透析ライフと散歩と写真

陽気につられて気ままに散歩!
透析生活を前向きに過ごしたい
日々の生活を感じたままに
書いています。

私が糖尿病から、人工透析になるまでの経緯④

2015-08-29 | 透析体験談
糖尿病治療が始まりました。
最初に始めたことは管理栄養士さんに紹介してもらった、
食品成分表の本(五訂日本食品標準成分表)を購入し、
カロリー計算の仕方を覚えたことです。

始めてスグに100g中、何グラムの蛋白か、カリウム、リン、塩分かと
覚えるなんて無理だと悟りました。アッサリ降参です。

それで日常よく使く食材を選んで項目別に分け、ポケットサイズの手帳に、
早見表を作ることにしたのです。
よく購入するスーパーの既製食品と、外食店舗の主なメニューも
早見表に順次加えて、なるべく使いやすいものにしていきました。

この手帳は外出時にも持ち運べるので、外食をするときなどに
今も重宝しています。
もう15年間くらい使っているでしょうか。何度か作り直しました。
我ながら便利なものを作ったと思っています。

もう一つは、毎日の食べたものを記録する、ポケットサイズの手帳を
作ったことです。これは私の一番のお気に入りです。

記録している食品は、その日のメニュー・量・カロリー・タンパク・塩分と、
カリウム・リン・飲水量です。
起床時間と天気、他に体温・体重・血圧・尿量・お通じの回数の
それぞれを計ったときの時間です。

あと、計量計を2個買いました。調理した材料の分量と、
食べた分量を量るためです。0.1g単位で量ることが出来ます。
これは調味料を量る時に重宝しています。

最初は面倒くさいと感じながら量っていたり、時には嫌々ながら手帳に
記録していた時もありましたが、慣れというものは素晴らしいもので、
今では苦痛に感じることもなく普通にやるようになっています。
もう15年もやっているからね。(^O^)/

しかしながら、記入漏れと記入忘れ、食べた物を直ぐに書かないで、
後でと思っているうちに何グラム食べたか、分量が分からなくなって
しまったりして、失敗も数多くありましたよ。(>_

私が糖尿病から、人工透析になった経緯③

2015-08-27 | 透析体験談
<糖尿病の自覚症状>

自分の自覚症状としては、時どき指先がしびれることがあり、
神経障害が起きていたのだと思います。

出張で新幹線の椅子に長時間に座っていると、膝から下に違和感を
感じることが何度もありました。血行障害が起きていたのだと思います。
ところが私は病院に行くこともせず、あまり気にもしていませんでした。

ある出張の時に喫茶店で書類を整理していたら、
一瞬目の前が暗くなって、文字が読めなくなりました。
びっくりしましたが貧血ではなく、直ぐに回復したので疲れ目だと思いました。

それでもその時から、文字に焦点が合わなくなって、
書類を読めなくなったことがありました。
最初は「目を休ませるしかないか」と思いました。
2~3日してからは「眼鏡を変えた方がいいのかな」とも思いました。

考えてみれば見るほど的外れな発想で、とことん感性が
鈍っていたのだと思います。

目の手術が終わって、腎臓内科の診察に行ったときに、
医師から聞かれたことは、
1.健康診断を受けてこなかった理由は何ですか?
2.家族か親族に、糖尿病か腎臓病の人はいませんか?でした。

私は自分が健康だと思っていましたので、どんなに疲れていても
4時間くらい眠れば大丈夫なんだと、変な自信を持っていました。
人のことは心配し、比較的よく面倒を見ていたつもりでしたが、
自分自身の健康と身体のケアについては無関心でした。アホですね。

仕事が忙しいのことを理由に、健康診断に行かなかったのではありません。
ただ単に健康診断に行くという、考えがなかっただけなのです。

兄姉に同じ病気の人が親族にいないかと聞いてみました。
すると家族の半分が糖尿病で、親族には腎臓病の人が何人かいました。
よくよく聞いてみると母方の祖母が腎臓病で、そのつながりの親族に
腎臓病の人が多かったのです。

そういえば私が子供の頃、祖母は家の中でも色のついた眼鏡をしていました。
それを子供心に不思議に思っていましたが、理由を聞くこともなく、
いつしか記憶から消えていました。

