日常的にあまり貧血を感じる事は無かったが、困ったのは妊娠中だった。
胎内の我が子にも、鉄分を供給しなければならないので食生活には気を使った。
鉄分が多く含まれる食品には、青のり、アサリ、鶏レバー、豚レバー、ヒジキ等などあるが、私にとって食べ安かったのはヒジキだった。
水で戻したヒジキを千切りのニンジンと輪切りのちくわと共に、ごま油で炒め合わせ酒、砂糖、醤油で味を付けてサッと煮た物だ。これと一緒にビタミンCを摂取すると、鉄分の吸収が良いと言うので、食卓にキウイフルーツやレモンを用意していた。
最初の出産は病院だった為、鉄剤を出してもらったが、2番目の子は助産院にかかっていたので、薬剤を扱え無いという事で、助産院から紹介された産婦人科の病院で鉄剤を出してもらう事になった。
その病院は、助産院から15分程離れた場所にあり、小さな建物だった。
入り口は何故か道路に面しておらず、本来であれば裏口にあたる場所が入口となっていた。
2度目に鉄剤を受け取る為、病院を訪れたときの事だった。
引き戸の入り口を開けると、狭い玄関にどでかい一足の履き古された運動靴があった。明らかに男性のものだったので、ちょっと驚いた。
中に入ると、小さな待合室の小さなソファーに、大柄の若い男性がキャップを被ったままうつむいて座っていた。
見た瞬間、訳ありなのだなと思った。
私とその若い男性の他に、4、50代の女性が一人いた。
その女性と目が合うと、「何だか、手術中だから、時間がかかるみたいよ。」と、私に教えてくれた。
ソファーの後には廊下が続いており、右側が手術室と、その奥が病室、左側は病室が2つ程度の規模だった。
暫くして、右側の手術室の引き戸がガラガラと開くと、大柄の茶髪の長い髪の女性が、手術を終えた医師その人に、お姫様抱っこをされながら出て来た。
体格の良い女性だったので、医師はやっとの思いで抱えながら、その奥の病室へ運んで行った。
ソファーに座っていたガタイのいい青年も立ち上がったので、もしかしたら、望まない妊娠の処置だったのかな、と察した。
ほぼ、その直後に私は診察室に呼ばれた。
中に入ると、診察室のすぐ隣が手術室と言うか処置室である事がわかった。
それは、本来カーテンで仕切られているはずなのだろうが、開けっ放しだった。看護師も医師も、物凄く無神経な人達であると感じられた。
恐らく、こういった事が日常茶飯事なのだろう。建物の入り口の位置が裏側なのも、もしかしたら、ここは“堕ろし専門”の産婦人科なのじゃないかと思った。
妊婦が腰掛け、堕胎する為の椅子様の処置台と、たった今使用したであろう血液のついた器具らが、無造作に置いてあり、私から丸見えだった。
医師は、そんな状況下で私に淡々と、鉄剤の説明をした。
私は自分のお腹の中にいる大切な我が子の生命と、たった今、生命を絶たれてしまった胎児の生命の、あまりにかけ離れた運命を思った。
人それぞれ、様々な事情が有るのだろうが、回避する方法は無かったのだろうか…他人事ではあるけれど、思ってしまう。
医師から鉄剤を受け取り、言いようの無い思いでその病院を出た。
その後、そこへ訪れる事は二度と無かった。
けれども、そこでの出来事は、奪われてしまった生命の無念さと共に、生涯忘れる事が出来無い。