瞑想のスピリッチュアルな感覚

瞑想行から日本人のスピリチュアルな感性を明らかにする

葬式仏教以前の僧侶や寺院は何をしていたか

2008-01-22 16:44:11 | 宗教
 いま一般的に執り行われている仏式の葬儀法要がわずか一四〇年ほど前といったが、それ以前の僧侶が何をしていたのか、寺院はどのように社会的に機能していたのだろうかと、素朴な疑問がのこる。さきに戸籍法制定のところでふれたように、それまでは江戸幕府の三奉行の一つで、寺社奉行の監督下で宗門人別帳(村の宗門改め帳簿、後の人別帳)・寺請制度(キリシタン信徒ではない証明)という公的な職務を担っていたことなどは分かる。
 またこの明治政府の法改正で興味深いことは、寺社における医薬の販売(施薬)、医療行為(施療)を禁じるために、明治七年六月に「医療・服薬を妨害する禁厭(まじない)・祈祷(おはらい)の取締」を実施したことである。明治政府は維新直後の廃仏毀釈に加えて、幕藩体制を支えた仏教と一緒に養生医療(和漢方など医療)を払拭するため、治療医学としての西洋医学を導入採用したのである。
 それまでの世間の人びとといえば、往々病気になれば漢方医を受診して漢方薬などを施薬されていたように思いがちであるが、実際には病気なれば寺社へと詣でては、養生医療を受診し護符をもらい、加持祈祷をして病気の回復を祈願していたのが現状だった。しかし、このような寺社における施薬や施療など養生医療の行為は、さきの幕藩体制と同様に敵対文化として弾圧され、さらに西洋医学者によって「陰陽五行説に基づいた疾病観や祈祷は迷信で愚者の行為である」と退けられながら、一方的に西洋の治療医学へと塗り替えられてしまったのである。
 ここでこの流れの実際を日蓮門下に流布していた祈祷修法(病気平癒の加持祈祷と護符などの施薬を行う作法のこと)の歴史から眺めてみよう。まず江戸初期には積善房の身延流(山梨県南巨摩郡)と遠壽院・智泉院の中山流(千葉県市川市)の二大門流を形成していたが、これらの内で積善房と智泉院の門流は、幕末から明治時代にかけて吹き荒れた廃仏毀釈によって廃絶されている。この廃絶の決め手になるのが、さきの明治七年の取締である。
 その吹き荒れた嵐の中にあって、辛うじて法灯を存続できたのは中山門流の遠壽院流のみであった。その理由は当時遠壽院(遠壽院加行所)の住職伝師であった朝田日光師が、遠壽院流の祈祷相伝である毒消しの護符(秘妙符)を服用して「毒薬を飲んでも死にいたらなかった」からだという。何とも無謀な話ではあるが、これによって千葉県知事の医薬品扱い許可の鑑札を賜り廃絶いたらなかったと伝わっている。荒唐無稽のような話であるが、毒薬を飲んだ話の真贋は別にして、その当時は医薬品扱い許可の鑑札がなければ、寺社などの施薬や施療といった医療行為が厳重に禁止されていたということである。