兄姉の話しを聞いて、私の糖尿病は母方の家系からくる遺伝に、
原因があることを理解しました。

勿論、私自身の健康管理の失敗が一番の原因です。
私の反省点をまとめてみると、次のようになりました。、

①自分の健康管理に無関心であったこと(飽食生活・運動不足・睡眠不足)
②健康だという自負から、健康診断に1度も行かなかったこと。
③糖尿病に対する知識が全くない為に、症状が出ていても病院に行くという
 判断が出来なかったこと。
④目を失明寸前まで放置していたこと。
 硝子体出血という糖尿病の末期症状によって、
 初めて健康状態に気が付いたのですから、救いようがありません。
 
健康管理について基本的な知識があり、糖尿病に多少なりとも
知っていたら、症状が出ていた時点で対処が違っていたのでしょう。
病気になってしまってから気付いても手遅れですよね。

まさに無知のなせる業だったのです。
自分の健康に対する無関心と、最低限必要な知識すらなかったことが
私の反省点として残りました。

この続きは次のブログで

私が糖尿病から、人工透析になった経緯②

2015-08-25 | 透析体験談
糖尿病と宣告されただけではありませんでした。
血糖値が高いのと、タンパク尿が出ていることの他にも高血圧と、
動脈硬化症が起きていること、運動不足であるなどの指摘を受けました。、

食生活の改善は急務でした。
食事はカロリー計算をして食べることと、タンパクと塩分量の制限、
他に血糖値が下がるように、食後の運動をするように、指導を受けました。

今思えば当たり前のことを指導されただけでしたが、
私にはものすごく、ハードルの高いことのように思えました。

しかも私には栄養管理の知識が全くありません。
食事の時間は不規則な上に、美味い料理を自由に食べられる
恵まれた環境でしたが、そのことで体は逆に悲鳴を上げていたのでしょう。

好き放題に食べていた時代は、バブルの真っ最中で、若さもあってか、
いつもカロリーオーバーでした。
仕事は常に忙しく、運動はしなくなり、体重も増えていきました。

身長が161cmしかないのに、最高68kgまで増えた時に
背広のサイズが合わなくなって、初めて少し太り過ぎかなと、
体重が気になるようになりました。

多少気にはなっても、本気で何かしようとは思いませんでした。トホホです。

今思えば、その時が糖尿病になるかどうかの、
分岐点だったように思います。

その後にバブルが崩壊し、仕事は一気に減リ始めて、
商品は売れなくなりました。
この時代、誰もがバブルだと思っていなかったと思います。

私も「随分景気がいいなぁ」ぐらいにしか思っていませんでした。
いつまでも好景気が続くものと、お目出度いほどに安易に考えていました。
バブルだと分かったのは、バブルがはじけてからからのことです。

そこからは仕事を拡大した分だけ、在庫が膨らんでいきました。
仕入れ代金の支払いと、銀行への借入金の返済などで、
瞬く間に赤字体質になりました。

仕事が減り始めると、次第に資金繰りが周らなくなって、
会社を整理することになりました。
数年かけてやっとのことで、債務を終わらせることが出来ました。

私は経営者でもないのに、役員の何人かが抜けた後、
経営の実務に携わったために、一番大変な時を担当することになって、
ストレスが増えました。

そんなことでバブルの全盛期と、崩壊のを両方を
体験することになったのです。
この期間、運動不足と睡眠不足、食事管理なしの他に、
ストレスの増大で気付かぬ間に病魔は進行していました。

会社をたたんでから、私はしばらくリフレッシュの為に休養していました。

そろそろ何かしようと思い、新しい仕事を立ち上げてから数年が過ぎて、
仕事に本腰を入れようと計画していた時に、硝子体出血が起こったのです。

まさしくお先真っ暗になった訳です。

この続きは次回のブログで紹介します。

私が糖尿病から、人工透析になった経緯①

2015-08-22 | 透析体験談

今回から数回に分けて、人工透析に至った経緯を紹介します。
私と同じような失敗を繰り返さないためにとの思いから、
書いてみることにしました。

私は血液透析に入ってから、今月でちょうど1年目です。
その前に8年半腹膜透析をしていましたので、合わせると
9年半の透析生活になりました。
但し腹膜透析になるまでの期間が、5年間ほどありましたので
もう15年間腎臓病と付き合ってきたことになります。

