拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  青春の (法) 門 〜 金縛り

2021年03月17日 | 娑婆惰罵駄(シャバ・ダバダ)

  『悟り』は『郷里(サトリ)』である…というのは私のオヤジギャグの延長上から練り上げた?覚りである。

  この『郷里』という言葉にたどり着くまでに、私が人生で試行錯誤した問題の中で、その一里塚となる体験として『金縛り』があった。

  最初の『金縛り』は中学生の時で、居間と襖一枚でへだてた和室で床に入った私は、客と話している親の声を聞きながら

  心地よい眠りに入ろうとした時、突然胸あたりに異常な重力を感じ、真っ暗であるはずの天井から子供(?)のような顔が無数に

  湧き出るように現れたのだ・・・。私は恐ろしさに、隣の部屋にいる母に声をかけようとしたが、声を出すことが出来なかった…。

  これが、私の初めての『金縛り』であったが、何故かこのことは母にすら話さなかった。それ以降、高校まで時折『金縛り』にあったが

  だんだんその直前に察知することが出来るようになって、その恐怖に耐える呪文のようなものをあみ出した気がする。

  その呪文がなんであったのか?『般若心経』…と一時考えたが、当時それを知っているわけがなく、何か別なものであったはず。

  1970年、五木寛之著『青春の門』が出版され、1975年には映画にもなった。私は映画は見た気がするものの、内容はよく覚えていないが

  その峻烈なタイトルは私の心に強く刻まれ、このタイトル『青春の門』に私自身の物語を読む思いがしていたのだ。

  1970年は私は18歳で北海道の田舎から単身東京に就職し、3ヶ月後に神戸に移り自分の青春が開幕する気がしていた。

  『金縛り』とこの『青春の門』がなんの関係があるかというと、いつ頃からかはよく覚えていないが、私は『金縛り』という現象が

  人として成長するための、通過儀礼なのでは…と思うようになっていて、『青春の門』という言葉を聞いた時、この『金縛り』もなにかの

  『門』なのだと感じていたようなのだ。

  昨日は『電脳』に対して『禅脳』…などというダジャレを披露したが、今考えると『禅脳』もちゃんと人間の成長に合わせて

  バーチャルリアリティを幻視させ、禅で云うところの『魔境』を乗り越える心得を若者に与えていた。

  人生はこうした通過儀礼を人生前半にいくつか準備して『郷里』へ向かうべくシステムを組んでいるのだ。

            

           4年前、トンネル工事に使う掘削機を見た時、最初の金縛りを思い出した図

  

    



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