 ところで、このような養生医療の中で、僧侶や寺院が担ってきた癒しの実際はどのようなものだったのか。とくに明治七年の取締が実施されててから以降、日蓮門下の祈祷相伝を一手に担うことになる遠壽院が明治三年六月に発した「祈祷改正規則之掟」には、面白い文言が見え隠れしているので、これを挙げよう。
 この改正規則によれば、明治維新後に寺社で行われていた施薬や施療などの医療行為の扱いをどうしたものか、苦渋の選択を迫られていることが見てとれる。規則の文言は、まず祈祷相承の権威性については伝師(相伝の師)に対する制誡厳重を誓わせながら、業病や狂気というから現代でいえば原因不明の奇病や精神病などに対する平癒の加持祈祷を依頼された場合には、「遠壽院住職伝師の指示を仰ぎ勝手に執行してはならない」という注意書きがみえる。
 しかし、実際には勝手に加持祈祷が行われたようで、この改正規則には別記が追加され、加持祈祷の修練で遠壽院行堂へと入行を志す者は「総じて一ヶ寺の住職であること、また権中講義以上の僧階で、僧侶になってから(法臈)二〇年以上経ている者にかぎり試験の上」と入行者の規定が厳しく改められている。
 さらにこの改正規則には「止観病患境により修学し、怠慢なく苦修練行によって色心清浄にすべきこと」という興味深い一項が挙げられている。そして、その「止観病患境依修学無怠慢」には、わざわざ朱墨の傍線がうたれている。これによって何がわかるかといえば、遠壽院加行所における一百日間の苦修練行が「止観病患境」に則って行われていたという事実である。
 一般的に加行所(加行[prayoga]とは、ある一定期間の修行こと、ここでは修行道場をいう)で切磋琢磨される修行のようすは祈祷相承などの相伝ごとであり、門外不出で世間の目にふれることはまずない。そこで「止観病患境により修学し」とあるから興味深いのである。まずこの「止観病患境」が何かといえば、文献的には中国六世紀に天台大師智によって撰述された『摩訶止観』という修行の指南書、その第七章「修正止観」第三節「観病患境」のことで、とくにその時代の養生医療である和漢方とも密接に関わるものである。加行所ではこのような養生医療の病因論に従いながら苦修練行が実施され、加持祈祷などの癒しの実際が相伝されていたということは大変に興味深い事実である。これによって葬式仏教以前の僧侶や寺院が果たしていた役割として、その時代の養生医療の一翼を担っていたことが見えてくるからである。

