透析ライフと散歩と写真

陽気につられて気ままに散歩!
透析生活を前向きに過ごしたい
日々の生活を感じたままに
書いています。

私が糖尿病から、人工透析になるまでの経緯⑤

2015-09-14 | 透析体験談

さて、糖尿病の治療と並行して、目の治療を続けました。
目の治療が一段落するまでに、半年間ほどかかりました。

手術後の最初の1か月間はほぼ毎日通院。次に1週間に1回が2ヶ月、
2週間に1回が2~3ヶ月、月1回になってからは13年間通っています。

更に定期的に眼底検査と視野の検査を行ってきました。
眼科への通院は、1年ぐらい前から3ヶ月に1度になっています。、

この期間に視力の低下のために、メガネを変えたり、眼圧が安定するまでにも
結構時間がかかりました。

次に現れた症状が血圧です。
血圧が高くなって中々安定しませんでした。
何度も上が200ぐらいまで上がってしまうので、ふらふらして横になることが
多くなりました。

勿論外出もままならず、外に出て体調が悪くなったらどうしようかと、
不安が先に来るのです。
それで病院に行くとき以外は家の中で過ごすという、
まさに療養生活そのものでした。
この血圧が安定するまでに半年間かかりました。

従って血糖値を下げるための散歩や運動は、目の治療と高血圧の症状で、
最初の1年間は全く出来ませんでした。
この期間が筋力をだいぶ落す原因となりました。

その後、家族に眠っているときに「何度も息が止まっているよ」と指摘され、
ネットで調べて虎の門病院で1泊の検査を受けました。
結果は重度の睡眠時無呼吸症であることが分かりました。

無呼吸症は眠っているときに、よく息が苦しくなって目が覚めることがありました。
息が止まっているのですから、その時間が長くなると、
心臓がバクバクしていたのが、目覚めた時に自覚できるのです。

そこまでいかないときは、眠っているときに息が止まっていることを、
自分では気付かないままに朝まで眠ることになります。

私の場合、仰向けに寝ないで自然にうつ伏せか、横向きになって眠る方が
楽だったことを、自覚していました。
但し、それが睡眠時無呼吸症が原因だとは知りませんでした。

眠りが深まらないので慢性的な疲労感がありました。
しかし、睡眠時無呼吸症だからだという自覚がありませんので、
なんかこの頃疲れが抜けないなぁ・・ぐらいの感じです。

血圧の問題も、たぶん無呼吸症があったのが大きな要因だったのでしょう。

睡眠時無呼吸症の診断で、治療にCPAP(シーパップ)を使うことになりました。
この治療法は 機械で圧力をかけた空気を鼻から気道(空気の通り道)に送り込み、
気道を広げて睡眠中の無呼吸を防止する治療法です。

ところが鼻が詰まっていると、鼻から空気を送るCPAP(シーパップ)は
使えないという説明を受け、ショックを受けたのを覚えています。

確かに私は普段からが鼻が詰まっていることが多く、
鼻呼吸が出来ずに口呼吸になっていました。
当然食品のに匂いも分かりにくくなっていましたし、
その自覚はかなり前からあったのですが、検査のために耳鼻科に行こうと
思ったことがありませんでした。

急きょ蓄膿症の手術を受けることになりました。
こうして鼻の手術を無事に終えて、器械を使えるようになりました。

CPAP(シーパップ)を使うようになってから、深い睡眠を取れるように
なり、熟睡感と疲労回復が得られるようになりました。
今日まで約15年間、毎日使い続けています。
今では無くてはならない私の必須アイテムです。

この睡眠時無呼吸症につては、別の機会に詳しく紹介します。

鼻の手術をしたことで2つ改善されたことがありました。
1つ目は呼吸が楽になったことです。
2つ目は匂いが敏感過ぎるくらいに、よく分かるようになったことです。

この睡眠時無呼吸症も、糖尿病にも深く影響を与えていたと思います。
こんな感じで次々に病が襲ってきました。
一つの症状を解決しても、休む間もなく次に病状が現れてくるのです。

