ところで、このような現代医学の基本的な概念を担っているのが、世界保健機構(The World Health Organization >WHO)の健康に対する定義である。じつはその定義を改定しようと、一九九八年から執行理事会の諮られているのである。
まず世界保健機構の健康に対する定義(要約)を挙げておこう。これは理事会で諮られている定義である。
HELTH is not merely an absence of illness, it is a state of well being at physical, mental, social and spritual levels...........WHO
「健康とは、肉体に病気がないばかりでなく、肉体的に、精神的に、社会的に、そして、宗教的(霊的)にも健やかな状態である。 ....WHO」(一九九八年の執行理事会から諮られている健康の定義である)
この定義を読み解いてみよう。まず健康であることの第一条件は「肉体に病気がないこと」だという。これは肉体的に種々の検査データに異常がないという機械的なことである。次に本人の自覚が基準になる。まず快食快便快眠など「肉体的に健やか」、さらに昇る旭や沈む夕陽などの自然の営みに感動できるなど「精神的にも健やか」、また人間関係も周囲の人たちの気持ちを察することができるなど「社会的にも健やか」な状態であると規定して、病気の前兆としての不定愁訴なども含めたこころの健康をも定義しているである。しかし、現状はといえば、さきのように身体の病気、身体の症状のみを診て、こころを診ようとしなかったといえる。(いまはこれが目的ではないので、これ以上追求しない。)
ところで、この肉体に病気がない状態に加えて、「肉体的に健やか」、「精神的にも健やか」、「社会的にも健やか」という健康の定義だけでは、問題があることにお気づきの方はあるだろうか。そうこの定義は病気が治るということが前提になっているである。ターミナルケアの現場の患者は、最後には健康な状態ではなく(不健康で)死を迎えなければならなくなるということである。それこそどんなに頑強で健康なヒトであっても、生老病死のサイクルは必定で、必ず老いて病んで亡くなる亡くなる。するとそれは不健康になって死んで行くことを意味する。ここにヒトの死までをも健康的に受容するために、WHOは宗教的な感性に期待したのである。それが最後の宗教的(霊的)にも健やかな状態(spritual levels)の定義である。
明治時代の寺社における養生医療でふれたように、以前には「医者が捨てたら坊主が拾う」という言葉が生きていたというが、それは医療の現場では不治の病であっても、僧侶が不治の患者さんを宗教的な感性で支えることで、その死が受容できれば健やかに旅立つことが出来るということである。ここに肉体に病気があって不健康であっても、宗教的な感性に支えられ自分自身が、この世に生を受けたという出自に対するしっかりとした自己認識ができていれば、宗教的に健やかであり、健康的に死期を迎えられるというのである。
もう少し続けよう。この宗教的な健やかさとは、自身がどのような家族のもとに生を受けたかというような、その人の出自に関わるようなこと、生みの親を知らなければ、それはさきのターミナルケアばかりではなく、それに気づけなかれば、ヒトはゆくゆく自分が何に帰属するかが、分からないために、人生に節目節目に悩むのである。肉体に病気がなく、肉体的に、精神的、社会的にも健やかであっても、その人が出自に不安があれば、宗教的に健やかではないために、不健康ということになってしまうのである。この宗教的な健やかさ、自分自身の宗教的な健やかさが補償されれば、本能として備わっている宗教的な感性によって健やかに臨終を迎えられるということである。
このような意味において、仏教であっても、神道であっても、キリスト教であっても、イスラム教であっても、インド教であっても、すべての宗教は種々の聖典を通じて、種々の修行法を通じて、宗教的な感性によって、自己自身の出自に対して自己認識を与え、宗教的な健やかさを与えてくれているのである。
とくに日本では明治七年六月に「医療・服薬を妨害する禁厭・祈祷の取締」が実施され、寺社の養生医療による施薬や施療が禁止されるまでは、そこでは医療としては不治の病であったとしても、僧侶が不治の病人を宗教的な感性で支えるという全人的な医療が行われていたのである。いま現在WHOの理事会で諮っている「宗教的(霊的)にも健やかな状態(spritual levels)」健康の定義とは、まさに宗教的な癒し、全人的な医療のことなのである。