現代の葬式仏教について

2008-01-16 15:00:13 | 宗教
○現代の葬式仏教について
 このように信仰について考えはじめると、現代の仏教界が世間から葬式仏教と揶揄されていても、ご本人たちはどこ吹く風とばかりに意に介さない様は、それでも信仰者の「おこない」なのかと考えさせられるのは私だけではないだろう。世間の方々が抱くこの種の違和感について、著名な高僧がどのように弁明しても分が悪く、その風評は檀家制度の上にあぐらをかき、葬儀費用が高い、高額のを度々要求される、説教・法話ができない等云々と、はたまた釈迦・宗祖・開祖方は命がけで仏法の真理を弘められたのはいったい何だったのか?、宗祖・開祖の名をかたり自らの生活の安定を図るための手段であってよいのだろうか等々、それはもう挙げはじめたら切りがないほどである。
 仏教はお釈迦さまの時代から現在にいたるまで、またインドでも中国でも日本でも、全て生きているヒトのために教えが説かれ、死を目前にしたヒトに経典を読む「臨終勤行」の作法はあるとしても、死者のために読むお経などは存在しない。追善供養も「相手を敬い尊敬する行為」に転じていくための手段だったのである。
 たしかに仏教教団は葬儀と無関係でなかったが、ただそれは単に「死者の冥福を祈るだけの葬儀」というわけではなかった。日常的には自分と無縁であると思っていた死が、身近に起こったために、ヒトは「死という厳然たる事実」をしっかりと見つめることになる。そこで仏教本来のメインテーマである「生老病死」の四苦や八苦の事実が、ようやく自分自身に意識化されて恐れおののくことになる。
 この現実苦から目を背けずに、克服すべき道を切り開き、死を受け入れたとき、死を抱えて生きることが出来るようになる。こうした生き方に気づく絶好のチャンスとして葬儀を執り行われるわけであり、じつに葬式法要も生きている人々のための儀式ということなのである。このような仏教のあり方を知ってか知らないが(それこそこちらも関知しないが)、現代の仏教を葬式仏教といってはばからない僧侶は多い。後学のためにひと言つけ加えておけば、現代のように僧侶が葬儀を積極的に行うようになったのは、わずか一四〇年ほど前のことである。
 ちょうど明治新政府によって宗教弾圧が行われていた頃である。ご存じのように、明治維新とは将軍徳川慶喜の大政奉還(慶応三年十月、一八六七年)から明治天皇の王政復古宣言(同年一二月)、江戸幕府の倒壊(慶応四年)を経て、明治新政府の成立にいたる一連の過程である。
 この明治維新の目的はといえば、江戸幕府が築いた幕藩体制の打倒であった。幕藩体制は、各藩の経済基盤である領地によって維持され、民衆は現代の戸籍法にあたる寺請制度によって管理されていたのである。明治新政府は、幕藩体制の要にある仏教を排斥するため、慶応四年三月十三日(一八六八年)に祭政一致・神祇官再興(天皇・宗教による国家政治)を布告し、同二十八日には神仏分離令(神仏習合を廃止)を発布したのである。
 とくに明治四年一月五日(一八七一年)に発布された社寺領上地令によって、僧侶たちは新政府の意向に従わなければ経済的な基盤が奪われるという危機的な状況に直面していた。その最中、仏教界にとっては致命的となる戸籍法が同年四月四日に制定され、続いて宗門人別帳、寺請制度が相次いで廃止された。今様にいえばそれまで寺請制度に組み込まれ官営であった寺院が急きょ民営化され、仏教界は大混乱となったのである。
 さらに(詳細は後述するが)これに追い打ちをかけるように、明治政府は幕藩体制に貢献した養生医療(じつは仏教そのもののことなのだが)を払拭するため、治療医学(西洋医学)を導入して寺社における加持祈祷まで禁止してしまったのである。これによって仏教界は大きく衰退してしまうことになる。しかし、そこに僧侶にとって一つの救いがもたらされる。戸籍法制定のあと明治五年六月に太政官が、自葬を禁止し、必ず神官・僧侶に依頼するよう布告したからである。
 その理由は簡単で、戸籍を削除するためにきちんと葬儀法要を営みなさいと言うのである。これ以降は僧侶による葬儀法要が一般化して、これ以降寺院社会の経済基盤は、葬儀法要の施収入に大きく依存するようになるのである。
 私のところのお檀家さんが「御前さん、わが家の何代か前の先祖がこれを奉納したのですよね」と言っても、一般の家庭では過去帳を遡っても、せいぜい明治初めの戒名が見つかる程度で、それ以上遡っても戒名は見あたらない。まさに仏式に則り戒名をつけて執りおこなわれる葬儀が一般化したのがその頃だからである。
 まあ、戒名が見あたらないといっても、ご先祖さまがないというのではなく、ただその当時と葬儀のあり方が違うだけである。それ以前はどのような葬儀が執りおこなわれていたかといえば、まさに楢山節孝にみた世界そのものである。死体は「人捨て場」に放置され、化野といって限りなく風葬・鳥葬に近い土葬であったという。江戸時代の農民町民、武家階級でも下級武士たちは、まさにはかなし墓なしで、地方では村外れの埋葬塚に、町中では寺院の無縁塚などに化野され、そこで塔婆の一本でも立て僧侶の読経でも供養されれば大変丁寧な葬儀だった。ようは現代人が思うほどその時代の庶民も僧侶も葬儀法要をそれほど重く受け止めていなかったということである(鈴木理生『江戸の町は骨だらけ』
ちくま学術文庫)。