それだけ私の体が、むしばまれていたのでしょう。

この続きは、次のブログで紹介します。

私が糖尿病から、人工透析になるまでの経緯④

2015-08-29 | 透析体験談
糖尿病治療が始まりました。
最初に始めたことは管理栄養士さんに紹介してもらった、
食品成分表の本(五訂日本食品標準成分表)を購入し、
カロリー計算の仕方を覚えたことです。

始めてスグに100g中、何グラムの蛋白か、カリウム、リン、塩分かと
覚えるなんて無理だと悟りました。アッサリ降参です。

それで日常よく使く食材を選んで項目別に分け、ポケットサイズの手帳に、
早見表を作ることにしたのです。
よく購入するスーパーの既製食品と、外食店舗の主なメニューも
早見表に順次加えて、なるべく使いやすいものにしていきました。

この手帳は外出時にも持ち運べるので、外食をするときなどに
今も重宝しています。
もう15年間くらい使っているでしょうか。何度か作り直しました。
我ながら便利なものを作ったと思っています。

もう一つは、毎日の食べたものを記録する、ポケットサイズの手帳を
作ったことです。これは私の一番のお気に入りです。

記録している食品は、その日のメニュー・量・カロリー・タンパク・塩分と、
カリウム・リン・飲水量です。
起床時間と天気、他に体温・体重・血圧・尿量・お通じの回数の
それぞれを計ったときの時間です。

あと、計量計を2個買いました。調理した材料の分量と、
食べた分量を量るためです。0.1g単位で量ることが出来ます。
これは調味料を量る時に重宝しています。

最初は面倒くさいと感じながら量っていたり、時には嫌々ながら手帳に
記録していた時もありましたが、慣れというものは素晴らしいもので、
今では苦痛に感じることもなく普通にやるようになっています。
もう15年もやっているからね。(^O^)/

しかしながら、記入漏れと記入忘れ、食べた物を直ぐに書かないで、
後でと思っているうちに何グラム食べたか、分量が分からなくなって
しまったりして、失敗も数多くありましたよ。(>_

私が糖尿病から、人工透析になった経緯③

2015-08-27 | 透析体験談
<糖尿病の自覚症状>

自分の自覚症状としては、時どき指先がしびれることがあり、
神経障害が起きていたのだと思います。

出張で新幹線の椅子に長時間に座っていると、膝から下に違和感を
感じることが何度もありました。血行障害が起きていたのだと思います。
ところが私は病院に行くこともせず、あまり気にもしていませんでした。

ある出張の時に喫茶店で書類を整理していたら、
一瞬目の前が暗くなって、文字が読めなくなりました。
びっくりしましたが貧血ではなく、直ぐに回復したので疲れ目だと思いました。

それでもその時から、文字に焦点が合わなくなって、
書類を読めなくなったことがありました。
最初は「目を休ませるしかないか」と思いました。
2~3日してからは「眼鏡を変えた方がいいのかな」とも思いました。

考えてみれば見るほど的外れな発想で、とことん感性が
鈍っていたのだと思います。

目の手術が終わって、腎臓内科の診察に行ったときに、
医師から聞かれたことは、
1.健康診断を受けてこなかった理由は何ですか?
2.家族か親族に、糖尿病か腎臓病の人はいませんか?でした。

私は自分が健康だと思っていましたので、どんなに疲れていても
4時間くらい眠れば大丈夫なんだと、変な自信を持っていました。
人のことは心配し、比較的よく面倒を見ていたつもりでしたが、
自分自身の健康と身体のケアについては無関心でした。アホですね。

