瞑想のスピリッチュアルな感覚

瞑想行から日本人のスピリチュアルな感性を明らかにする

世界保険機構(WHO)の健康の定義について

2008-02-20 17:18:55 | 瞑想
 ところで、このような現代医学の基本的な概念を担っているのが、世界保健機構(The World Health Organization >WHO)の健康に対する定義である。じつはその定義を改定しようと、一九九八年から執行理事会の諮られているのである。
 まず世界保健機構の健康に対する定義(要約)を挙げておこう。これは理事会で諮られている定義である。
HELTH is not merely an absence of illness, it is a state of well being at physical, mental, social and spritual levels...........WHO
「健康とは、肉体に病気がないばかりでなく、肉体的に、精神的に、社会的に、そして、宗教的(霊的)にも健やかな状態である。 ....WHO」(一九九八年の執行理事会から諮られている健康の定義である)

 この定義を読み解いてみよう。まず健康であることの第一条件は「肉体に病気がないこと」だという。これは肉体的に種々の検査データに異常がないという機械的なことである。次に本人の自覚が基準になる。まず快食快便快眠など「肉体的に健やか」、さらに昇る旭や沈む夕陽などの自然の営みに感動できるなど「精神的にも健やか」、また人間関係も周囲の人たちの気持ちを察することができるなど「社会的にも健やか」な状態であると規定して、病気の前兆としての不定愁訴なども含めたこころの健康をも定義しているである。しかし、現状はといえば、さきのように身体の病気、身体の症状のみを診て、こころを診ようとしなかったといえる。(いまはこれが目的ではないので、これ以上追求しない。)
 ところで、この肉体に病気がない状態に加えて、「肉体的に健やか」、「精神的にも健やか」、「社会的にも健やか」という健康の定義だけでは、問題があることにお気づきの方はあるだろうか。そうこの定義は病気が治るということが前提になっているである。ターミナルケアの現場の患者は、最後には健康な状態ではなく(不健康で)死を迎えなければならなくなるということである。それこそどんなに頑強で健康なヒトであっても、生老病死のサイクルは必定で、必ず老いて病んで亡くなる亡くなる。するとそれは不健康になって死んで行くことを意味する。ここにヒトの死までをも健康的に受容するために、WHOは宗教的な感性に期待したのである。それが最後の宗教的(霊的)にも健やかな状態(spritual levels)の定義である。
 明治時代の寺社における養生医療でふれたように、以前には「医者が捨てたら坊主が拾う」という言葉が生きていたというが、それは医療の現場では不治の病であっても、僧侶が不治の患者さんを宗教的な感性で支えることで、その死が受容できれば健やかに旅立つことが出来るということである。ここに肉体に病気があって不健康であっても、宗教的な感性に支えられ自分自身が、この世に生を受けたという出自に対するしっかりとした自己認識ができていれば、宗教的に健やかであり、健康的に死期を迎えられるというのである。
 もう少し続けよう。この宗教的な健やかさとは、自身がどのような家族のもとに生を受けたかというような、その人の出自に関わるようなこと、生みの親を知らなければ、それはさきのターミナルケアばかりではなく、それに気づけなかれば、ヒトはゆくゆく自分が何に帰属するかが、分からないために、人生に節目節目に悩むのである。肉体に病気がなく、肉体的に、精神的、社会的にも健やかであっても、その人が出自に不安があれば、宗教的に健やかではないために、不健康ということになってしまうのである。この宗教的な健やかさ、自分自身の宗教的な健やかさが補償されれば、本能として備わっている宗教的な感性によって健やかに臨終を迎えられるということである。
 このような意味において、仏教であっても、神道であっても、キリスト教であっても、イスラム教であっても、インド教であっても、すべての宗教は種々の聖典を通じて、種々の修行法を通じて、宗教的な感性によって、自己自身の出自に対して自己認識を与え、宗教的な健やかさを与えてくれているのである。
 とくに日本では明治七年六月に「医療・服薬を妨害する禁厭・祈祷の取締」が実施され、寺社の養生医療による施薬や施療が禁止されるまでは、そこでは医療としては不治の病であったとしても、僧侶が不治の病人を宗教的な感性で支えるという全人的な医療が行われていたのである。いま現在WHOの理事会で諮っている「宗教的(霊的)にも健やかな状態(spritual levels)」健康の定義とは、まさに宗教的な癒し、全人的な医療のことなのである。