インド人と日本人の信仰心

2008-01-10 14:18:21 | 瞑想
 この10数年、毎年といっていいほどインドへと巡礼に出かけている。インドへと赴いていつも思うことは、この国の信仰心の篤さだ。西インドのエローラ(ellora)石窟寺院で、数人の僧侶と法要を営んだときのことである。真夏のインドは外気は40度を超えることもあるが石窟寺院内は思いのほか涼しく、また石窟内の音響効果はすこぶる良く、私たちの下手な声明や読経も、たちどころに総本山さながらの臨場感あふれる大法要へと荘厳さを増すほどである。
 そこでそんな満足感にひたり後ろをふり返ると、そこには霊跡参拝をするインド人の巡礼団一行のひれ伏す姿があった。彼らは私たちの足を拝し、祝福の言葉を求めていたのである。日本の寺院社会でいえば、さしずめ私たちは本山の貫首さま並みの待遇を受けたのである。なにぶんVIP待遇の扱いは不慣れなことなので当惑してしまったが、彼らの目には異邦人であっても、巡礼する信仰者の姿は有り難く映っていたのである。インドでこれと同じよな経験を挙げれば、枚挙にいとまがないほどである。
 だがどうだろう、日本へと目を向けてみれば、信仰*1というヒトとしての崇高な「おこない」が、何か卑下されているように思うのは私だけだろうか。それこそ「ねえ?、あの人なにか信心しているんですって!」という感じに、信仰することが、とても怪しげなことをするかのように、ひそひそ声で語られるのである。
 このごろ私はそんな現代の日本人を見ていて、信仰という「おこない」がどういうことなのか分からなくなっていると感ずるのである。おそらく、それは信仰の専門家である僧侶たちも同じなのだろう。とにかく、宗教者ですら、信仰することが「論語読みの論語知らず」のように分からなくなっているのが、この日本社会の現状だと感ずるのである。
 現代人にとって信仰という「おこない」のイメージは、困ったときの神頼みというような何かにすがりつく感じで、神さまや仏さまを拝んでいれば、ご神仏の特別なお力によって経済的にも、健康的にも幸せになれるような感覚でいると思う。巷で人々を教導している(じつは布教しているのだが)宗教をみてみれば、それはそのような感覚で実際に「ご利益信心」を目玉にして勧誘しているのである。そこで口上を聞けば、曰く「あのお経より、この『法華経』に功徳があるから」という具合である。まさに、このお経を信じようが信じまいが、とにかくお題目を唱えて読経にはげめば、お金が儲かる?、病気までも治る?というご利益主義の感覚がそれである。
 このような形で宗教の布教と称する勧誘が横行しているために、それこそ「ねえ?、あの人なにか信心しているんですって!」と、信仰することがとても怪しげになっているのである。果たして、それが信仰という「おこない」、宗教的なことなのだろうかと考えさせられてしまう。
 ここに現代人の「こころ」の危機、魂の危機的な状況が見え隠れしていると筆者は感じている。日本人が自国の宗教文化を理解できなくなっているということは、もはや日本人が日本人でなくなっていることを意味するのではあるまいか。これから仏教という宗教を切り口にして、私たち日本人がどのような「こころ」の危機、魂の危機的な状況を迎えているか、意を深めてみたいと思う。

*1信仰:信じ尊ぶことで、宗教活動の意識的側面をいい、神聖なもの(絶対者・神を含む)に対する畏怖からよりは、親和の情から生ずると考えられ、儀礼と相俟って宗教の体系を構成し、集団性および共通性を有する。(『広辞苑』第5版)

初めまして、瞑想やヨーガなど伝統的な技法などを公開します

2008-01-08 14:43:44 | 瞑想
初めまして、このブログは日蓮門下唯一無二の修行の場である遠壽院行堂(千葉県市川市中山)から投稿です。

遠壽院行堂は昨年11月1日開堂して本年2月10日までの100日間、その内の12月5日までの35日間が不眠不休の読経三昧の日課で行われてます。私はそこで指導をする副伝師をしています。

基本的な日課をお話しておけば、3時間おきに1日7回の水行(水をかぶる)、就寝は夜11時の最後の水行をすまして、布団の中へZzZzZz途端にグッスリ、朝は2時30分ころ起床、3時の水行、4時から5時まで朝勤、朝夕の5時30分ころ赴粥(お粥の一汁一菜)、6時の水行、その後9時、12時、3時、6時水行、水行の間は読経三昧に明け暮れる。

食事は1日2度ほどでおおよそ1000キロカロリー、着物は木綿の白衣と清浄衣という麻の衣一枚、生活空間に暖房器具はありません。

過酷な35日間は読経三昧、食事は少なく、睡眠少なし、当然のように頭はからっぽです。ハタ目には大変そうですが、まあ実際に大変のですが、ある時点から、ランナーズハイのように、辛い気分が、座りだこがつぶれて痛いはずの足も、痛いながらに感覚が遮断されて、いい感じになる??

