瞑想のスピリッチュアルな感覚

瞑想行から日本人のスピリチュアルな感性を明らかにする

世界保険機構(WHO)の健康の定義について

2008-02-20 17:18:55 | 瞑想
 ところで、このような現代医学の基本的な概念を担っているのが、世界保健機構(The World Health Organization >WHO)の健康に対する定義である。じつはその定義を改定しようと、一九九八年から執行理事会の諮られているのである。
 まず世界保健機構の健康に対する定義(要約)を挙げておこう。これは理事会で諮られている定義である。
HELTH is not merely an absence of illness, it is a state of well being at physical, mental, social and spritual levels...........WHO
「健康とは、肉体に病気がないばかりでなく、肉体的に、精神的に、社会的に、そして、宗教的(霊的)にも健やかな状態である。 ....WHO」(一九九八年の執行理事会から諮られている健康の定義である)

 この定義を読み解いてみよう。まず健康であることの第一条件は「肉体に病気がないこと」だという。これは肉体的に種々の検査データに異常がないという機械的なことである。次に本人の自覚が基準になる。まず快食快便快眠など「肉体的に健やか」、さらに昇る旭や沈む夕陽などの自然の営みに感動できるなど「精神的にも健やか」、また人間関係も周囲の人たちの気持ちを察することができるなど「社会的にも健やか」な状態であると規定して、病気の前兆としての不定愁訴なども含めたこころの健康をも定義しているである。しかし、現状はといえば、さきのように身体の病気、身体の症状のみを診て、こころを診ようとしなかったといえる。(いまはこれが目的ではないので、これ以上追求しない。)
 ところで、この肉体に病気がない状態に加えて、「肉体的に健やか」、「精神的にも健やか」、「社会的にも健やか」という健康の定義だけでは、問題があることにお気づきの方はあるだろうか。そうこの定義は病気が治るということが前提になっているである。ターミナルケアの現場の患者は、最後には健康な状態ではなく(不健康で)死を迎えなければならなくなるということである。それこそどんなに頑強で健康なヒトであっても、生老病死のサイクルは必定で、必ず老いて病んで亡くなる亡くなる。するとそれは不健康になって死んで行くことを意味する。ここにヒトの死までをも健康的に受容するために、WHOは宗教的な感性に期待したのである。それが最後の宗教的(霊的)にも健やかな状態(spritual levels)の定義である。
 明治時代の寺社における養生医療でふれたように、以前には「医者が捨てたら坊主が拾う」という言葉が生きていたというが、それは医療の現場では不治の病であっても、僧侶が不治の患者さんを宗教的な感性で支えることで、その死が受容できれば健やかに旅立つことが出来るということである。ここに肉体に病気があって不健康であっても、宗教的な感性に支えられ自分自身が、この世に生を受けたという出自に対するしっかりとした自己認識ができていれば、宗教的に健やかであり、健康的に死期を迎えられるというのである。
 もう少し続けよう。この宗教的な健やかさとは、自身がどのような家族のもとに生を受けたかというような、その人の出自に関わるようなこと、生みの親を知らなければ、それはさきのターミナルケアばかりではなく、それに気づけなかれば、ヒトはゆくゆく自分が何に帰属するかが、分からないために、人生に節目節目に悩むのである。肉体に病気がなく、肉体的に、精神的、社会的にも健やかであっても、その人が出自に不安があれば、宗教的に健やかではないために、不健康ということになってしまうのである。この宗教的な健やかさ、自分自身の宗教的な健やかさが補償されれば、本能として備わっている宗教的な感性によって健やかに臨終を迎えられるということである。
 このような意味において、仏教であっても、神道であっても、キリスト教であっても、イスラム教であっても、インド教であっても、すべての宗教は種々の聖典を通じて、種々の修行法を通じて、宗教的な感性によって、自己自身の出自に対して自己認識を与え、宗教的な健やかさを与えてくれているのである。
 とくに日本では明治七年六月に「医療・服薬を妨害する禁厭・祈祷の取締」が実施され、寺社の養生医療による施薬や施療が禁止されるまでは、そこでは医療としては不治の病であったとしても、僧侶が不治の病人を宗教的な感性で支えるという全人的な医療が行われていたのである。いま現在WHOの理事会で諮っている「宗教的(霊的)にも健やかな状態(spritual levels)」健康の定義とは、まさに宗教的な癒し、全人的な医療のことなのである。