仕事が忙しいのことを理由に、健康診断に行かなかったのではありません。
ただ単に健康診断に行くという、考えがなかっただけなのです。

兄姉に同じ病気の人が親族にいないかと聞いてみました。
すると家族の半分が糖尿病で、親族には腎臓病の人が何人かいました。
よくよく聞いてみると母方の祖母が腎臓病で、そのつながりの親族に
腎臓病の人が多かったのです。

そういえば私が子供の頃、祖母は家の中でも色のついた眼鏡をしていました。
それを子供心に不思議に思っていましたが、理由を聞くこともなく、
いつしか記憶から消えていました。

兄姉の話しを聞いて、私の糖尿病は母方の家系からくる遺伝に、
原因があることを理解しました。

勿論、私自身の健康管理の失敗が一番の原因です。
私の反省点をまとめてみると、次のようになりました。、

①自分の健康管理に無関心であったこと(飽食生活・運動不足・睡眠不足)
②健康だという自負から、健康診断に1度も行かなかったこと。
③糖尿病に対する知識が全くない為に、症状が出ていても病院に行くという
 判断が出来なかったこと。
④目を失明寸前まで放置していたこと。
 硝子体出血という糖尿病の末期症状によって、
 初めて健康状態に気が付いたのですから、救いようがありません。
 
健康管理について基本的な知識があり、糖尿病に多少なりとも
知っていたら、症状が出ていた時点で対処が違っていたのでしょう。
病気になってしまってから気付いても手遅れですよね。

まさに無知のなせる業だったのです。
自分の健康に対する無関心と、最低限必要な知識すらなかったことが
私の反省点として残りました。

この続きは次のブログで

私が糖尿病から、人工透析になった経緯②

2015-08-25 | 透析体験談
糖尿病と宣告されただけではありませんでした。
血糖値が高いのと、タンパク尿が出ていることの他にも高血圧と、
動脈硬化症が起きていること、運動不足であるなどの指摘を受けました。、

食生活の改善は急務でした。
食事はカロリー計算をして食べることと、タンパクと塩分量の制限、
他に血糖値が下がるように、食後の運動をするように、指導を受けました。

今思えば当たり前のことを指導されただけでしたが、
私にはものすごく、ハードルの高いことのように思えました。

しかも私には栄養管理の知識が全くありません。
食事の時間は不規則な上に、美味い料理を自由に食べられる
恵まれた環境でしたが、そのことで体は逆に悲鳴を上げていたのでしょう。

好き放題に食べていた時代は、バブルの真っ最中で、若さもあってか、
いつもカロリーオーバーでした。
仕事は常に忙しく、運動はしなくなり、体重も増えていきました。

身長が161cmしかないのに、最高68kgまで増えた時に
背広のサイズが合わなくなって、初めて少し太り過ぎかなと、
体重が気になるようになりました。

多少気にはなっても、本気で何かしようとは思いませんでした。トホホです。

今思えば、その時が糖尿病になるかどうかの、
分岐点だったように思います。

その後にバブルが崩壊し、仕事は一気に減リ始めて、
商品は売れなくなりました。
この時代、誰もがバブルだと思っていなかったと思います。

私も「随分景気がいいなぁ」ぐらいにしか思っていませんでした。
いつまでも好景気が続くものと、お目出度いほどに安易に考えていました。
バブルだと分かったのは、バブルがはじけてからからのことです。

そこからは仕事を拡大した分だけ、在庫が膨らんでいきました。
仕入れ代金の支払いと、銀行への借入金の返済などで、
瞬く間に赤字体質になりました。

仕事が減り始めると、次第に資金繰りが周らなくなって、
会社を整理することになりました。
数年かけてやっとのことで、債務を終わらせることが出来ました。

私は経営者でもないのに、役員の何人かが抜けた後、
経営の実務に携わったために、一番大変な時を担当することになって、
ストレスが増えました。

そんなことでバブルの全盛期と、崩壊のを両方を
体験することになったのです。
この期間、運動不足と睡眠不足、食事管理なしの他に、
ストレスの増大で気付かぬ間に病魔は進行していました。

