瞑想のスピリッチュアルな感覚

瞑想行から日本人のスピリチュアルな感性を明らかにする

インド人と日本人の信仰心

2008-01-10 14:18:21 | 瞑想
 この10数年、毎年といっていいほどインドへと巡礼に出かけている。インドへと赴いていつも思うことは、この国の信仰心の篤さだ。西インドのエローラ(ellora)石窟寺院で、数人の僧侶と法要を営んだときのことである。真夏のインドは外気は40度を超えることもあるが石窟寺院内は思いのほか涼しく、また石窟内の音響効果はすこぶる良く、私たちの下手な声明や読経も、たちどころに総本山さながらの臨場感あふれる大法要へと荘厳さを増すほどである。
 そこでそんな満足感にひたり後ろをふり返ると、そこには霊跡参拝をするインド人の巡礼団一行のひれ伏す姿があった。彼らは私たちの足を拝し、祝福の言葉を求めていたのである。日本の寺院社会でいえば、さしずめ私たちは本山の貫首さま並みの待遇を受けたのである。なにぶんVIP待遇の扱いは不慣れなことなので当惑してしまったが、彼らの目には異邦人であっても、巡礼する信仰者の姿は有り難く映っていたのである。インドでこれと同じよな経験を挙げれば、枚挙にいとまがないほどである。
 だがどうだろう、日本へと目を向けてみれば、信仰*1というヒトとしての崇高な「おこない」が、何か卑下されているように思うのは私だけだろうか。それこそ「ねえ?、あの人なにか信心しているんですって!」という感じに、信仰することが、とても怪しげなことをするかのように、ひそひそ声で語られるのである。
 このごろ私はそんな現代の日本人を見ていて、信仰という「おこない」がどういうことなのか分からなくなっていると感ずるのである。おそらく、それは信仰の専門家である僧侶たちも同じなのだろう。とにかく、宗教者ですら、信仰することが「論語読みの論語知らず」のように分からなくなっているのが、この日本社会の現状だと感ずるのである。
 現代人にとって信仰という「おこない」のイメージは、困ったときの神頼みというような何かにすがりつく感じで、神さまや仏さまを拝んでいれば、ご神仏の特別なお力によって経済的にも、健康的にも幸せになれるような感覚でいると思う。巷で人々を教導している(じつは布教しているのだが)宗教をみてみれば、それはそのような感覚で実際に「ご利益信心」を目玉にして勧誘しているのである。そこで口上を聞けば、曰く「あのお経より、この『法華経』に功徳があるから」という具合である。まさに、このお経を信じようが信じまいが、とにかくお題目を唱えて読経にはげめば、お金が儲かる?、病気までも治る?というご利益主義の感覚がそれである。
 このような形で宗教の布教と称する勧誘が横行しているために、それこそ「ねえ?、あの人なにか信心しているんですって!」と、信仰することがとても怪しげになっているのである。果たして、それが信仰という「おこない」、宗教的なことなのだろうかと考えさせられてしまう。
 ここに現代人の「こころ」の危機、魂の危機的な状況が見え隠れしていると筆者は感じている。日本人が自国の宗教文化を理解できなくなっているということは、もはや日本人が日本人でなくなっていることを意味するのではあるまいか。これから仏教という宗教を切り口にして、私たち日本人がどのような「こころ」の危機、魂の危機的な状況を迎えているか、意を深めてみたいと思う。

*1信仰:信じ尊ぶことで、宗教活動の意識的側面をいい、神聖なもの(絶対者・神を含む)に対する畏怖からよりは、親和の情から生ずると考えられ、儀礼と相俟って宗教の体系を構成し、集団性および共通性を有する。(『広辞苑』第5版)

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