Toshiが行く

日々の出来事や思いをそのままに

少し 侘しく、そして眩しく

2024-07-19 12:22:07 | エッセイ

 

今は青葉だけの川べりの桜の木。

その陰にすっぽり包み込まれるようにして

若い2人が座っていた。

 

少し早めの昼食だったのだろうか、

近くのスーパーのレジ袋からドーナツみたいな

そんな形をしたパンを取り出した彼女は、

かすかな笑みを浮かべながら彼に渡した。

同じように缶ジュースも。

彼は無言のまま手を差し出して受け取り、

時折彼女の方に目をやりながら

パンをかじり、合い間にジュースを飲んだ。

 

良く見ると、そう若くはなさそうだ。2人とも30前後と見えた。

2人は2人きりの時をはしゃぐでもなく、

浮かれるふうもなく、年相応といえばそうなのだが、

物静かなたたずまいであった。

2人の前を通り過ぎ、50㍍ほど進んだ時、

がしゃという音がした。

振り向けば、踏みつぶされぺしゃんこになった

缶が彼の足元にあった。

 

 

少し先の川べりの小さな砂場に

保護犬・マナの姿を、やはり1年ほど前から

それこそぷっつりと見なくなった。

当時、4歳のメスの柴犬だった。

生まれて間もなく捨てられ、動物愛護管理センターで、

あるいは殺処分されかねない身の上だったのを

新しい飼い主に引き取られ、安穏に暮らしていた。

それでも「いまでも人への警戒心が強く、

こうやって外に出るのも、この砂場遊びの時くらい」

マナを慈しむ新しい飼い主はそう語っていた。

だが、いつしか、この砂場に姿を見せなくなった。

今日も川べりを歩きながら、あの愛らしい

マナの面影を思い浮かべる。

 

眩しさの中から突然の雨。ぽつりぽつりと背を濡らしていく。

夏日の暑さ。濡れた背は心地良い。構わず歩き続ける。

間もなく梅雨も明けるだろう。

侘しくもあり、眩しくもある季節の移ろいである。

 

 

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はじめてのおつかい

2024-07-14 08:55:02 | エッセイ

 

『はじめてのおつかい』というテレビ番組がある。

保育、幼稚園児ほどの我が子に、

初めての買い物をさせてみようというもので、

その一部始終を隠しカメラで追っていく。

言いつけられた物を忘れ、違う物を買ってきたり、

つい道草を食ってなかなか店にたどり着けずハラハラさせたりと、

おつかいの中で起きるさまざまなトラブルに

幼い子たちが取る行動に和まされる、

ほのぼの感たっぷりの番組なのである。

そこらが人気なのであろう、不定期ながら30年も続いているそうだ。

 

記憶に残る僕の『はじめてのおつかい』は、

小学3、4年生、10歳前後だったと思う。

母から風呂敷を袋状にした入れ物、それからお金、

確か500円だったと思うが、それを持たされ

「米を買ってきてちょうだい」と言いつけられた。

その米というのは闇米であり、それを一升買ってこいというのである。

母は「あそこの路地裏にお爺さんとお婆さんが2人住んでおられるから」

と道順を教え、「一升くださいとだけ言えば、

ちゃんと売ってくれるからね。

お金、落とさないよう気をつけて……」と付け加えた。

 

      

 

僕の10歳前後の時代というのは、朝鮮戦争特需があっという間に消え、

次の経済成長までの不況期である。

我が家は食べるものにも事欠いた、そんな記憶ばかりだ。

まだ、米穀配給通帳があったが、

今みたいなホカホカの白ご飯を食べられることはまずなかった。

お粥状のものであったり、芋や麦の中に

米が少しだけ入ったものがほとんどだった。

 

しかも我が家は、男の子4人、女の子2人、これに両親を加えて8人家族だ。

さらに言えば、上の兄2人は20歳を過ぎ、姉2人も思春期の食べ盛りだった。

8人が円卓を囲めば、大皿に盛ったなにがしかのおかずは

あっという間になくなり、末っ子の僕なんか、

うかうかしていると食いはぐれてしまう。

そんな家庭が配給米だけで足りるはずがない。

 

父親の給料日になると、母は決まって僕を呼び、風呂敷の袋とお金を持たせた。

薄暗い路地を通り、どこにでもあるような家の戸を

「こんにちは」と言って開ければ、お爺さんが

「ホイホイ、よく来たね。いつもの通り一升だね」と出迎えてくれる。

側にいたお婆さんが「ちょっとおまけしときなさいよ」と愛想を見せると、

お爺さんは米二つかみのおまけである。

夕の食卓を思い浮かべながら、

僕は足取り軽く路地裏を通り抜けていった。

 

 

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ハーモニカ

2024-07-06 08:44:28 | エッセイ

 

 

誰かの生き方と似て、なんとまあ適当な楽器なことか──

楽器と名の付くものは、まったくダメだ。弾けない、吹けない。

ヴォーカルのレッスンに通うミュージックスクールの先生が、

「ギターもやってみませんか」と持たせてくれたものの、

5分もしないうちに「まあ、ボチボチやりましょうか」と、

あっさり諦めてしまった。

 

そして、次に先生が勧めたのがハーモニカだった。

これが僕にとっては〝適当な楽器〟だったのだ。

正確に音符通り吹かなくとも、

そのあたりを吹いていると何とか様になっている。

だから、覚え方にしてもどの穴がドなのか、レなのか、あるいはミなのか、

それを覚えることなく、

先生が「4番目の穴を吹いて、5を吸う。そして、また4を吹いて」

などと言ってくれる通りにやっていけば、それでOK。

だから、何番目の穴がドなのかいまだによく分かっていない。

もっとも、前奏、あるいは間奏にちょっと入れるだけだから、

それで通用するのだろうが、本格的だともちろんそうはいかない。

 