まさにヨーガな生活になってます。辛いという身体的な感覚は、外からの感覚ですが、読経して、瞑想して、水行している内に、意識は外側と遮断されて、内側の何かとつながって、何とも言いようのない感覚になる。心理学的には大洋感覚といいますかね。

脳内的にはβエンドルフィンあたりがドッとでて、快感神経をくすぐっているのでしょう。宗教的なことは必ず身体を頼りにしながら、身体を超えてゆくヨーガです。

副伝師として修行の指導しているボクですら、朝3時の水行をしていますが、伝師部部屋も暖房なしで、苦行を受け入れる気分さえあれば、脳内ホルモンがドッと出て、いい感じになりますね。「こころ」がゆっくりと動いている。

新年を迎えても、行僧のヨーガな生活は毎日が新しいことばかりで、新鮮な感覚で過ごすことが出来ます。こういう伝統的な修行の場は、日本ではほとんどない状態、建物はあっても伝承が途絶えている。

そういう瞑想の感覚、スピリチュアルな感覚で世間の宗教的なことを眺めると、現在はやっているヨーガなども含めて、ボクには一つの疑問がある。

なぜ現代人は宗教的な感性に気づかないのかとね。僧侶も同じだ。こう言いのけてしまうと、お前だけが宗教的なことを知っているというのか!!ッとばかりにお叱りを受けそうだ。

しかし、あまりにも宗教的に無知なことばかりが目にとまるのである。修行の場にある僧侶ですら、何時間の読経??と読経の時間の長さ宗教的なステージの高さに通じると思う、粗食という、寒いという逆境に耐えることが修行であり、自身のステージの高さにつながるというように?である。

そういう宗教的なステージは瞑想の深さ、体験的な目盛りのことなんですね、おおよそ、いま流行している仏教瞑想も、ヨーガ瞑想も、ほとんどがこういうことに気がついてない?

まあ、理屈はぬきにして、サットバの時間帯である早朝の4時ころから8時ころの間に瞑想することです。これが伝統的な瞑想技術です。正統性は伝統ですから。 

8日の今朝3時の水行時の気温は6℃、三箇日が2℃弱ですから、新年になってから一番暖かい朝でした。不思議ですね、ヒトの身体は1、2℃の変化がハッキリ分かります。寒いときは、1℃、いや0.5℃違ってもその温かさが感じられるものですね。

さて今朝がた7時ころに表堂へとお経に行きました、入行以来法華経1日一巻を読むようにしていますので、8日間で一部を読む計算ですね。およそ小一時間読経三昧で、いつもは寒いので内引き用のブランケット、アルパカの毛布を使うのですが今日は暖かで、ふようなくらいでした。

いつものように、読経三昧からもどって回向をはじめたら、なんと大猫が、ボス猫のような人相の悪いヤツが、こっちを見てました。目が合ったら、プイッと横向いて出て行ってしまった。

しばらくして、そいつがまた歩いてましたが、目が合うとプイッと横向いて、しまう。さっきボクの法華経の読経を聞いていた猫め!、と思っていたら、随分と昔聞いた説話を思い出した。

この猫、来世に人に生まれ変わるぞ?ッと変かことを思いだした。『今鏡』の昔語に、ある坊さんがお経を読むと、ヨダレが出るって?困って、祈願をかけたら夢を見た、「牛が車を引いて、その車には『法華経』一部が積んである。あるお寺の前で止まる、牛は門前につながれて、夏の暑い日、尾がハエを追いながら、口の周りにはヨダレがいっぱい、ハエがとまったりする。

するとお寺から法華経読誦の声が聞こえる、牛はヨダレをたらしながらそれを聞いている」、そこで僧侶は気づいた、私は前世では牛だった、法華経を聞いて、その功徳で人に生まれ変わったたと。

まあ変なこと言いましたが、ボクのお経を聞いていた、どら猫君、来世ではヒトに生まれ変わるかもね、こういう感覚になることが宗教心であったり、スピリッチュアルな感覚なんですね、不思議にそういう感覚になれるのが、修行の場ですね。