現代社会の医療状況へと思いをめぐらせると

2008-02-17 10:32:16 | 瞑想
 これまでを整理すると、日本では明治時代に養生医療から西洋の治療医学へと政治的な配慮で転換された。そして、その医学は病気を治すもの、病気そのものの治療を目的としていた。
 そこで、その時代に生きた庶民の衛生に関する動向を明らかにしてみよう。江戸時代といっても幕末のころの伝法院の過去帳をひもとけば、おおよそ死亡年齢の平均は男性が二八・七才、女性が二八・六才と、なんとも極端な数字がみえてくる。それは疫病による大量死である。そのころ海外との貿易は長崎、神戸、横浜などに限られていたが、そこへ入港する外国船からインフルエンザが上陸すれば、およそ一日五〇キロ、ヒトの歩く速さで日本全国へと蔓莚し、およそ一〇〇万人単位で死人がでたという。江戸市中でも少なくとも三〇万人以上が死に、浅草あたりの寺院では棺桶を運ぶ荷車による交通渋滞が何日も続いたという(須田圭三『飛騨O寺院過去帳の研究』1973年)。
 <明治になってもスペイン風邪による大量死をしらべる>
 さらに大正時代になっても、男性四二才、女性四一才が平均余命で、乳幼児の死亡率は全国平均でおおよそ一八パーセント、東北や北陸ではおおよそ三〇パーセントの死亡率であり、さらに生き残った子供も、疱瘡などの流行病で多く亡くなった事実がある(大正一〇年第一回国勢調査)。そのころの庶民にとって、今では祝節の行事となっている七五三などのお祝いは、その時代にあってはその年までは、生き延びてもらいたいという親のせつなる祈りだったのである。