         

 

ほとんど先生のギター1本の伴奏で歌っているのだが、

確かにハーモニカをちょっと入れるだけで、なかなかよろしくなる。

この小さなハーモニカの、大きな役割に感じ入ることしばしばだ。

お断りしておくが、これはあくまで10ホールズハーモニカの話だ。

10穴しかないもので、ドイツのホーナー社製だとブルースハープ、

普通にはブルースハーモニカという。

ロックやフォーク、それにブルースなどでよく使われる。

フォーク歌手がよくギターを弾きながら、

首に固定具をつけ吹いている、あのハーモニカだ。

 

そういうことでホーナー社製1本とトンボ社製2本を持っている。

ただ気の毒なことに、この3本のハーモニカが、

書棚の飾り物同然にほこりをかぶっている。

たまに、ほこりを払ってやりはするが吹くことはない。

このところ、ハーモニカを入れる曲を歌っていないのだ。

 

いちばん最初に買ったホーナーのブルースハープ、その蓋をそっと開け手にしてみた。

「吹いてみてよ」──なんだか誘っているように思えてくる。

そして、やっと出番がやってきた。

レッスンで歌っていた曲に「これにハーモニカを入れましょうか」

先生がそう言ってくれたのだ。

ハーモニカを入れたその曲は、何ともナイスな響きとなり歌声を引き立たせてくれる。

82歳の誕生日が間もなく。

適当に生きてきた人生をハーモニカで祝ってみようか。

 

 

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幸せホルモン

2024-07-02 06:00:00 | エッセイ

 

 

ベランダの花々は、どれも美しく、可憐だ。

「おはよう」と呼びかければ、

まぶしいほどの陽の光を浴び、ニッコリしながら

「はーい、おはようございます」と答えてくれそうだ。

 

陽の光は植物を育ててくれるだけでなく、

人をも幸せにしてくれる。

「セロトニン」というのは、神経伝達物質の一種だが、

これが増えると、人は「意欲的になる」「快感が増す」

「気持ちが明るくなる」「闘うファイトが湧く」などが起こり、

逆にこれが減ると「うつ症状が出る」「衝動的になりやすくなる」

「体の痛みや不調を訴えやすくなる」「無気力になる」そうだ。

それで、「幸せホルモン」と言われており、

陽の光がこの「セロトニン」の分泌を促すのだという。

 

    

 

早速、梅雨の晴れ間を縫い、「セロトニン」を求めて

ウォーキングに出かけることにした。

いつもの川沿いの道。風もなく水面は穏やかだ。

だが、暑い。額や背にじわじわと汗がにじみ出、

やがて滴り落ちてくる。

熱中症対策はしっかりしてきているが、

この季節、「セロトニン」を求めるのも楽ではない。

 

道すがら、街路樹の幹に目が止まった。

コケが幹を覆い、強い日差しから守っている。

この老木には、なにがしかの味わいがある。

 

 

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正義は我にあり

2024-06-27 06:00:00 | エッセイ

 

脳科学者・中野信子さんの著書に「シャーデンフロイデ」というのがある。

「シャーデンフロイデ」とは、あまり聞きなれない言葉である。

一体何なのか。興味を引かれてページをめくってみた。

要するに「他人を引きずり下した時に得られる快感」、

さらに言えば、正義を振りかざして人を叩くと得られる快感で、

攻撃すればするほど、ドーパミンによる快楽が得られるのだという。

 

         

 

何事にも意見を異にする人たちがいる。そして、互いを批判する。

民主国家であれば、当然のことだ。

だが最近、批判を通り越して誹謗中傷の類が多いように思う。

特にSNS上で、そんなことが横行しているようだ。

そういう人たちは、間違いなく「自分こそが正義」だと固く信じ、

自分の正義の基準にそぐわない人を、正義を壊す悪人として叩く。

攻撃して、相手が弱れば「してやったり」の快感を得るというわけだ。

 

中野さんはまた、新型コロナウイルスが急速に広がった2年ほど前に

「正義中毒」という本も出している。

あの頃、マスクをしていない人など感染防止に非協力的と見えた他人を激しく攻撃する、

あるいは感染者が出た家庭、飲食店に嫌がらせをする、

さらに県外ナンバーの車を威嚇するなどといったことが起きた。

そして、「正義」を振りがさしたそんな人たちは、

自らを「自粛警察」「正義警察」と呼んだものだ。

中野さんは、こうした正義に溺れてしまった中毒状態を

『正義中毒』と言ったのだ。

 

今、こうした『正義中毒』に陥った国が世界のあちこちにある。

その結果、多くの民が犠牲になり、その惨状が連日報じられている。

近くでは韓国を“くず”呼ばわりする北朝鮮。

汚物風船を韓国に向け多数飛ばすなど、関係が急速に悪化している。

北朝鮮にすれば、自らが正義であり、韓国の脱北者団体が

大型風船で金正恩批判のビラを撒いたのを許した韓国政府は悪、

そう決めつけてのことだというが、事はそう単純なことではあるまい。

 

        

 

最近は「シャーデンフロイデ」と同じような意味で、

「他人の不幸で今日も飯がうまい」─“メシウマ”と言うのがあるのだそうだ。

韓国をこれほど攻め立てている北朝鮮だが、

「今日も飯がうまいわい」─そう、ほくそ笑んでいるとはとても思えない。

 

 

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