現代社会の医療状況へと思いをめぐらせると

2008-02-17 10:32:16 | 瞑想
 これまでを整理すると、日本では明治時代に養生医療から西洋の治療医学へと政治的な配慮で転換された。そして、その医学は病気を治すもの、病気そのものの治療を目的としていた。
 そこで、その時代に生きた庶民の衛生に関する動向を明らかにしてみよう。江戸時代といっても幕末のころの伝法院の過去帳をひもとけば、おおよそ死亡年齢の平均は男性が二八・七才、女性が二八・六才と、なんとも極端な数字がみえてくる。それは疫病による大量死である。そのころ海外との貿易は長崎、神戸、横浜などに限られていたが、そこへ入港する外国船からインフルエンザが上陸すれば、およそ一日五〇キロ、ヒトの歩く速さで日本全国へと蔓莚し、およそ一〇〇万人単位で死人がでたという。江戸市中でも少なくとも三〇万人以上が死に、浅草あたりの寺院では棺桶を運ぶ荷車による交通渋滞が何日も続いたという(須田圭三『飛騨O寺院過去帳の研究』1973年)。
 <明治になってもスペイン風邪による大量死をしらべる>
 さらに大正時代になっても、男性四二才、女性四一才が平均余命で、乳幼児の死亡率は全国平均でおおよそ一八パーセント、東北や北陸ではおおよそ三〇パーセントの死亡率であり、さらに生き残った子供も、疱瘡などの流行病で多く亡くなった事実がある(大正一〇年第一回国勢調査)。そのころの庶民にとって、今では祝節の行事となっている七五三などのお祝いは、その時代にあってはその年までは、生き延びてもらいたいという親のせつなる祈りだったのである。

 現在の国民衛生の動向をみれば、なんと平均余命は女性八二才、男性七六才という世界一の長寿国になっている。それを支えているのが世界でも有数の高水準を誇る日本の医療技術である。明治時代に医療制度が養生医療から西洋の治療医学へと改正されてから、わずか一五〇年間という異例の速さでの展開である。これによって私たち日本人の国民衛生は確実に向上している。
 しかし、ここにきて明治以降の治療医学の限界がみえたといわれる。確かに感染症をはじめとする多くの病気が撲滅され、乳幼児死亡率も<????>、と激減したために平均余命は男女共に世界一となっている。しかし、その内実は病気とは呼べない病気、心筋梗塞や脳卒中などの生活習慣病の引き金となるというメタボリック・シンドローム(内臓脂肪症候群)の予備軍が、四〇才から七四才の男性は半数以上、女性でも二割はいるというほど蔓延しつつある(朝日新聞二〇〇六・五月九日)。まあ現代人の多くが病気ではないが健康とはいえない状態にあるというのである。
 さらには、厚生労働省がきちんと定義までつけている「難病指定」の病気にいたっては、病名はつけられてはいるが原因がよくわかっていないために治療法すら確立していないのである。そして、このように治療法が確立していない病気に「最近めだって増えている病気」という条件をつければ、それはまさに現代病とも、文明病とも呼ばれる病気となる。
 たとえば、アトピー性皮膚炎、花粉症、気管支喘息などのアレルギー性疾患を挙げることできる。、このなかでとくに有名なのが季節性のアレルギー性鼻炎・結膜炎のアレルギーなどの花粉症がある。それは杉花粉が原因だ、いや車の排気ガスだなどなどハッキリしない。しかし、おおよそこのアレルギー性疾患の原因がハッキリわからないといっても、世界的にみても日本のような工業国に多く、また非工業国でも都市化したところに多く発症するために、その文明化によってライフスタイルが大きく変化したことが疑われているのである。
 さらに拒食症や過食症など摂食障害である。多くみられるのは「ヤセ願望」で禁欲的な食生活をつづけてゆくうちに、我慢できずに過食へと移行してゆくパターンである。それは現代社会の風潮がスリムな身体を賛美することによって誘発されことは間違いない。しかし、同じようにダイエットしてもこの病気になるヒトとならないヒトがあるということは、そこに心の問題が見え隠れしているということである。それは乳幼児期におけるお母さんとのスキンシップを介しての安心感の獲得にあるということはわかっている。
