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京の一枚

京都 紅葉100シリーズ 一休寺(酬恩庵)NO.63


とんちで有名な一休禅師が再建し、晩年に隠棲した臨済宗大徳寺派の禅寺。





もとは、正応年間(1288年~92年)に大応国師が建てた妙勝寺で、荒廃していたものを、康正2年(1456年)に一休禅師が御堂を建て、宗祖の恩に報いるという意味を込めて酬恩庵と名づけた。


一休は風雅な檜葺きの虎丘庵に住んだという。


本堂は室町時代の建築、方丈、庫裏、東司などは江戸時代のもので、一休和尚像とともに国の重文。




方丈庭園は苔むした自然石が美しい。


京都の生まれで後小松天皇の落胤という。


幼名は、後世史料によると千菊丸。




長じて周建の名で呼ばれ、狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などと号した。


戒名は宗純で、宗順とも書く。




一休は道号である。(戒名と道号については「戒名」の項目を参照のこと。)


6歳で京都の安国寺の像外集鑑に入門·受戒し、周建と名付けられる。


早くから詩才に優れ、13歳の時に作った漢詩「長門春草」、15歳の時に作った漢詩「春衣宿花」は洛中の評判となり賞賛された。


応永17年(1410年)、17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり、戒名を宗純と改める。謙翁は応永21年(1414年)に没した。


この時、一休は師の遷化によるものかは断定できないが、自殺未遂を起こしている。


応永22年(1415年)に京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそう そうどん)の弟子となる。


『洞山三頓の棒』という公案に対し、「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから、華叟より一休の道号を授かる。




なお「有ろじ(有漏路)」とは迷い(煩悩)の世界、「無ろじ(無漏路)」とは悟り(仏)の世界を指す。


応永27年(1420年)のある夜、カラスの鳴き声を聞いて、俄かに大悟する。




華叟は印可状を与えようとするが、一休は辞退した。華叟はばか者と笑いながら送り出したという。


以後は詩·狂歌·書画と風狂の生活を送った。


正長元年(1428年)、称光天皇が男子を残さず崩御し、伏見宮家より後花園天皇が迎えられて即位した。


後花園天皇の即位には一休の推挙があったという。


応仁の乱後の文明6年(1474年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持(第47代)に任ぜられ、寺には住まなかったが、再興に尽力した。




塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。


天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。


1481年、88歳で酬恩庵に没した。


臨終に際し、「死にとうない」と述べたと伝わる。


酬恩庵は通称「一休寺」と言い、京都府京田辺市の薪地区にある。


康正2年1456年に荒廃していた妙勝寺を一休が再興したものである。


墓は酬恩庵にあり、「慈揚塔」と呼ばれるが、宮内庁が御廟所として管理している陵墓であるため、一般の立ち入り・参拝は不可能である。




一休宗純が遺した言葉


門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし (狂雲集)


釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな秋風一夜百千年 ( 秋風のなかあなたと共にいる。それは百年にも千年の歳月にも値するものだ。 )


花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖 はもみじ、花はみよしの


女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む


なお、アントニオ猪木らによって、『一休の言葉』として流布されていた「この道を行けばどうなるものか・・・」に始まる言葉は実際には一休の言葉ではなく、文言に多少の相違はあるものの、もとは清沢哲夫の「道」という詩であったと見られる。










■アクセス


京阪宇治交通バス「一休寺道」下車徒歩5分


■拝観時間 9:00~17:00(受付16:30まで)


■宝物館~16:30


■拝観料 500円


■住所  京都府京田辺市薪里ノ内102


■電話番号 0774-62-0193


■詳しくは:http://www.ikkyuji.org/


※写真は全て過去のものです。

















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