 現在の国民衛生の動向をみれば、なんと平均余命は女性八二才、男性七六才という世界一の長寿国になっている。それを支えているのが世界でも有数の高水準を誇る日本の医療技術である。明治時代に医療制度が養生医療から西洋の治療医学へと改正されてから、わずか一五〇年間という異例の速さでの展開である。これによって私たち日本人の国民衛生は確実に向上している。
 しかし、ここにきて明治以降の治療医学の限界がみえたといわれる。確かに感染症をはじめとする多くの病気が撲滅され、乳幼児死亡率も<????>、と激減したために平均余命は男女共に世界一となっている。しかし、その内実は病気とは呼べない病気、心筋梗塞や脳卒中などの生活習慣病の引き金となるというメタボリック・シンドローム(内臓脂肪症候群)の予備軍が、四〇才から七四才の男性は半数以上、女性でも二割はいるというほど蔓延しつつある(朝日新聞二〇〇六・五月九日)。まあ現代人の多くが病気ではないが健康とはいえない状態にあるというのである。
 さらには、厚生労働省がきちんと定義までつけている「難病指定」の病気にいたっては、病名はつけられてはいるが原因がよくわかっていないために治療法すら確立していないのである。そして、このように治療法が確立していない病気に「最近めだって増えている病気」という条件をつければ、それはまさに現代病とも、文明病とも呼ばれる病気となる。
 たとえば、アトピー性皮膚炎、花粉症、気管支喘息などのアレルギー性疾患を挙げることできる。、このなかでとくに有名なのが季節性のアレルギー性鼻炎・結膜炎のアレルギーなどの花粉症がある。それは杉花粉が原因だ、いや車の排気ガスだなどなどハッキリしない。しかし、おおよそこのアレルギー性疾患の原因がハッキリわからないといっても、世界的にみても日本のような工業国に多く、また非工業国でも都市化したところに多く発症するために、その文明化によってライフスタイルが大きく変化したことが疑われているのである。
 さらに拒食症や過食症など摂食障害である。多くみられるのは「ヤセ願望」で禁欲的な食生活をつづけてゆくうちに、我慢できずに過食へと移行してゆくパターンである。それは現代社会の風潮がスリムな身体を賛美することによって誘発されことは間違いない。しかし、同じようにダイエットしてもこの病気になるヒトとならないヒトがあるということは、そこに心の問題が見え隠れしているということである。それは乳幼児期におけるお母さんとのスキンシップを介しての安心感の獲得にあるということはわかっている。
 また、摂食障害ほど有名ではないが、顎関節症といって口を開けたり噛んだりするとき、あごの関節の雑音などの不定愁訴にはじまり、痛み、やがて口が開けられなく病気がある。この病気は女性が男性の三倍、十代の後半から増えはじめ二〇代から三〇代の比較的若い層に多い。通常あごの関節や歯にかかる力は、そしゃくの筋肉によって最大限八〇キログラム範囲内(壊れない範囲)に制限されている。しかし、睡眠時などにストレスの影響で歯ぎしりなどをくり返すと、その範囲を数倍超える力がかかるためにその症状がおこる。
 そして、最後の極めつけとして全国で二〇〇〇万人が苦しむという過敏性腸症候群を挙げることができる。この病気は女性が男性の二倍前後といわれ、とくに知的な仕事に携わるヒトに多く、近年非常に増加している。腸に張りめぐらされた神経は、その精密さによって「リトル・ブレイン」と呼ばれるが、それどころか脳はこの神経が発達したものだという学説があるほど、腸は脳との関係でストレスの影響を受けやすい。こうしたストレス性の腸の病気は、検査を受けても異常が見つからないばかりか、ストレス性であるがために治療が難しいのである
 これらの病気は現代医学では難病や奇病として扱われ、受診できる医療施設は限られている。摂食障害の治療を専門に行っているある病院の外来では、常時四百人以上の患者を抱えていて、新規は患者は二年も待たされるという。顎関節症の専門医療機関も少なく、有名な施設には患者が殺到している。また、過敏性腸症候群では、病院で受診しても一応の検査をしても異常なしで処理され、患者の多くは途方に暮れているという。これらは近年急増してきた病気のめに、診療態勢が整っていないこともあるが、身体だけを診てこころを十分に診ようとしなかった医療の欠点が露呈しているといえる。また、病気の症状を診て患者を診てこなかったともいえる。
 とくにアレルギー性疾患の場合は、花粉症や気管支喘息では心因性という因子に大きな要因がある。現代社会の大きな変化は情報通信技術であり、その情報革命による外部変化に人間の内部環境(こころ)が影響を受けないはずがない。情報の受け手は神経系で、それはこころである。(三大奇病「アトピー・拒食症・顎関節症」宮田親平、『文藝春秋』二〇〇一・四所収 主旨引用)
 くり返しになるが、これは現代医学が病気の治療を目的とするあまり、身体の病気、身体の症状のみを診て、こころを診ようとしなかった結果である。極論すればどんなに体調不良であっても、検査によって病気が発見できなければ、医師は病気はないという。
 たとえば、私たちのごく普通の生活を思いうかべて欲しい、このところあまり体調がよくないと感じたとき、近隣の病院を受診するだろう。そこで”とても体調が悪いのです”と訴えても、医師が血液検査などのデータで異常が発見できなければ、その医師は”それは病気ではないですよ”っと、つれなく帰そうとするだろう。しかし、そこで”どうしても体調が悪いのです”と訴えれば、医師はここぞとばかりに”それは不定愁訴ですね”っと精神安定剤なりが処方されて一件落着となる。このように、私たちの体調不良の訴えは、それはあなたの気分の問題、不定愁訴というよくわからないこころの錯覚だとして、向精神薬などによって誤魔化されてきたのである。
 ところが、さきのような現代病の難病や奇病にいたっては、その向精神薬などによって誤魔化されたこころの造反、不定愁訴というこころの危険信号を無視してきた結果といえる。現代医学は体調不良と訴える原因を探してみたものの、データ的にわからなければ病気ではないと言いつづけ、体調不良を訴えている私という人間(こころ)を診ていなかったのである。