 また、摂食障害ほど有名ではないが、顎関節症といって口を開けたり噛んだりするとき、あごの関節の雑音などの不定愁訴にはじまり、痛み、やがて口が開けられなく病気がある。この病気は女性が男性の三倍、十代の後半から増えはじめ二〇代から三〇代の比較的若い層に多い。通常あごの関節や歯にかかる力は、そしゃくの筋肉によって最大限八〇キログラム範囲内(壊れない範囲)に制限されている。しかし、睡眠時などにストレスの影響で歯ぎしりなどをくり返すと、その範囲を数倍超える力がかかるためにその症状がおこる。
 そして、最後の極めつけとして全国で二〇〇〇万人が苦しむという過敏性腸症候群を挙げることができる。この病気は女性が男性の二倍前後といわれ、とくに知的な仕事に携わるヒトに多く、近年非常に増加している。腸に張りめぐらされた神経は、その精密さによって「リトル・ブレイン」と呼ばれるが、それどころか脳はこの神経が発達したものだという学説があるほど、腸は脳との関係でストレスの影響を受けやすい。こうしたストレス性の腸の病気は、検査を受けても異常が見つからないばかりか、ストレス性であるがために治療が難しいのである
 これらの病気は現代医学では難病や奇病として扱われ、受診できる医療施設は限られている。摂食障害の治療を専門に行っているある病院の外来では、常時四百人以上の患者を抱えていて、新規は患者は二年も待たされるという。顎関節症の専門医療機関も少なく、有名な施設には患者が殺到している。また、過敏性腸症候群では、病院で受診しても一応の検査をしても異常なしで処理され、患者の多くは途方に暮れているという。これらは近年急増してきた病気のめに、診療態勢が整っていないこともあるが、身体だけを診てこころを十分に診ようとしなかった医療の欠点が露呈しているといえる。また、病気の症状を診て患者を診てこなかったともいえる。
 とくにアレルギー性疾患の場合は、花粉症や気管支喘息では心因性という因子に大きな要因がある。現代社会の大きな変化は情報通信技術であり、その情報革命による外部変化に人間の内部環境(こころ)が影響を受けないはずがない。情報の受け手は神経系で、それはこころである。(三大奇病「アトピー・拒食症・顎関節症」宮田親平、『文藝春秋』二〇〇一・四所収 主旨引用)
 くり返しになるが、これは現代医学が病気の治療を目的とするあまり、身体の病気、身体の症状のみを診て、こころを診ようとしなかった結果である。極論すればどんなに体調不良であっても、検査によって病気が発見できなければ、医師は病気はないという。
 たとえば、私たちのごく普通の生活を思いうかべて欲しい、このところあまり体調がよくないと感じたとき、近隣の病院を受診するだろう。そこで”とても体調が悪いのです”と訴えても、医師が血液検査などのデータで異常が発見できなければ、その医師は”それは病気ではないですよ”っと、つれなく帰そうとするだろう。しかし、そこで”どうしても体調が悪いのです”と訴えれば、医師はここぞとばかりに”それは不定愁訴ですね”っと精神安定剤なりが処方されて一件落着となる。このように、私たちの体調不良の訴えは、それはあなたの気分の問題、不定愁訴というよくわからないこころの錯覚だとして、向精神薬などによって誤魔化されてきたのである。
 ところが、さきのような現代病の難病や奇病にいたっては、その向精神薬などによって誤魔化されたこころの造反、不定愁訴というこころの危険信号を無視してきた結果といえる。現代医学は体調不良と訴える原因を探してみたものの、データ的にわからなければ病気ではないと言いつづけ、体調不良を訴えている私という人間(こころ)を診ていなかったのである。

