兄3人、姉1人はすでに亡く、
年明け早々には90歳になる長姉と8歳違いの末っ子の、
この僕の2人だけになってしまった。
それなのに、2人の〝距離〟は年を重ねるごとに遠くなっていく。
その姉は生まれ育った長崎に住み続け、対して僕は福岡へ移って40数年、
すでに福岡暮らしが長くなっている。
一人娘の世話を受けながら老人ホームで暮らす大事な姉を
繁く訪ねたいと思いつつも、
高速道路を走っても福岡─長崎間の2時間が行く足を重くする。
今年も訪ねたのは1月末と12月初めのわずか2回だけだった。
あの家はまだあるだろうか。
姉の顔を見つめていて、小学3年生から大学を卒業するまで
一緒に暮らした家のことを思い出した。
入り組んだ路地裏のどん詰まりにあった、あの家だ。
姉の顔は「あるはずよ」と言っている。行ってみよう。
姉に「またね、元気でね」と告げると、足は自ずとそちらへ向いた。
オランダ坂のある東山手、大浦天主堂やグラバー園のある南山手、
かつての外国人居留地区に挟まれた、やや東山手に近い住宅街だった。
分け入るように路地に入る。
「こんなに狭かっただろうか。間違ったかな」と思いつつ進むと、
驚いたことに確かに覚えのある「中村」「石井」という表札があった。
もう70年も前になるのに、今もまだ住まわれているのか。
この両家に挟まれたさらに細い路地の奥が我が家だったはずだ。
あった。確かにこの家だ。
小さな平屋建て。途端に切ない気持ちになった。
このちっぽけな家に一時は両親と6人の子ども、
それに祖母の9人が住んでいたのだ。
6畳と4畳半、それに3畳ほどの小部屋が2つ、
就寝時は布団が部屋中に隙間もないほど並んだ。
時に僕は姉の布団の中に潜り込んでいったりして──
そんなことも思い出した。
まさに、家族が身を寄せ合って暮らした忘れがたい家なのである。
その小さな家が壁は薄汚れ、歪んだ窓枠は今にも外れ落ちそうになっている。
人が住んでいる気配はない。
玄関前に立つと、切なくも「貸家」の張り紙が表札代わりになっていた。
走って28秒で行けた中学校。81歳の脚では5分ほどかかった。
校庭を見れば、走り回り、鉄棒で宙返りをしていた日々を思い出す。
ただ、なぜか校庭も校舎もあの頃より小さく見えてしまう。
生まれ育った長崎が何もかも小さくなっていく気がしてやるせない。
我が身もそう、すっかりしぼんでしまった。