最初に糖尿病が発覚したのは、硝子体出血がきっかけでした。
今もはっきりと覚えているのは、最初は左目から出血し、
視野の半分近くが瞬く間に黒くなって見えなくなりました。

近所の眼科に行きましたら、即大きな病院を紹介されました。
ところがそこでも手に負えないと言われ、直ぐに対処しないと
失明する危険性が高いので、腕の確かな先生を
紹介するからと言われて、その日のうちに次の病院に行くことに
なりました。

その4~5日後に右眼からも出血してしまいました。
その頃は初めて体験することばかりで、何も知識が
ありませんした。、
正直に言えば、失明するのではないかという不安に
駆られていました。

診察を受けて直ぐにレーザー治療が始まりましたが、
しかしそれを行ったのは若い医師でした。
何回かレーザー治療に通いましたが、結果はうまく
いきませんでした。
それでようやく本命の医師が手術をしてくれることになり、
入院して本格的な手術になりました。、

目の手術で体験したことは、片目ずつ行うことすら、
私が知らなかったということです。
考えてみれば、両目を同時に手術をしたら、
何も見えなくなるのですから、 生活が出来なくなります。
当然手術は片方ずつになりますよね。全然知りませんでした。
今まで考えたこともなかったことですから。

手術中に分かったことは、手術している目の中の様子が
全部自分の目で見えることでした。これも全く予期して
いなかったことです。
血管を焼く様子や出血した血液を、管で吸い取っている
様子がハッキリと見えました。

ちょうど掃除機のホースで吸っているような感じです。
また硝子体に新しい溶液を入れるのも、全部見えるのです。
医師から「痛くないか」とか「今これをやっている、
次は○○をやるよ」とか、 一つずつ説明を受け、
会話しながら進めていくという体験をしました。

手術は1時間半くらいだったと思います。
無事に終了し、先生曰く「思っていたよりも
うまくいったからね」でした。
それでホッとしたのを覚えています。

何日かして退院することになりました。
退院した日の午後に、ちょっと休もうと思って
バナナ1本食べてから、ベットに横になりました。

家族が夕食時間になったので、起こそうと思って
何度声をかけても 全く反応しなかったそうです。
その時私は初めて「低血糖障害」を起こしていました。
家族はびっくり、あわてて救急車を呼んだそうです。

私はその時のことが記憶にありません。
救急車が呼ばれ大学病院に運ばれました。
私の意識は救急車の中で、救命士に揺り動かされたり、
何度か呼びかけられてボンヤリと戻ったようです。

病院の検査で低血糖障害だったことが判明し、
点滴を打ってもらって意識が回復。何とか問題が
解決されました。

数時間休んで、その日の夜中に帰ることになりましたが、
突如救急車で運ばれたので、気がつけば履物がありません。
それで病院のスリッパを借りて、タクシーで帰りました。
これが私の初めての低血糖障害と救急車体験です。

以上が糖尿病発覚の一番最初の段階です。
そこから、糖尿病との付き合いが始りました。
この続きは次回のブログで紹介します。

私が患者会に入った理由

2015-08-16 | 私の透析ライフ
私は縁あって今年の5月に入会しました。
最初の入会の動機は他の患者さんが、どのように透析ライフを
過ごしているのか、
どのように困難を乗り越えてきたのかを、直接聞きたかったからです。

今まで8年半、自宅で腹膜透析を一人で行っていました。
月に1度定期診察のために病院に行くだけで、医師や看護師以外、
透析治療をしている患者さんに、接する機会が全くありませんでした。

昨年の8月に腹膜透析が限界になってしまい、血液透析に
移行することになりました。

そこで血液透析に移ったならば、今後の透析生活の参考に、
長期透析者の「生の体験談」を、直接聞きたいと思っていました。

私が通うことになったクリニックには、透析歴42年の方がいると
聞いてからは是非とも一度お会いして、貴重な体験談を教えて
もらいたいと思いました。
それでお会い出来たのが患者会の会長さんの方でした。

この方は透析患者の大先輩であり、このクリニックの患者会会長であり、
東腎協・全腎協の先駆者でした。
何よりも「透析の達人」だったのです。

話しを聞いてみて教えられたことは、何といっても
「透析治療は自己管理だよ」でした。
それと患者会が出来た理由と、果たしている役割についても
丁寧に教えてもらいました。