養生医療を禁じた「医療・服薬を妨害する禁厭・祈祷の取締」の弊害について

2008-02-05 16:30:35 | 宗教
 いま「止観病患境」にみる養生医療を要約したが、これによって加行所における加持祈祷などの癒しの実際が理解できたはずである。じつはこれらが寺社における施薬や施療などの医療行為の根幹であり、一般庶民が生死の現実を生き抜くためのシステムとして、信仰と医療とは共に支えあいながら機能していたことが見えてくるのである。そこでは「医者が捨てたら坊主が拾う」という言葉すらそこでは生きていたほどである。
 たとえ医療としては不治の病であったとしても、僧侶がその病者を宗教的な感性で支える全人的な医療が行われていたのである。現代人からみれば信仰と医療がいっしょくたになっているので、何とも迷信的な感じがするのは否めないが、実際にはこれこそが宗教的な癒し、全人的な医療であるといえる。
 たとえば、天平二年(七〇三)の光明皇后が創設したといわれる施薬院は、いったん中世になってに衰亡したが、豊臣秀吉が再興し、それを江戸幕府が受けつぐ形で明治まで続いた。とくに徳川吉宗の時代になると、江戸庶民に馴染みのある養生所と呼ばれる無料の公的な医療機関が町内につくられるようになる。また施薬院や養生所のように医療を目的とする施設ばかりではなく、ごく当たり前の寺社でも病気平癒の加持祈祷は行われており、祈祷と共に護符やお札守りの服用(本来はお札守りなどを身につけること)が勧められていたのである。そこでは貧しい病人たちへの施薬や施療などがおこなわれ、現代でいえば終末医療まで視座にいれた医療と介護が行われていたのである。
 ここで江戸時代の庶民と医療の現状についてふれておけば、町数は一六〇〇余、町人五〇万人強というからまさに江戸は大都市である。そして、その医療事情はといえば、医師は町人四、五〇〇人あたりに一人というから悪くはないが、実際には経済的に医師の診療を受けられる庶民はごく一部であったという。
 とくに一般庶民にいたっては、医療どころではなく食事の事情もきわめて悪く、たとえ大店の奉公人であっても、食事は日に二度の一汁一菜の食事があたりまえで、それに月に一度でもメザシなどの魚類がつけば上々だったのである。そのため庶民は慢性的な栄養失調で羅病率はかなり高く、奉公人が病気になれば納戸部屋へ追いやられ、さらに病床が長期になれば食事すらままならず、そのまま放置されて死を待つことになる。たとえ実家へと帰されたとしても、口減らしのために奉公へでた者の居場所はなく、やはり医療を受けられぬまま死を待つだけだったという。現代と比較すれば江戸庶民は想像を絶する四苦八苦を道を歩んでいたのである。
 時代は幕末から明治へと移ったといっても、庶民の諸事情は突如として改善されるわけはない。明治新政府はこのような世情の中で、寺社で行われていた医療や加持祈祷は幕藩体制を支えた敵対文化として、一方的に西洋の治療医学へと塗り替えていったのである。さきの「医療・服薬を妨害する禁厭・祈祷の取締」が実施され、庶民の癒しを引き受けていた寺社の施薬・施療が禁止されたばかりではなく、そこでは漢方医学を始め針・灸・按摩にいたるまで養生医療のすべてが禁止されたのである。
 この明治政府が採用した西洋の治療医学は、科学の知に基づく医師の資格をもつ専門家の治療集団によって実施され、病気の治療のみを目的とするようになったということである。そこではそれまでの多元的な養生医療は否定され、医療の現場から寺社における加持祈祷や護符などによる癒しの実際は迷信として排斥されたということである。これが何を意味するかといえば、そこでは不治の病に冒された弱者を癒す手だてが失われ、医療の視座が不治の病人から治療可能な生者へと移ったこということである。
 このように養生医療では共有されていた信仰と医療が明確に分離されたことで、日本人はこの時点からきわめて徐々にではあるが、宗教的な感性を喪失する運命を背負うことになった。さきに現代人にとって信仰という「おこない」のイメージは、困ったときの神頼みというような、何かにすがりつく感じで神さまや仏さまを拝んでいれば、ご神仏の特別なお力によって経済的、健康的に幸せになれる感覚だといったが、これはこの運命のことをいったのである。一四〇年の歳月をかけて日本人は現在のように姿になったのである。
 医療が西洋の治療医学へと塗りかえられることで、それまでの日本人が営んでいた生老病死のはざまで生きる庶民の現実を支えてきた寺社の癒しが失われた。それは治療医学によって、信仰の世界から「生老と死のサイクル」をつなぐ「病」が突如としてもぎ取られたことで、生死も死もすべて観念化されたことを意味する。生老病死という四苦の現実は、生老の生きている過程と死の結果とが、「病苦」によってつながっているからである。
 この事実は現代の医療現場が如実に物語っている。たとえば、私たちは日常の家庭生活は、当たり前のように家族そろって「生老」のふるまいのままに暮らしている。そして、もしその家族の中で誰かが重篤な病にたおれれば、それはそのまま病院へと運ばれて家庭の中から「病」は隔離されて見えなくなる。そこで、もしその病が不治であれば、そのまま病院で死を迎えることになる。実際に現代人はその九十パーセントあまりが病院で死を迎えている。さらに病院で臨終を看取られた病人は骸となってはじめて家族のもとへと帰るが、それは家族にとっては「病」の結果であって、とくに子供たちは家庭生活の中で病苦の現実をかいま見ることなく、観念的な病苦を通じて「死」と遭遇するだけであり、病苦に続く死苦の実際については何にも伝わらなくなっているのである。
 このように寺社における宗教的な「おこない」と医療が明確に分離されたことで、日本人はそれまで培ってきた生老病死の四苦のサイクルが断ち切られ、宗教的な感性を喪失してしまったのである。そのために、現代の多くの宗教が「ご利益信心」を目玉にして勧誘し、その口上を聞けば、曰く「あのお経より、この『法華経』に功徳があるから」という具合になってしまい、それこそ「ねえ?、あの人なにか信心しているんですって!」という具合に、その信仰のあり方に違和感を抱いていても、何とも宗教的なことが釈然としないのである。
 しかし、いま西洋の治療医学が病気の治療のみを目的とするといったが、それは明治政府が敵対文化であった幕藩体制を崩壊させるために行った施策であって、治療医学そのもの問題ではない。事実、キリスト教文化圏の病院には、チャプレンと呼ばれる牧師が常駐しており、患者の要請に応じて応じて、病気平癒の祈祷などをしている。とくに欧州では信仰治療などを含む代替医療や、司祭や牧師のヒーラーによる病気平癒の祈りにも保健が利用できるようになっているという。この辺りのことは、日本ではかなり遅れているのである。

