新聞の人生相談欄には、様々な人たちの悩み、心配事が寄せられている。
読めば、同じような悩みに「うん、うん」と頷き、
中には「そうではあるまい」とちょっとばかり説教してやりたいような話もある。
人の世は、複雑な思いがさまざまに混在しているものだ。
「祖母が老衰で亡くなりました。近所に住み、
かわいがってもらった祖母なのに寂しくも悲しくもありません。
祖母と対面した葬儀の時には、遺体に触ることをむしろ不快に感じてしまい、
そそくさと逃げるように帰りました。涙も一度も出ません。
……悲しみがわかない私は異常なのでしょうか」──
20歳代の女性がこんなことを話していた。
これを読んで、ひどく寂しい思いに駆られた。
仮に僕が死んだ時、孫たちは悲しんでもくれず、
涙一滴流してはくれないのだろうか、と。
それではあまりにも切ないではないか。
僕の体にすがりついて、ワアワア泣いてほしい、と。

でも、ちょっと待て。自身はどうだったか。
両親、あるいは兄や姉が亡くなった時、悲しい、寂しいと感じたか。
涙一滴流さなかったのではなかったか。
父が亡くなった時、すでに冷たく横たわるその頬に
うっすらと見える髭を剃ってやり、最後の孝行だと思ったことはある。
でも、特に悲しいという思いにはならなかった。
だとすれば、この女性を「何と冷たい人か」と責められるはずがない。
そうではあるが、父とのことをすっかり忘れてしまったわけではない。
「あんたは父ちゃんに生き写し」と姉たちから言われてきた僕だ。
毎朝、鏡を覗けば眉が長く伸び垂れている。
すると、「父もそうだったな」そんな思いがすぐに出てくる。
このように何かにつけ思い出すのである。
それは母に対しても、それから兄や姉にも対しても同様で、
それぞれに喜怒哀楽の思い出があり、
時にそれらを思い出しては無性に寂しく、あるいは悲しくなるのである。
孫たちが泣いてはくれなくとも、思い出の中に居させてくれ、
時々思い出してくれさえすれば、それで十分ではないか。
だから、生きているうちに孫たちの心に残る
楽しい思い出をたくさんつくっておこう。
「おーいランチはどうだ」孫息子にLINEすれば、
「OK。時間と場所を教えて」と返信してきた。
にやりとして、新聞をたたんだ。










