坐花酔月 徒然日記

 「花咲く処に腰を下ろし 月を眺めて酒を楽しむ」 この一年、どんな年になるのか。

直江兼続と荒倉山

2016-07-19 18:00:00 | 古文書、郷土史他

『全国統一を進める豊臣秀吉は、天正18年(1590)に奥羽地方の検地に着手した。上杉景勝は庄内三郡の仕置を命ぜられ、配下の武将を諸城に配置した。(中略) しかし土地と耕作者の直接把握をめざす検地の強行は、地侍たちにとっては村々に持っていた権益を奪われることであったので、東北各地で一揆が勃発した。それは庄内にも波及し、一揆勢は諸城を占拠したが、上杉軍によって鎮圧された。一揆に参加した多くの地侍は追放され、来次氏(観音寺城)や留守氏(新田目城)等の国人領主は上杉家臣団に編入されてこの地を離れた。荒倉山・鷹尾山の修験勢力が滅亡したのもこの時である。』[庄内における戦国時代について 秋保 良氏:酒田民俗第六号P36]

 秀吉の命令は、といえば…、
『過酷を窮めて検地にあたっては「国人ならびに百姓どもに合点行き候ように、よくよく申し聞かすべく候。自然あい届かざる覚悟のやから、これあるにおいては、(中略) 一人も残しおかず、なでぎりにもうしつくべく候」と、言うことを聞かない百姓に対しては「一郷も二郷もことごとくなでぎりにつかまつるべく候」と記して、秀吉は天正18年(1590)8月12日、奥羽両国の検地を浅野長政に命じ、朱印の押した書状を出した。これに対し農民はしばしば一揆を起こし、これを鎮圧した記録が上杉家などに伝わっている』(中世の庄内と藤島城 阿部勝彦氏:庄内のかたちP116)

 それでは今春新装発刊された「新編庄内史年表」[鶴岡市史編纂会編]では…、
『1590.天正18.庚寅.1.10 大宝寺(武藤)義勝が大浦(尾浦)城から大宝寺城代の小島左近に年貢の返礼を状を出す。(古代史料上P235)』
 ちょっと話は逸れるけど、とここで小島姓が出てくる…、家系かねぇ? う〜む。
『 同. 8.- 上杉景勝庄内の諸城に配下の諸将を配置し(大宝寺城:芋川越前、大浦城:島津淡路、東禅寺城:須田相模)、検地に着手』
『 同. 10.3 直江兼続が庄内仕置を終えて荒砥に到着。(古中史料上P238)』
『1591.天正19.辛卯.5.23 前年10月から藤島城に籠城していた金右馬丞が投降する。直江兼続が同城を破却。(略) 来次氏、留守氏、小国氏、高坂氏、土佐林氏などが上杉氏家臣団に編入される。(古中史料下P424)』
『 同. これより前 荒倉山や鷹尾山の修験勢力も検地一揆に加担し、上杉勢によって滅ぼされる。(筆濃余理下P253、出羽国風土略記5ノ32)』

 誰が荒倉山を滅亡させたか…、
『武藤家の衰退により庄内が上杉景勝の支配下に移る中で、秀吉の命で庄内検地が行なわれたが、庄内各地で検地反対一揆が起きた。景勝の重臣直江兼続が断行し、検地反対拠点の西羽黒と呼ばれた荒倉山や酒田市生石の朝日山城などをことごとぐ滅亡させた。また、藤島城の一揆も鎮圧した。これにより庄内全域が上杉景勝の支配となり、米沢30万石直江兼続が庄内を併領した。(1597年)[庄内のかたちをふりかえる 春山 進:続々庄内のかたちP24]

と、我が家にある本だけで抜き出せば、こんな感じかなぁ?
荒倉山修験…、もっと知りたい!!
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