ヨーロッパの奴隷の歴史-大航海時代のはじまりと食(5)
今回は人類史の暗部ともいえる奴隷の話です。
中世までのヨーロッパ各国の国力は、イスラム諸国や中国などに比べてかなり見劣りするものでした。それが近世に入るとヨーロッパの力が徐々に大きくなり、他の地域と肩を並べるようになります。その原動力の一つとなったのが奴隷だと言われています。多数の奴隷を植民地で使役することで農作物などの大量生産が可能になったのです。
例えば、アメリカ大陸へはアフリカから膨大な人数の奴隷が運び込まれましたが、彼らを綿花やサトウキビのプランテーションの労働力として利用することで莫大な富を築くことができました。
ところで、奴隷を使役することは大航海時代になって急に始まったことではなく、古代から行われてきました。今回は少し歴史をさかのぼって、ヨーロッパにおける奴隷の歴史について見て行きます。
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奴隷制は古代社会では一般的だった。古代ギリシアや古代ローマでも奴隷は普通の存在で、特に古代ローマでは初期から末期まで奴隷が重要な労働力として利用されていた。例えばローマ時代初期には、ローマ市民は少なくとも一人の奴隷を持つのは当たり前だった。彼らに日常の身の回りの世話をしてもらうことが一般的に行われていたのである。
また、学問に精通したギリシア人奴隷を家庭教師や医師などとして雇うことも多かったし、下級の役人や農場・鉱山の労働者などのほとんどは奴隷だった。円形劇場で戦う剣闘士も奴隷だった。生活する上でも娯楽を楽しむ上でも広大なローマ帝国では奴隷の力が必要不可欠だったのだ。
このような奴隷にされたのは、戦争で捕虜として捕まった者や奴隷が産んだ子供、捨て子などの身寄りのない子供たちだったが、借金を返済するためにローマ市民が身売りをして奴隷になることもあった。
なお、この頃の奴隷の生活は大航海時代の黒人奴隷ほど過酷ではなく、特に都市部の奴隷には財産権があり、高度な専門職には高額の手当てが支払われていたという。また、真面目に仕事をしていれば奴隷から解放されて自由民になる者も多かった。
ローマ帝国の後の中世のヨーロッパ世界で支配者になるのはゲルマン民族だが、大移動前の彼らの社会にも奴隷制が存在していた。すなわちゲルマン民族の古い社会は、少数の貴族、自由民、非自由民、奴隷という4つの身分によって構成されていたのだ。
ゲルマン民族の大移動によって成立したフランク王国や、その後を引き継いだフランス、ドイツ、イタリアなどでは領主を頂点とする封建社会が築かれた。この封建社会を支えていたのが農奴制だ。農奴は領主の支配を受け、荘園内に縛り付けられた存在で、奴隷に近い身分で農作業を行った。農奴には若干の私有財産が認められていたため、ローマの都市部の奴隷に似ていたと言える。
一方、中世にはヨーロッパ世界からイスラム世界に向けて大量の奴隷が輸出されていた。中世初期のヨーロッパは、衣類や穀物、香辛料、ワイン、パピルスなどを東方からの輸入に頼っていたが、一方でヨーロッパから輸出できるものとしては木材や染料、毛皮、そして奴隷くらいしかなかったためだ。しかし、キリスト教徒がキリスト教徒を奴隷にすることは禁じられていたため、他教徒(他民族)を捕らえて奴隷として売り渡していた。ちなみに、「slave(奴隷)」という言葉は、955年にドイツがマジャール人との戦いで多数のスラブ人(slavs)を捕まえて奴隷にしたことから来ている。
このような奴隷の貿易を行っていたのが、ヴェネツィアやジェノヴァなどの湾港都市やユダヤ人の商人だった。彼らはヨーロッパの各国から買い集めた奴隷を、中東や北アフリカ、イベリア半島のイスラム教国に運んで売っていた。また、北欧のヴァイキングたちも街を襲って捕らえた人々を奴隷としてイスラム教国に売却していた。なお、男の奴隷についてはイスラム世界に運ぶ前に宦官にする去勢手術が行われることが多かったそうだ。
イスラム世界で奴隷は兵士や身の回りの世話役、性的な対象として使役させられていた。ローマ帝国のように解放されて自由民になる者も少なくなく、その中には立身出世して軍の司令官などの要人になった者もいる。また、オスマン帝国の最高権力者スルタンの母は奴隷出身者がほとんどで、当然そうなると非常に高い身分となった。ちなみに、イスラムでは母の出自によって子供が差別されなかったことと、母方の血筋からの影響を排除するために奴隷の子を世継ぎにしたと言われている。
奴隷貿易を盛んに行っていたジェノヴァはヴェネツィアとの地中海の覇権争いに敗れるとポルトガルに接近し、その後援者となってポルトガルの海外進出の手助けをするようになった。そのポルトガルは大航海時代の初めはアフリカ西沿岸の海域を南下して航路の探索を行っていたが、それと同時にアフリカ西岸部に上陸して金目の物も探していた。そうしてギニア湾岸に上陸して出会ったのが黒人の部族同士の争いで生まれた奴隷だった。ポルトガル人はその奴隷を買い取るとともに、特定の部族に銃などの武器を渡すことでさらに多くの奴隷を獲得して行った。
こうして集めた奴隷を使って、ポルトガル人はアフリカ西岸域の島々でサトウキビのプランテーション経営を行うようになった。プランテーションに必要な膨大な労働力を黒人奴隷が担ったのである。そしてこの方式は、その後のブラジルにおけるサトウキビのプランテーションにも採用された。西洋人がアメリカに侵入してからしばらくすると、アメリカ大陸の原住民は西洋から持ち込まれた伝染病によって次々と倒れたため、現地の労働力が不足したからである。
このようにギニア湾岸で奴隷を集めてプランテーション農場で働かせるやり方は、スペインやオランダ、イギリス、フランスも追従することになる。特にイギリスは大量の奴隷を使役することで莫大な富を得た。こうして19世紀までに1000万人以上の黒人が奴隷としてプランテーション農場に投入されたと見積もられている。そして、アフリカでは著しい人口減少が起こり、これが今でもアフリカが停滞している原因の一つと言われている。
ちなみに、日本人も大航海時代にポルトガル人によって奴隷として日本から船で運び出され、ポルトガルだけでなく世界の各地で売却されていた。その時代のヨーロッパ人にとって珍しい日本人は金儲けができる商品の一つだったのだろう。なお、豊臣秀吉が1587年にバテレン追放令を出した理由の一つは、ポルトガルに日本人奴隷の貿易をやめさせるためだったと言われている。