まず世界保健機構の健康に対する定義(要約)を挙げておこう。これは理事会で諮られている定義である。
HELTH is not merely an absence of illness, it is a state of well being at physical, mental, social and spritual levels...........WHO
「健康とは、肉体に病気がないばかりでなく、肉体的に、精神的に、社会的に、そして、宗教的(霊的)にも健やかな状態である。 ....WHO」(一九九八年の執行理事会から諮られている健康の定義である)
この定義を読み解いてみよう。まず健康であることの第一条件は「肉体に病気がないこと」だという。これは肉体的に種々の検査データに異常がないという機械的なことである。次に本人の自覚が基準になる。まず快食快便快眠など「肉体的に健やか」、さらに昇る旭や沈む夕陽などの自然の営みに感動できるなど「精神的にも健やか」、また人間関係も周囲の人たちの気持ちを察することができるなど「社会的にも健やか」な状態であると規定して、病気の前兆としての不定愁訴なども含めたこころの健康をも定義しているである。しかし、現状はといえば、さきのように身体の病気、身体の症状のみを診て、こころを診ようとしなかったといえる。(いまはこれが目的ではないので、これ以上追求しない。)
ところで、この肉体に病気がない状態に加えて、「肉体的に健やか」、「精神的にも健やか」、「社会的にも健やか」という健康の定義だけでは、問題があることにお気づきの方はあるだろうか。そうこの定義は病気が治るということが前提になっているである。ターミナルケアの現場の患者は、最後には健康な状態ではなく(不健康で)死を迎えなければならなくなるということである。それこそどんなに頑強で健康なヒトであっても、生老病死のサイクルは必定で、必ず老いて病んで亡くなる亡くなる。するとそれは不健康になって死んで行くことを意味する。ここにヒトの死までをも健康的に受容するために、WHOは宗教的な感性に期待したのである。それが最後の宗教的(霊的)にも健やかな状態(spritual levels)の定義である。
明治時代の寺社における養生医療でふれたように、以前には「医者が捨てたら坊主が拾う」という言葉が生きていたというが、それは医療の現場では不治の病であっても、僧侶が不治の患者さんを宗教的な感性で支えることで、その死が受容できれば健やかに旅立つことが出来るということである。ここに肉体に病気があって不健康であっても、宗教的な感性に支えられ自分自身が、この世に生を受けたという出自に対するしっかりとした自己認識ができていれば、宗教的に健やかであり、健康的に死期を迎えられるというのである。
もう少し続けよう。この宗教的な健やかさとは、自身がどのような家族のもとに生を受けたかというような、その人の出自に関わるようなこと、生みの親を知らなければ、それはさきのターミナルケアばかりではなく、それに気づけなかれば、ヒトはゆくゆく自分が何に帰属するかが、分からないために、人生に節目節目に悩むのである。肉体に病気がなく、肉体的に、精神的、社会的にも健やかであっても、その人が出自に不安があれば、宗教的に健やかではないために、不健康ということになってしまうのである。この宗教的な健やかさ、自分自身の宗教的な健やかさが補償されれば、本能として備わっている宗教的な感性によって健やかに臨終を迎えられるということである。
このような意味において、仏教であっても、神道であっても、キリスト教であっても、イスラム教であっても、インド教であっても、すべての宗教は種々の聖典を通じて、種々の修行法を通じて、宗教的な感性によって、自己自身の出自に対して自己認識を与え、宗教的な健やかさを与えてくれているのである。
とくに日本では明治七年六月に「医療・服薬を妨害する禁厭・祈祷の取締」が実施され、寺社の養生医療による施薬や施療が禁止されるまでは、そこでは医療としては不治の病であったとしても、僧侶が不治の病人を宗教的な感性で支えるという全人的な医療が行われていたのである。いま現在WHOの理事会で諮っている「宗教的(霊的)にも健やかな状態(spritual levels)」健康の定義とは、まさに宗教的な癒し、全人的な医療のことなのである。