
*****
真山仁の視線 戦争の準備 着々と進めてきた30年
「2020年東京五輪Fパラリンピック」を前に、日本各地の景色が変わっています。景色だけでなく、人々の生き方や価値観も変りつつあるのではないでしょうか。「
ハゲタカ」などの著作で知られる作家の真山仁さんが、移り変わる「いま」を、多様なPerspect市es(視線)から考えます。

①平成と平和
まもなく平成が終わる。
あえて回顧するならば、平成時代は、その名とは裏腹の騒擾(そうじょう)の30年だった。経済的混乱と自然災害に振り回されっぱなしで、日本人の傲慢(ごうまん)を誰かが戒めているようにすら思えた。
そんな平成回顧が溢れる中で、ある人物の発言が一際(ひときわ)光輝いた。
天皇だ。
平成31年2月24日、在位30年記念式典の「おことば」の中で、陛下は以下のように述べた。
「平成の30年間、日本は国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちました」
誰もが抱いた「平成はどうしようもなく、ダメな時代だった」という諦観を一気に吹き飛ばす、迫力あるポジティブな「おことば」だった。
その一方で、心の奥底で何かが引っ掛かった。
なぜだろう。
それは、世界情勢があまりにも不穏で、憲法遵守(じゅんしゅ)を盾に国外の軍事行為に参加することを拒絶してきた日本の立場が、揺らいだ30年だったからだ。
平成2年8月、欧米先進国から、自衛隊の湾岸戦争への参加が求められた。だが、日本は平和憲法堅持の立場を守り、人ではなくカネ(同年に平和回復活動に計20億ドル、周辺諸国の経済支援として20億ドル、翌年に90億ドルの追加支援)を拠出して、「平和憲法維持にはカネが掛かる」ことを痛感した。
さらに、世界平和の維持に参加せず、全てを金で解決する卑怯者のような印象を、世界に与えた。
日本の弱腰に国際世論は収まらず、結局平成3年1月29日、自衛隊法100条の5。史上初めて、自衛隊の海外実任務が遂行された。
そして、翌年6月、「国連平和維持活動(PKO)協力法」と「改正国際緊急援助隊派遣法」が公布された。
その後も、放置すれば日本に脅威をもたらす場合に軍事行動を可能とする周辺事態安全確保法(ガイドライン法、同11年)、テロ対策特別措置法(13年)など、毎年のように防衛関係の法律が制定されていく。
そして、特定秘密保護法(25年)や安全保障関連法や集団的自衛権の行使容認を織り込んだ国際平和支援法(27年)なども、制定された。
こうして見ていくと平成時代は、戦争はなかったけれど、「戦争の準備を着々と進めてきた30年だったのではないか」とも思える。
ただ、日本は戦後、世界平和に対する姿勢があまりに消極的過ぎたのは事実だ。先進国の一員として世界経済の一翼を担い、多大なる恩恵を受けている日本が、自国の憲法を振りかざして、「軍備で世界貢献はできない」と突っばねるのは、非礼だと誹られるのも当然だ。
だから、先進国クラブとしての対処を、もっと早く行うべきだったのだ。
国家機密を守る法律やテロを断固たる態度で防ぐ法律なども(法律の中身には問題があるが)もっと早く制定しなければならなかった。
ところが昭和時代には、それらの法律が、戦前の思想摘発や国家統制を想起させるために、政府は法制定に及び腰であり、世論の拒絶反応が、強くもあった。
平成になって、そうした法律がようやく制定できたのは、国民の拒絶反応が弱まったとみるべきなのだろう。
ただ、平成がそういう時代だったとしても、この5年ほどの世界情勢を見ていると、日本はいつ戦争に巻き込まれてもおかしくない状況にはある。
だからこそ、陛下が在位30年の式典で、強く平和を希求したことは、重みをもって国民に受け止められた。
我々は平和をここまで堅持できた。国際情勢がどうなろうと、これからも平和を守らなければならない――。
陛下が、「おことば」の中で、美智子皇后の歌を一首披露している。
“ともどもに平(たけ)らけき代(よ)を築かむと諸人(もろびと)のことば国うちに充(み)つ”
天皇皇后両陛下が、これまでいかに平和に心を砕いてきたのかが、その歌にも満ちている。