葬式仏教以前の僧侶や寺院は何をしていたか

2008-01-22 16:44:11 | 宗教
 いま一般的に執り行われている仏式の葬儀法要がわずか一四〇年ほど前といったが、それ以前の僧侶が何をしていたのか、寺院はどのように社会的に機能していたのだろうかと、素朴な疑問がのこる。さきに戸籍法制定のところでふれたように、それまでは江戸幕府の三奉行の一つで、寺社奉行の監督下で宗門人別帳(村の宗門改め帳簿、後の人別帳)・寺請制度(キリシタン信徒ではない証明)という公的な職務を担っていたことなどは分かる。
 またこの明治政府の法改正で興味深いことは、寺社における医薬の販売(施薬)、医療行為(施療)を禁じるために、明治七年六月に「医療・服薬を妨害する禁厭(まじない)・祈祷(おはらい)の取締」を実施したことである。明治政府は維新直後の廃仏毀釈に加えて、幕藩体制を支えた仏教と一緒に養生医療(和漢方など医療)を払拭するため、治療医学としての西洋医学を導入採用したのである。
 それまでの世間の人びとといえば、往々病気になれば漢方医を受診して漢方薬などを施薬されていたように思いがちであるが、実際には病気なれば寺社へと詣でては、養生医療を受診し護符をもらい、加持祈祷をして病気の回復を祈願していたのが現状だった。しかし、このような寺社における施薬や施療など養生医療の行為は、さきの幕藩体制と同様に敵対文化として弾圧され、さらに西洋医学者によって「陰陽五行説に基づいた疾病観や祈祷は迷信で愚者の行為である」と退けられながら、一方的に西洋の治療医学へと塗り替えられてしまったのである。
 ここでこの流れの実際を日蓮門下に流布していた祈祷修法(病気平癒の加持祈祷と護符などの施薬を行う作法のこと)の歴史から眺めてみよう。まず江戸初期には積善房の身延流(山梨県南巨摩郡)と遠壽院・智泉院の中山流(千葉県市川市)の二大門流を形成していたが、これらの内で積善房と智泉院の門流は、幕末から明治時代にかけて吹き荒れた廃仏毀釈によって廃絶されている。この廃絶の決め手になるのが、さきの明治七年の取締である。
 その吹き荒れた嵐の中にあって、辛うじて法灯を存続できたのは中山門流の遠壽院流のみであった。その理由は当時遠壽院(遠壽院加行所)の住職伝師であった朝田日光師が、遠壽院流の祈祷相伝である毒消しの護符(秘妙符)を服用して「毒薬を飲んでも死にいたらなかった」からだという。何とも無謀な話ではあるが、これによって千葉県知事の医薬品扱い許可の鑑札を賜り廃絶いたらなかったと伝わっている。荒唐無稽のような話であるが、毒薬を飲んだ話の真贋は別にして、その当時は医薬品扱い許可の鑑札がなければ、寺社などの施薬や施療といった医療行為が厳重に禁止されていたということである。
 ところで、このような養生医療の中で、僧侶や寺院が担ってきた癒しの実際はどのようなものだったのか。とくに明治七年の取締が実施されててから以降、日蓮門下の祈祷相伝を一手に担うことになる遠壽院が明治三年六月に発した「祈祷改正規則之掟」には、面白い文言が見え隠れしているので、これを挙げよう。
 この改正規則によれば、明治維新後に寺社で行われていた施薬や施療などの医療行為の扱いをどうしたものか、苦渋の選択を迫られていることが見てとれる。規則の文言は、まず祈祷相承の権威性については伝師(相伝の師)に対する制誡厳重を誓わせながら、業病や狂気というから現代でいえば原因不明の奇病や精神病などに対する平癒の加持祈祷を依頼された場合には、「遠壽院住職伝師の指示を仰ぎ勝手に執行してはならない」という注意書きがみえる。
 しかし、実際には勝手に加持祈祷が行われたようで、この改正規則には別記が追加され、加持祈祷の修練で遠壽院行堂へと入行を志す者は「総じて一ヶ寺の住職であること、また権中講義以上の僧階で、僧侶になってから(法臈)二〇年以上経ている者にかぎり試験の上」と入行者の規定が厳しく改められている。
 さらにこの改正規則には「止観病患境により修学し、怠慢なく苦修練行によって色心清浄にすべきこと」という興味深い一項が挙げられている。そして、その「止観病患境依修学無怠慢」には、わざわざ朱墨の傍線がうたれている。これによって何がわかるかといえば、遠壽院加行所における一百日間の苦修練行が「止観病患境」に則って行われていたという事実である。
 一般的に加行所(加行[prayoga]とは、ある一定期間の修行こと、ここでは修行道場をいう)で切磋琢磨される修行のようすは祈祷相承などの相伝ごとであり、門外不出で世間の目にふれることはまずない。そこで「止観病患境により修学し」とあるから興味深いのである。まずこの「止観病患境」が何かといえば、文献的には中国六世紀に天台大師智によって撰述された『摩訶止観』という修行の指南書、その第七章「修正止観」第三節「観病患境」のことで、とくにその時代の養生医療である和漢方とも密接に関わるものである。加行所ではこのような養生医療の病因論に従いながら苦修練行が実施され、加持祈祷などの癒しの実際が相伝されていたということは大変に興味深い事実である。これによって葬式仏教以前の僧侶や寺院が果たしていた役割として、その時代の養生医療の一翼を担っていたことが見えてくるからである。