透析治療の困難な時代に、患者の治療にかかる高額な医療費負担の
無料化と、医療環境の改善のために、国と東京都に強く
働きかようとして、患者会が結成されたそうです。

患者会の結成で大きくなった声が、国と都の行政を動かしたからこそ
今日私たちが受けている治療費無料化の恩恵があったのです。

会長さんには、その活動の先頭に立って、国と都の行政に働きかけてきた、
歴史があったことを初めて知りました。

東腎協のあゆみの30年史、40年史を読ませてもらいました。
そこには涙なくしては語ることも、聞くことの出来ないような、
壮絶な戦いがあったことも知りました。
そして自分が受けている恩恵の大きさを痛切に感じました。

特に患者会の初期の方々は、患者会を結成して痛む体に無理を
重ねながら、命がけで国や東京都に働きかけ続けてきて下さっていました。
今日、年間数百万という治療費を、無料で受けられているのが、
私は何か当たり前のように思っていました。
今は何も知らずにいた自分が、とても恥ずかしくてなりません。

会長さんの説明から、現在透析患者を取り巻く環境は厳しく、
国は財政再建のために福祉予算の減額と、個人医療費負担の増額、
それに伴う医療の質の低下が心配されていることも分かりました。

私は血液透析に移ってきてから、患者会の皆さんと出会い、
同病同苦の先輩達からアドバイスをもらえたこと、
患者同士の仲間を得たことなど、何よりも最新の情報が
得られるようになったことなど、嬉しいことが沢山ありました。

これからは患者会の仲間づくりをしながら、患者会の役割と
重要性を伝えていきたいと思うようになりました。
もちろん自分に出来ることであれば、少しでもお役に立ちたいと
思っています。
そして透析ライフを充実させていきたいと思います。
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透析にお盆休みはなかった

2015-08-15 | 私の透析ライフ
昨日は曇り空。
いつもと違って猛暑日ではありませんでした。

最近は暑いので行きだけ30分間、徒歩で通院していて、
帰りは地下鉄にしていましたが、たぶん大丈夫だろうと思って
帰りも歩きにしました。
気温がちょっと低くなっただけで、かなり体が楽になって歩けました。

暑い日は朝から思いっきり元気に鳴いているセミの声を、
うっとうしく感じていました。
それなのに昨日は爽やかに聞こえたのですから、結構自分も
適当なものだと思いました。

それに久しぶりの夜の散歩のときには、虫の声が草むらから
聞こえて来て、あれぇ、もう秋の気配か・・・と思いました。

その時どきの気分次第で、見るもの聞くものが同じでも、
感じ方が違ってくるのですから、面白いもんです。

通っている道も昨日は人通りがまばらでした。
みんなお盆休みなのでしょう。
透析治療にも「お盆休みがあったらいいな」と思いますが、
こればかりは休みがありません。

通っている患者達は皆、どんな体調でも、どんな天候の時でも
様々な事情を乗り越えて、黙々と通い続けています。

同時に病院のスタッフも、お盆の時期は休みたいだろうに、
患者に合わせて来ているのですから、仕事とはいえ有難いものです。
本当に感謝致します。

今日は70回目の終戦記念日です。
合掌

常識というウソ

2015-08-08 | 最近心に感じたこと

人間社会には「常識というウソ」が存在するのを
ご存知でしょうか。
たとえば「人間は皆平等である」というウソ。
実際の人間社会は不平等だらけだと思いませんか。
人間は生まれながらにして、厳しい格差社会が既に
始まっているのですから。

「子供は宝だ」のウソ。
子供は宝物だと親の誰もが言いいますが、
実際は親による子供への虐待のニュースが
毎日のように流れています。

ちっとも宝物になっていないのではないでしょうか。
子供はどの子も皆可愛いものです。
しかし実際は親から可愛いがられる子と、疎んじられる
子がいることを大概の大人は知っています。

「結婚こそ女の幸せ」のウソ、
確かに女性にとって結婚は夢であり、人生の希望であります。
しかしながら結婚した親の中で、今現在も自分は幸せだと自信を
持って言える人が一体何人いるでしょうか。

男は結婚前に「必ず君を幸せにと約束する」というウソ。
結婚早々に相手を裏切って、酒・女・ギャンブルなどに
走る輩も多いのではありませんか。
男は「口先だけ」だと、賢い女性は既に見抜いています。