両陛下の強い思いは、どこまで国民に届いただろうか。
平成時代は、沖縄の基地問題以外で日本国民が平和に神経質になったことはなかった。それどころか、平和について真剣に考えることが減ってきてはいまいか。
厄介な平和 伝える言葉は
平成時代に、若者の心を提えたミュ―ジシャンの一組であるSEKAI NO OWARI(セカオワ)が、平成24年に発売した「Love the warz」という楽曲にこんな歌詞がある。
″不自由がなければ、自由もないだから戦争がなければ、Peaceもないのかい″
″そうさ僕らは幸福世代 僕らの平和を守るため 僕らの世代が戦争を起こします″
この曲を、初めて聴いた時の衝撃を今も鮮明に覚えている。
彼らの問いに自分は答えられるだろうかと考えもした。
縦泌を「中二病」と呼び、その歌を「戯言」という人が多い。
中二病とは、思春期に特徴的な、過剰な自意識やそれに基づくふるまいを揶揄する俗語らしい。具体的には、不自然に大人びた言動や、自分が特別な存在であるという根拠のない思い込みなどを指すともあった。
果たしてセカオワが、中二病なのかどうかは分からない。
だが、もし、彼らが妄想に膨らんだ子どもだと言うのであれば、彼らが歌った「戦争がなければヽPeaceもないのかい」という問いに、大人は答えなければならない。
戦争がないことが、平和ではない。真理はそこにあるはずなのに、じゃあ、平和って何? と問われたら、私は答えに窮してしまう。
戦争はしていないけど、明日にでも戦争が起きるかもしれないぞと国民を脅して、戦争の準備を進めるのは、平和なのか。
あるいは、戦争なんて起きないから、武器は全部捨てて、米軍にも出て行ってもらおうと訴えるのが、平和の有り様なのだろうか。
それらがい大人の答えだとすれば、背筋が寒い。
何より、若者の真剣な問いに、大人がガキの妄想と吐き捨てること自体が問題だ。
相対的な視点でしか、物事が語れなくなった社会は恐ろしい。
″PeaCeの対義語の戦争を無くすため何回だって行う戦争″と歌うセカオワの叫びに我々は真っすぐに向き合って、答えを返さなければならない。
もう一つ、戦争と平和について考えさせられる出来事を、先の歌が発売された前年の23年に聞いた。
場所は、東日本大震災の被災地でだ。
小説家として、被災地の現状をこの目に焼き付け、自問自答をしたくて、震災発生の4カ月後から、2、3カ月に一度のペースで被災地を巡った。
そんな中で、ある人から自衛官の悲劇を耳にした。
「林の中で、若い自衛官が自殺しているのが何度も見つかった」
理由や真偽のほどは、定かではない。
被災地に最初に入り、ヘドロにまみれた場所で生存者を捜索し、多くの遺体を発見したのは自衛官だ。中には、検視のために遺体を水で洗い続けた部隊もある。
そうした過酷な環境に耐えられず、自衛官が追い詰められ、死を選んだのではないのだろうか。
あるいは、被災地に最初に投入された記者がPTSDを発症し、記者をやめたり、苛烈な取材現場に戻れなかったりしたと聞く。記者の多くは、震災直前まで警視庁担当など、凶悪事件の取材を行っていた強者だった。
なぜ、そんなことが起きたのか。
我々が死から遠くなってしまったからではないだろうか。
現代の日本では病院で亡くなるのが、一般的だ。医師が臨終に立ち会い、計器が心臓停止を伝える。亡くなったばかりの人には、体温があり、今にも夢から覚めそうだ。′
だが、本来´死″や″死体″は、もっと冷たく腐臭が漂うようなこともある。
皮肉なことに、戦争がないために、自衛官も記者もそうした過酷な死に触れる機会を失ってしまった。そして、災害現場という、別の場所で突然(理不尽な死やむごい死体と向き合わされる。
平和の中で、死すら実感できずにいることは、問題なのかもしれない。
それでも、我々は未来の子どもたちのために、戦争ではなく平和を選ぶだろう。
平和のために誰かを殺すのではなく、戦争がなくても、平和の大切さを、訴え続けなければならない。
あるいは、平和の危うさを、国民全てが共有する必要もある。
戦争より、厄介な平和を伝えるため、我々は新元号「令和」を前に、どんな言葉を発すれば良いのだろうか。
*****