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林眞須美死刑囚の息子が明かす「僕が母の無実を信じた」理由
栗田シメイ
―[死刑囚・林眞須美の夫と息子「21年目の告白」]―
’98年7月25日に発生した「和歌山毒物混入カレー事件」の犯人として’09年に最高裁で死刑判決を言い渡された林眞須美(58)。前回の夫・林健治氏のインタビューに続き、息子・林浩次氏(仮名)に無罪を訴え続ける思いを聞いた。

和歌山毒物混入カレー事件「21年目の告白」
ご記憶の人も多いだろうが、同事件の舞台となったのは地区の夏祭りだった。そこで振舞われたカレーにヒ素が混入。口にした67人が急性ヒ素中毒となり、うち4人が命を奪われた。直後から前代未聞の無差別殺傷事件として報道が過熱。そのなかでクローズアップされたのが林眞須美だった。当日のカレー鍋の見張り番だったうえに、不審な行動をとっていたという目撃証言も浮上。夫らにヒ素を盛って保険金を不正請求していた“前科”も判明して、事件から約2か月後に逮捕されたのだ。

このとき夫の健治氏の関与も疑われたが、事件と直接関係のない保険金詐欺の疑いで逮捕・起訴。’02年に懲役6年の実刑判決が確定し、’05年に刑期を終えている。
その健治氏がなぜ今、眞須美死刑囚への思いを口にしているのか? それは10月で逮捕から21年を迎えた今も、事件が謎に包まれているからにほかならない。決め手となる物的証拠もなければ自白もなし。動機も明らかにされぬまま、状況証拠だけで有罪が言い渡されたのだ。そのため、林眞須美を含む家族は一貫して犯行を否認。現在、裁判のやり直しを求めて再審請求を行っている。
「今年は大きな動きがあるかもしれへんな」と話す健治氏だが、「再審に影響が出る」として多くを語らず。代わって父と共に無罪を訴え続ける息子の浩次氏(仮名)が、事件の真相を紐解くカギについて語ってくれた。
●林浩次氏(仮名) 1987年、和歌山市生まれ。事件後、小学校5 年生から高校3 年生まで市内の養護施設で暮らす。現在は会社に勤めながら、ツイッター(@wakayamacurry)などで情報を発信。今年、事件に関する著書『もう逃げない。』(ビジネス社)を出版
林眞須美死刑囚の息子が明かす「僕が母の無実を信じた」理由
浩次氏:僕らきょうだいは事件後、多くのいじめや差別を経験してきました。それでもね、親ですから、もし母がやっていないなら見殺しにではできない。ずっと否認しているように、証拠や証言に対しては僕の中でも数々の疑問が生まれた。事件の被害者や遺族の方々は僕が母の無実を訴えることを不快に感じられるでしょうが、母が罪を認めず、謝罪もせずに死んでしまったら、いつまでたっても無念は晴れないと思うんです。
――180cmを超える体軀に、はっきりとした目鼻立ちが印象的な青年からは、あの凄惨な事件を想起しにくい。会社員として働く傍ら、今夏に著書『もう逃げない。』(ビジネス社)を上梓。死刑囚の子供としてのリアルな生活を綴って話題を呼んだ林眞須美死刑囚の息子、浩次氏(仮名・32)だ。
この21年間で浩次氏が母と接見した回数は、優に100を超える。取材の前日にも拘置所内で言葉を交わしたという。事件後、誰よりも林真須美死刑囚と過ごす時間が長かったのも彼なのだ。
浩次氏:事件が起きた’98年7月25日の母の記憶が今でも鮮明に残っています。その日、僕らはカレーがふるまわれたお祭りには行かず、健治(林家では父親をこう呼んだ)と母と僕と次女でカラオケに行きました。そこで母は大好きなテレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」を上機嫌に歌っていたんです。
その姿は21年たっても、“殺人犯の母”と重ならない。面会でも僕は毎回聞くんですよね。「やってないよね?」と。母は21年間変わらない。「ママはやってない」って言い続けている。そのやり取りは、僕だけが知る、家族として母を信じられる最大の拠りどころなんです。
――事件直後は「『もしかして母が……』と思うこともあった」という。だが、20歳のときに初めて死刑判決文に並ぶ文言を見て、母の無実を信じるようになった。