現代の葬式仏教について

2008-01-16 15:00:13 | 宗教
○現代の葬式仏教について
 このように信仰について考えはじめると、現代の仏教界が世間から葬式仏教と揶揄されていても、ご本人たちはどこ吹く風とばかりに意に介さない様は、それでも信仰者の「おこない」なのかと考えさせられるのは私だけではないだろう。世間の方々が抱くこの種の違和感について、著名な高僧がどのように弁明しても分が悪く、その風評は檀家制度の上にあぐらをかき、葬儀費用が高い、高額のを度々要求される、説教・法話ができない等云々と、はたまた釈迦・宗祖・開祖方は命がけで仏法の真理を弘められたのはいったい何だったのか?、宗祖・開祖の名をかたり自らの生活の安定を図るための手段であってよいのだろうか等々、それはもう挙げはじめたら切りがないほどである。
 仏教はお釈迦さまの時代から現在にいたるまで、またインドでも中国でも日本でも、全て生きているヒトのために教えが説かれ、死を目前にしたヒトに経典を読む「臨終勤行」の作法はあるとしても、死者のために読むお経などは存在しない。追善供養も「相手を敬い尊敬する行為」に転じていくための手段だったのである。
 たしかに仏教教団は葬儀と無関係でなかったが、ただそれは単に「死者の冥福を祈るだけの葬儀」というわけではなかった。日常的には自分と無縁であると思っていた死が、身近に起こったために、ヒトは「死という厳然たる事実」をしっかりと見つめることになる。そこで仏教本来のメインテーマである「生老病死」の四苦や八苦の事実が、ようやく自分自身に意識化されて恐れおののくことになる。
 この現実苦から目を背けずに、克服すべき道を切り開き、死を受け入れたとき、死を抱えて生きることが出来るようになる。こうした生き方に気づく絶好のチャンスとして葬儀を執り行われるわけであり、じつに葬式法要も生きている人々のための儀式ということなのである。このような仏教のあり方を知ってか知らないが(それこそこちらも関知しないが)、現代の仏教を葬式仏教といってはばからない僧侶は多い。後学のためにひと言つけ加えておけば、現代のように僧侶が葬儀を積極的に行うようになったのは、わずか一四〇年ほど前のことである。
 ちょうど明治新政府によって宗教弾圧が行われていた頃である。ご存じのように、明治維新とは将軍徳川慶喜の大政奉還(慶応三年十月、一八六七年)から明治天皇の王政復古宣言(同年一二月)、江戸幕府の倒壊(慶応四年)を経て、明治新政府の成立にいたる一連の過程である。
 この明治維新の目的はといえば、江戸幕府が築いた幕藩体制の打倒であった。幕藩体制は、各藩の経済基盤である領地によって維持され、民衆は現代の戸籍法にあたる寺請制度によって管理されていたのである。明治新政府は、幕藩体制の要にある仏教を排斥するため、慶応四年三月十三日(一八六八年)に祭政一致・神祇官再興(天皇・宗教による国家政治)を布告し、同二十八日には神仏分離令(神仏習合を廃止)を発布したのである。
 とくに明治四年一月五日(一八七一年)に発布された社寺領上地令によって、僧侶たちは新政府の意向に従わなければ経済的な基盤が奪われるという危機的な状況に直面していた。その最中、仏教界にとっては致命的となる戸籍法が同年四月四日に制定され、続いて宗門人別帳、寺請制度が相次いで廃止された。今様にいえばそれまで寺請制度に組み込まれ官営であった寺院が急きょ民営化され、仏教界は大混乱となったのである。
 さらに(詳細は後述するが)これに追い打ちをかけるように、明治政府は幕藩体制に貢献した養生医療(じつは仏教そのもののことなのだが)を払拭するため、治療医学(西洋医学)を導入して寺社における加持祈祷まで禁止してしまったのである。これによって仏教界は大きく衰退してしまうことになる。しかし、そこに僧侶にとって一つの救いがもたらされる。戸籍法制定のあと明治五年六月に太政官が、自葬を禁止し、必ず神官・僧侶に依頼するよう布告したからである。
 その理由は簡単で、戸籍を削除するためにきちんと葬儀法要を営みなさいと言うのである。これ以降は僧侶による葬儀法要が一般化して、これ以降寺院社会の経済基盤は、葬儀法要の施収入に大きく依存するようになるのである。
 私のところのお檀家さんが「御前さん、わが家の何代か前の先祖がこれを奉納したのですよね」と言っても、一般の家庭では過去帳を遡っても、せいぜい明治初めの戒名が見つかる程度で、それ以上遡っても戒名は見あたらない。まさに仏式に則り戒名をつけて執りおこなわれる葬儀が一般化したのがその頃だからである。
 まあ、戒名が見あたらないといっても、ご先祖さまがないというのではなく、ただその当時と葬儀のあり方が違うだけである。それ以前はどのような葬儀が執りおこなわれていたかといえば、まさに楢山節孝にみた世界そのものである。死体は「人捨て場」に放置され、化野といって限りなく風葬・鳥葬に近い土葬であったという。江戸時代の農民町民、武家階級でも下級武士たちは、まさにはかなし墓なしで、地方では村外れの埋葬塚に、町中では寺院の無縁塚などに化野され、そこで塔婆の一本でも立て僧侶の読経でも供養されれば大変丁寧な葬儀だった。ようは現代人が思うほどその時代の庶民も僧侶も葬儀法要をそれほど重く受け止めていなかったということである(鈴木理生『江戸の町は骨だらけ』
ちくま学術文庫)。