インド人と日本人の信仰心

2008-01-10 14:18:21 | 瞑想
 この10数年、毎年といっていいほどインドへと巡礼に出かけている。インドへと赴いていつも思うことは、この国の信仰心の篤さだ。西インドのエローラ(ellora)石窟寺院で、数人の僧侶と法要を営んだときのことである。真夏のインドは外気は40度を超えることもあるが石窟寺院内は思いのほか涼しく、また石窟内の音響効果はすこぶる良く、私たちの下手な声明や読経も、たちどころに総本山さながらの臨場感あふれる大法要へと荘厳さを増すほどである。
 そこでそんな満足感にひたり後ろをふり返ると、そこには霊跡参拝をするインド人の巡礼団一行のひれ伏す姿があった。彼らは私たちの足を拝し、祝福の言葉を求めていたのである。日本の寺院社会でいえば、さしずめ私たちは本山の貫首さま並みの待遇を受けたのである。なにぶんVIP待遇の扱いは不慣れなことなので当惑してしまったが、彼らの目には異邦人であっても、巡礼する信仰者の姿は有り難く映っていたのである。インドでこれと同じよな経験を挙げれば、枚挙にいとまがないほどである。
 だがどうだろう、日本へと目を向けてみれば、信仰*1というヒトとしての崇高な「おこない」が、何か卑下されているように思うのは私だけだろうか。それこそ「ねえ?、あの人なにか信心しているんですって!」という感じに、信仰することが、とても怪しげなことをするかのように、ひそひそ声で語られるのである。
 このごろ私はそんな現代の日本人を見ていて、信仰という「おこない」がどういうことなのか分からなくなっていると感ずるのである。おそらく、それは信仰の専門家である僧侶たちも同じなのだろう。とにかく、宗教者ですら、信仰することが「論語読みの論語知らず」のように分からなくなっているのが、この日本社会の現状だと感ずるのである。
 現代人にとって信仰という「おこない」のイメージは、困ったときの神頼みというような何かにすがりつく感じで、神さまや仏さまを拝んでいれば、ご神仏の特別なお力によって経済的にも、健康的にも幸せになれるような感覚でいると思う。巷で人々を教導している(じつは布教しているのだが)宗教をみてみれば、それはそのような感覚で実際に「ご利益信心」を目玉にして勧誘しているのである。そこで口上を聞けば、曰く「あのお経より、この『法華経』に功徳があるから」という具合である。まさに、このお経を信じようが信じまいが、とにかくお題目を唱えて読経にはげめば、お金が儲かる?、病気までも治る?というご利益主義の感覚がそれである。
 このような形で宗教の布教と称する勧誘が横行しているために、それこそ「ねえ?、あの人なにか信心しているんですって!」と、信仰することがとても怪しげになっているのである。果たして、それが信仰という「おこない」、宗教的なことなのだろうかと考えさせられてしまう。
 ここに現代人の「こころ」の危機、魂の危機的な状況が見え隠れしていると筆者は感じている。日本人が自国の宗教文化を理解できなくなっているということは、もはや日本人が日本人でなくなっていることを意味するのではあるまいか。これから仏教という宗教を切り口にして、私たち日本人がどのような「こころ」の危機、魂の危機的な状況を迎えているか、意を深めてみたいと思う。

*1信仰:信じ尊ぶことで、宗教活動の意識的側面をいい、神聖なもの(絶対者・神を含む)に対する畏怖からよりは、親和の情から生ずると考えられ、儀礼と相俟って宗教の体系を構成し、集団性および共通性を有する。(『広辞苑』第5版)