会社をたたんでから、私はしばらくリフレッシュの為に休養していました。

そろそろ何かしようと思い、新しい仕事を立ち上げてから数年が過ぎて、
仕事に本腰を入れようと計画していた時に、硝子体出血が起こったのです。

まさしくお先真っ暗になった訳です。

この続きは次回のブログで紹介します。

私が糖尿病から、人工透析になった経緯①

2015-08-22 | 透析体験談

今回から数回に分けて、人工透析に至った経緯を紹介します。
私と同じような失敗を繰り返さないためにとの思いから、
書いてみることにしました。

私は血液透析に入ってから、今月でちょうど1年目です。
その前に8年半腹膜透析をしていましたので、合わせると
9年半の透析生活になりました。
但し腹膜透析になるまでの期間が、5年間ほどありましたので
もう15年間腎臓病と付き合ってきたことになります。

最初に糖尿病が発覚したのは、硝子体出血がきっかけでした。
今もはっきりと覚えているのは、最初は左目から出血し、
視野の半分近くが瞬く間に黒くなって見えなくなりました。

近所の眼科に行きましたら、即大きな病院を紹介されました。
ところがそこでも手に負えないと言われ、直ぐに対処しないと
失明する危険性が高いので、腕の確かな先生を
紹介するからと言われて、その日のうちに次の病院に行くことに
なりました。

その4~5日後に右眼からも出血してしまいました。
その頃は初めて体験することばかりで、何も知識が
ありませんした。、
正直に言えば、失明するのではないかという不安に
駆られていました。

診察を受けて直ぐにレーザー治療が始まりましたが、
しかしそれを行ったのは若い医師でした。
何回かレーザー治療に通いましたが、結果はうまく
いきませんでした。
それでようやく本命の医師が手術をしてくれることになり、
入院して本格的な手術になりました。、

目の手術で体験したことは、片目ずつ行うことすら、
私が知らなかったということです。
考えてみれば、両目を同時に手術をしたら、
何も見えなくなるのですから、 生活が出来なくなります。
当然手術は片方ずつになりますよね。全然知りませんでした。
今まで考えたこともなかったことですから。

手術中に分かったことは、手術している目の中の様子が
全部自分の目で見えることでした。これも全く予期して
いなかったことです。
血管を焼く様子や出血した血液を、管で吸い取っている
様子がハッキリと見えました。

ちょうど掃除機のホースで吸っているような感じです。
また硝子体に新しい溶液を入れるのも、全部見えるのです。
医師から「痛くないか」とか「今これをやっている、
次は○○をやるよ」とか、 一つずつ説明を受け、
会話しながら進めていくという体験をしました。

手術は1時間半くらいだったと思います。
無事に終了し、先生曰く「思っていたよりも
うまくいったからね」でした。
それでホッとしたのを覚えています。

何日かして退院することになりました。
退院した日の午後に、ちょっと休もうと思って
バナナ1本食べてから、ベットに横になりました。

家族が夕食時間になったので、起こそうと思って
何度声をかけても 全く反応しなかったそうです。
その時私は初めて「低血糖障害」を起こしていました。
家族はびっくり、あわてて救急車を呼んだそうです。

私はその時のことが記憶にありません。
救急車が呼ばれ大学病院に運ばれました。
私の意識は救急車の中で、救命士に揺り動かされたり、
何度か呼びかけられてボンヤリと戻ったようです。

病院の検査で低血糖障害だったことが判明し、
点滴を打ってもらって意識が回復。何とか問題が
解決されました。

数時間休んで、その日の夜中に帰ることになりましたが、
突如救急車で運ばれたので、気がつけば履物がありません。
それで病院のスリッパを借りて、タクシーで帰りました。
これが私の初めての低血糖障害と救急車体験です。

以上が糖尿病発覚の一番最初の段階です。
そこから、糖尿病との付き合いが始りました。
この続きは次回のブログで紹介します。