浩次氏:当時の捜査では、事件現場に残されていた紙コップに付着していたヒ素、カレー鍋に残留していたヒ素と自宅から発見されたヒ素が「同一である」という鑑定結果が示されました。でも、自宅から発見されたのは、約90人の捜査員による家宅捜索の4日目。それも、台所シンク下の収納箱にヒ素が隠されていた、と。なぜ、そんな目につきやすいところにあったヒ素が3日間も発見されなかったのか? 本当に同じヒ素なのか?と思うのは当然でしょう。
しかし、ヒ素鑑定には専門知識が必要であり、鑑定書の解読も非常に難解でした。そんな中、唯一依頼を受けてくれたのが京都大学の河合潤准教授でした。その結果、事件に使われたヒ素と、林家にあったヒ素は別物だと結論づけ、発表したのです。驚くべきことですがこれを受けて、事件当時の鑑定人は「自分は検察からの依頼で、ヒ素の起源が同一であるか鑑定を行ったにすぎない」という旨の発言をしている。
その鑑定は3つのヒ素の生産地と原料、生産時期が一緒だったことを証明したのにすぎなかったんです。鑑定方法も不適当で、河合教授は「砂糖を体重計で量るようなもの」と表現していました。自宅で発見されたヒ素よりもカレーに混入したヒ素の濃度が高くなっていたことも明らかになりました。
目撃証言にも疑念
――林眞須美死刑囚はこうした鑑定方法を巡って事件当時の鑑定人に対して6500万円の損害賠償請求訴訟を起こしている。鑑定の杜撰さが民事で立証されれば、再審請求に影響する可能性もある。このほか、浩次氏は目撃証言にも疑念を抱いたという。
浩次氏:当時16歳の高校生が残した、事件当日の母が「白のTシャツにクリーム色のズボン、首にタオルを巻いていた」という証言には矛盾がある。僕の記憶では、黒のシャツに黒いズボンでした。母は普段から黒い服を好んだ。常に体形を気にし、痩せて見える黒い服ばかり着ていたことをはっきり覚えている。カレー鍋の見張りをしていた場所に当たる、ガレージの向かいに住む女子高生の発言にしても同様です。
彼女は、「1階のリビングの窓から林のおばちゃんがカレー鍋のフタを取り、中をのぞき込んでいた」と証言した。ただ、後に1階のリビングではなく、2階の寝室の窓から目撃したと証言の内容が変わっているんです。弁護団の調査では、1階の窓からは物理的にガレージの様子は見えないと発表されている。「髪は肩につく長さ」という女子高生の証言も母には当てはまらない。
当時の母は、髪を切りショートカットにして間もなかったから。2人の目撃証言が証拠として頼りないものとわかっていただけるはずです。僕は捜査員や検察官も証言の綻びに気づいていたのでは?と感じざるをえません。この証言者たちが一切法廷に立っていないからです。再審請求に影響があるので詳細は明かせませんが、実はその女子高生は当時の証言を悔いている、とある方から聞いています。本当ならば、ヒ素鑑定に加えて、証言も不正確だったと証明できる可能性があるんです。

――当然、再審請求のハードルは高い。しかし、母の無実を強く信じるようになった影響か、林眞須美死刑囚の態度は変化しつつある。
浩次氏:母とのやり取りは、ここ数年でずいぶん変わりました。昔はアクリル板越しから、「僕ちゃ~ん」と、満面の笑みを浮かべていました。母の中では、僕との時間は子供の頃から止まっていたのでしょう。それでも、最近は「早く結婚しろや! 何でしないん?」と会うたびに聞かれますし、一人の男として接しているようにも感じています。
一度ね、「僕ら4人の子供に対して申し訳ない気持ちはある?」と、結構厳しめの質問をしたことがあるんですよ。そのとき母は、「成長したあんたからそういう質問がくるのが怖かった。昔は子供だったから、ごまかしごまかしで喋ってきたけど」と話しながら、ちょっと目を潤ませたんです。少し前までは、「事件の話はあんたとはしたくない」の一点張りでしたが、最近はよく話すようになっています。
外の世界のこともよく話題に上がります。直近だと内閣改造。もともと自民党支持者で政治好きですから。
死刑はどう思う? 執行されると思う?と聞くと、「今の安倍ちゃんだったらやりかねないね。ちょっと怖いわって」と冗談交じりに話すこともあれば、真剣な口調の時もあります。「悪いことをしてルールを破れば罰は受けるべき。ただ、私はやってないのに殺されるのは嫌だ」と。

――林眞須美死刑囚は事件直後の過熱報道に対して、これまでに400件近い損害賠償請求を起こしてきた。その大半で勝訴して得たお金を年2~3回のペースで子供たちに送金しているという。「せめてもの親心なのかな」と浩次氏は話すが、事件と21年の歳月は仮に無実が立証されるようなことがあっても重くのしかかる。
浩次氏:もし再審で無罪になっても、それぞれの生活もあるので昔のように家族一緒に暮らすのは現実的に難しい。世間からすれば限りなく黒に近いグレーという認識を払拭しきれないし。それでも母と父と僕で、喫茶店でアイスコーヒーくらいは飲みたい。
――カレー事件は解決したといえるのか? 再検証が望まれる。
▼ヒ素鑑定を実施した和歌山科捜研で’12年に不祥事
’12年12月、和歌山県警は科捜研の男性主任が証拠品の鑑定結果を捏造したとして、有印公文書偽造などの容疑で書類送検。停職3か月の懲戒処分を下した。実は、この男性は’95年に入所し、カレー事件のヒ素鑑定にも携わった人物。カレー事件の捏造は否定したが、一連の捜査では’98年以降、さまざまな事件の鑑定で捏造が確認されている
取材・文/栗田シメイ 撮影/加藤 慶
※週刊SPA!10月21日発売号より
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