最近離婚した芸能人カップルも、人も羨むほどの豪華な
結婚式を上げたのに「いやになったから」と言って、
さっさと別れてしまいました。
結婚がちっとも幸せに結びついていないのです。

結婚すれば=幸せとは限らないのは明白なのに、
「結婚こそが女の幸せよ」といいながら、誰でもいいから
早く結婚をと世間体を気にしながら、安易に結婚を勧めるなんて、
ちょっと軽すぎていませんかね。

「いい大学に入らないと、幸せになれない」のウソ。
親も教師も子供を半ば脅しながら、勉強の必要性を説きます。
子供の将来への不安を散らつかせながら、
「いつやるの 今でしょ」と勉強をせかせるなんて、
何とせこい手口でしょうか。

確かに勉強は必要です。
それを誰も否定はしません。
勉強しないよりは勉強した方が、将来に役立つのは事実であり、
就職にも有利でしょう。

問題はいい大学に入れば=幸せ、落ちれば=不幸と、
一方的に説くことが問題なのです。
しかも大学に入ったことで一応の学歴がついても、社会に出て
役立つ学力が、ついているとは限りません。
一流大学を出てもコミュニケーション能力や、問題解決能力が
全然ないのでは話しになりません。

このような親の教えに子供は漠然とした不安を感じながらも、
素直な子供ほど親の言葉を信じて、言いなりになります、
やがて社会に出てから、それらは見事に
裏切られることになるのです。

そうやって人間と人生の矛盾、人間社会の理想と現実、
表と裏を知ることになります。
聡い子は大人の欺瞞を直ぐに見抜きますが、
疎い子供は大人になっても、中々気づきません。
そして悲劇を体験するようになります

もし子供の頃から本当のことを教えられていたならば、
夢や希望が多少減るかも知れません。
しかしながら社会に対しても現実の厳しさに対しても、
単純に失望することが大幅に減るに違いありません。
逆に現実を直視して、たくましく生きていけるのでは
ないでしょうか。

夜散歩とシェルター暮らし 

2015-08-06 | 私の透析ライフ
昨日も暑かった。
私の周りの人たちは、この連日の猛暑にまいっている
人ばかりです。
朝から気温がぐんぐん上がったので、私も熱中症を心配して
いつもの散歩を中止しました。

私は1日に1回、最低30分以上の散歩を目標にしています。
平均すると1時間くらい歩いています。
糖尿病対策として食後の血糖値を下げる為と、足腰の筋力が
衰えないようにするのが二大目標です。

透析の日は食後に徒歩で通院。
30分のコースで最初の半分は地上を歩き、途中から地下道に
入って病院まで歩きます。

地上は暑さのせいで歩いている人が少なく、
地下道は空調が効いていることもあって5~6倍の
人が歩いています。

透析後の帰りは気温が最高値になるので、さすがに歩いて帰る
勇気がありません。
いつの間にか100%地下鉄利用になってしまいました。

透析のない日は、どうしているかというと、暑くて紫外線の
強い時間帯を避けて、夜の時間に散歩を切り替えました。
ところが、この頃は夜も厳しくなって自動的に夏休みに
入ってしまいました。

昨晩も風があったので、19時頃に試しに散歩にでたものの、
外は思いっきり蒸し暑かったのです。

しかも風は風でも生暖かい風でしたので、
一瞬「散歩どうしようかな」とためらってしまいました。
外に出ちゃったのだからと思いつつも、歩き始めましたら、
直ぐに汗ばんできました。

蒸し暑さがダメなのだと痛感。
透析患者にとって生暖かい風と、蒸し暑さの中を歩くのは
危険行為に近いものです。
熱帯夜を耐えるのは健常人ですら容易ではないからです。

昨日会った透析仲間も、夏バテ気味で食欲がない。
水だけが欲しくなってドライウェイトまで下げるのが
大変になっていると言っていました。
しかも下手をすると、「ドライウェイトまで下げる前に
体重が減ってしまう」と嘆いていました。

「水分の摂り過ぎは浮腫の原因であり、心臓にも
血圧にも影響するから、絶対に気を付けた方がいいよ」と
アドバイスされました。
分かっていてもつい水分に手が伸びてしまうのが現状です。

部屋の温度計や湿度計とをにらめっこしながら、
なるべく外に出ないように、太陽と紫外線を避けて
暮らしている自分は、さながらシェルター暮らしをしている感じです。