インド人と日本人の信仰心

2008-01-10 14:18:21 | 瞑想
 この10数年、毎年といっていいほどインドへと巡礼に出かけている。インドへと赴いていつも思うことは、この国の信仰心の篤さだ。西インドのエローラ(ellora)石窟寺院で、数人の僧侶と法要を営んだときのことである。真夏のインドは外気は40度を超えることもあるが石窟寺院内は思いのほか涼しく、また石窟内の音響効果はすこぶる良く、私たちの下手な声明や読経も、たちどころに総本山さながらの臨場感あふれる大法要へと荘厳さを増すほどである。
 そこでそんな満足感にひたり後ろをふり返ると、そこには霊跡参拝をするインド人の巡礼団一行のひれ伏す姿があった。彼らは私たちの足を拝し、祝福の言葉を求めていたのである。日本の寺院社会でいえば、さしずめ私たちは本山の貫首さま並みの待遇を受けたのである。なにぶんVIP待遇の扱いは不慣れなことなので当惑してしまったが、彼らの目には異邦人であっても、巡礼する信仰者の姿は有り難く映っていたのである。インドでこれと同じよな経験を挙げれば、枚挙にいとまがないほどである。
 だがどうだろう、日本へと目を向けてみれば、信仰*1というヒトとしての崇高な「おこない」が、何か卑下されているように思うのは私だけだろうか。それこそ「ねえ?、あの人なにか信心しているんですって!」という感じに、信仰することが、とても怪しげなことをするかのように、ひそひそ声で語られるのである。
 このごろ私はそんな現代の日本人を見ていて、信仰という「おこない」がどういうことなのか分からなくなっていると感ずるのである。おそらく、それは信仰の専門家である僧侶たちも同じなのだろう。とにかく、宗教者ですら、信仰することが「論語読みの論語知らず」のように分からなくなっているのが、この日本社会の現状だと感ずるのである。
 現代人にとって信仰という「おこない」のイメージは、困ったときの神頼みというような何かにすがりつく感じで、神さまや仏さまを拝んでいれば、ご神仏の特別なお力によって経済的にも、健康的にも幸せになれるような感覚でいると思う。巷で人々を教導している(じつは布教しているのだが)宗教をみてみれば、それはそのような感覚で実際に「ご利益信心」を目玉にして勧誘しているのである。そこで口上を聞けば、曰く「あのお経より、この『法華経』に功徳があるから」という具合である。まさに、このお経を信じようが信じまいが、とにかくお題目を唱えて読経にはげめば、お金が儲かる?、病気までも治る?というご利益主義の感覚がそれである。
 このような形で宗教の布教と称する勧誘が横行しているために、それこそ「ねえ?、あの人なにか信心しているんですって!」と、信仰することがとても怪しげになっているのである。果たして、それが信仰という「おこない」、宗教的なことなのだろうかと考えさせられてしまう。
 ここに現代人の「こころ」の危機、魂の危機的な状況が見え隠れしていると筆者は感じている。日本人が自国の宗教文化を理解できなくなっているということは、もはや日本人が日本人でなくなっていることを意味するのではあるまいか。これから仏教という宗教を切り口にして、私たち日本人がどのような「こころ」の危機、魂の危機的な状況を迎えているか、意を深めてみたいと思う。

*1信仰:信じ尊ぶことで、宗教活動の意識的側面をいい、神聖なもの(絶対者・神を含む)に対する畏怖からよりは、親和の情から生ずると考えられ、儀礼と相俟って宗教の体系を構成し、集団性および共通性を有する。(『広辞苑』第5版)

初めまして、瞑想やヨーガなど伝統的な技法などを公開します

2008-01-08 14:43:44 | 瞑想
初めまして、このブログは日蓮門下唯一無二の修行の場である遠壽院行堂(千葉県市川市中山)から投稿です。

遠壽院行堂は昨年11月1日開堂して本年2月10日までの100日間、その内の12月5日までの35日間が不眠不休の読経三昧の日課で行われてます。私はそこで指導をする副伝師をしています。

