと出会い、
同病同苦の先輩達からアドバイスをもらえたこと、
患者同士の仲間を得たことなど、何よりも最新の情報が
得られるようになったことなど、嬉しいことが沢山ありました。

これからは患者会の仲間づくりをしながら、患者会の役割と
重要性を伝えていきたいと思うようになりました。
もちろん自分に出来ることであれば、少しでもお役に立ちたいと
思っています。
そして透析ライフを充実させていきたいと思います。
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