基本的な日課をお話しておけば、3時間おきに1日7回の水行(水をかぶる)、就寝は夜11時の最後の水行をすまして、布団の中へZzZzZz途端にグッスリ、朝は2時30分ころ起床、3時の水行、4時から5時まで朝勤、朝夕の5時30分ころ赴粥(お粥の一汁一菜)、6時の水行、その後9時、12時、3時、6時水行、水行の間は読経三昧に明け暮れる。

食事は1日2度ほどでおおよそ1000キロカロリー、着物は木綿の白衣と清浄衣という麻の衣一枚、生活空間に暖房器具はありません。

過酷な35日間は読経三昧、食事は少なく、睡眠少なし、当然のように頭はからっぽです。ハタ目には大変そうですが、まあ実際に大変のですが、ある時点から、ランナーズハイのように、辛い気分が、座りだこがつぶれて痛いはずの足も、痛いながらに感覚が遮断されて、いい感じになる??

まさにヨーガな生活になってます。辛いという身体的な感覚は、外からの感覚ですが、読経して、瞑想して、水行している内に、意識は外側と遮断されて、内側の何かとつながって、何とも言いようのない感覚になる。心理学的には大洋感覚といいますかね。

脳内的にはβエンドルフィンあたりがドッとでて、快感神経をくすぐっているのでしょう。宗教的なことは必ず身体を頼りにしながら、身体を超えてゆくヨーガです。

副伝師として修行の指導しているボクですら、朝3時の水行をしていますが、伝師部部屋も暖房なしで、苦行を受け入れる気分さえあれば、脳内ホルモンがドッと出て、いい感じになりますね。「こころ」がゆっくりと動いている。

新年を迎えても、行僧のヨーガな生活は毎日が新しいことばかりで、新鮮な感覚で過ごすことが出来ます。こういう伝統的な修行の場は、日本ではほとんどない状態、建物はあっても伝承が途絶えている。

そういう瞑想の感覚、スピリチュアルな感覚で世間の宗教的なことを眺めると、現在はやっているヨーガなども含めて、ボクには一つの疑問がある。

なぜ現代人は宗教的な感性に気づかないのかとね。僧侶も同じだ。こう言いのけてしまうと、お前だけが宗教的なことを知っているというのか!!ッとばかりにお叱りを受けそうだ。

しかし、あまりにも宗教的に無知なことばかりが目にとまるのである。修行の場にある僧侶ですら、何時間の読経??と読経の時間の長さ宗教的なステージの高さに通じると思う、粗食という、寒いという逆境に耐えることが修行であり、自身のステージの高さにつながるというように?である。

そういう宗教的なステージは瞑想の深さ、体験的な目盛りのことなんですね、おおよそ、いま流行している仏教瞑想も、ヨーガ瞑想も、ほとんどがこういうことに気がついてない?

まあ、理屈はぬきにして、サットバの時間帯である早朝の4時ころから8時ころの間に瞑想することです。これが伝統的な瞑想技術です。正統性は伝統ですから。 

8日の今朝3時の水行時の気温は6℃、三箇日が2℃弱ですから、新年になってから一番暖かい朝でした。不思議ですね、ヒトの身体は1、2℃の変化がハッキリ分かります。寒いときは、1℃、いや0.5℃違ってもその温かさが感じられるものですね。

さて今朝がた7時ころに表堂へとお経に行きました、入行以来法華経1日一巻を読むようにしていますので、8日間で一部を読む計算ですね。およそ小一時間読経三昧で、いつもは寒いので内引き用のブランケット、アルパカの毛布を使うのですが今日は暖かで、ふようなくらいでした。

いつものように、読経三昧からもどって回向をはじめたら、なんと大猫が、ボス猫のような人相の悪いヤツが、こっちを見てました。目が合ったら、プイッと横向いて出て行ってしまった。

しばらくして、そいつがまた歩いてましたが、目が合うとプイッと横向いて、しまう。さっきボクの法華経の読経を聞いていた猫め!、と思っていたら、随分と昔聞いた説話を思い出した。

この猫、来世に人に生まれ変わるぞ?ッと変かことを思いだした。『今鏡』の昔語に、ある坊さんがお経を読むと、ヨダレが出るって?困って、祈願をかけたら夢を見た、「牛が車を引いて、その車には『法華経』一部が積んである。あるお寺の前で止まる、牛は門前につながれて、夏の暑い日、尾がハエを追いながら、口の周りにはヨダレがいっぱい、ハエがとまったりする。

するとお寺から法華経読誦の声が聞こえる、牛はヨダレをたらしながらそれを聞いている」、そこで僧侶は気づいた、私は前世では牛だった、法華経を聞いて、その功徳で人に生まれ変わったたと。

まあ変なこと言いましたが、ボクのお経を聞いていた、どら猫君、来世ではヒトに生まれ変わるかもね、こういう感覚になることが宗教心であったり、スピリッチュアルな感覚なんですね、不思議にそういう感覚になれるのが、修行の場ですね。