初めまして、瞑想やヨーガなど伝統的な技法などを公開します

2008-01-08 14:43:44 | 瞑想
初めまして、このブログは日蓮門下唯一無二の修行の場である遠壽院行堂(千葉県市川市中山)から投稿です。

遠壽院行堂は昨年11月1日開堂して本年2月10日までの100日間、その内の12月5日までの35日間が不眠不休の読経三昧の日課で行われてます。私はそこで指導をする副伝師をしています。

基本的な日課をお話しておけば、3時間おきに1日7回の水行(水をかぶる)、就寝は夜11時の最後の水行をすまして、布団の中へZzZzZz途端にグッスリ、朝は2時30分ころ起床、3時の水行、4時から5時まで朝勤、朝夕の5時30分ころ赴粥(お粥の一汁一菜)、6時の水行、その後9時、12時、3時、6時水行、水行の間は読経三昧に明け暮れる。

食事は1日2度ほどでおおよそ1000キロカロリー、着物は木綿の白衣と清浄衣という麻の衣一枚、生活空間に暖房器具はありません。

過酷な35日間は読経三昧、食事は少なく、睡眠少なし、当然のように頭はからっぽです。ハタ目には大変そうですが、まあ実際に大変のですが、ある時点から、ランナーズハイのように、辛い気分が、座りだこがつぶれて痛いはずの足も、痛いながらに感覚が遮断されて、いい感じになる??

まさにヨーガな生活になってます。辛いという身体的な感覚は、外からの感覚ですが、読経して、瞑想して、水行している内に、意識は外側と遮断されて、内側の何かとつながって、何とも言いようのない感覚になる。心理学的には大洋感覚といいますかね。

脳内的にはβエンドルフィンあたりがドッとでて、快感神経をくすぐっているのでしょう。宗教的なことは必ず身体を頼りにしながら、身体を超えてゆくヨーガです。

副伝師として修行の指導しているボクですら、朝3時の水行をしていますが、伝師部部屋も暖房なしで、苦行を受け入れる気分さえあれば、脳内ホルモンがドッと出て、いい感じになりますね。「こころ」がゆっくりと動いている。

新年を迎えても、行僧のヨーガな生活は毎日が新しいことばかりで、新鮮な感覚で過ごすことが出来ます。こういう伝統的な修行の場は、日本ではほとんどない状態、建物はあっても伝承が途絶えている。

そういう瞑想の感覚、スピリチュアルな感覚で世間の宗教的なことを眺めると、現在はやっているヨーガなども含めて、ボクには一つの疑問がある。

なぜ現代人は宗教的な感性に気づかないのかとね。僧侶も同じだ。こう言いのけてしまうと、お前だけが宗教的なことを知っているというのか!!ッとばかりにお叱りを受けそうだ。

しかし、あまりにも宗教的に無知なことばかりが目にとまるのである。修行の場にある僧侶ですら、何時間の読経??と読経の時間の長さ宗教的なステージの高さに通じると思う、粗食という、寒いという逆境に耐えることが修行であり、自身のステージの高さにつながるというように?である。

そういう宗教的なステージは瞑想の深さ、体験的な目盛りのことなんですね、おおよそ、いま流行している仏教瞑想も、ヨーガ瞑想も、ほとんどがこういうことに気がついてない?

まあ、理屈はぬきにして、サットバの時間帯である早朝の4時ころから8時ころの間に瞑想することです。これが伝統的な瞑想技術です。正統性は伝統ですから。 

8日の今朝3時の水行時の気温は6℃、三箇日が2℃弱ですから、新年になってから一番暖かい朝でした。不思議ですね、ヒトの身体は1、2℃の変化がハッキリ分かります。寒いときは、1℃、いや0.5℃違ってもその温かさが感じられるものですね。

さて今朝がた7時ころに表堂へとお経に行きました、入行以来法華経1日一巻を読むようにしていますので、8日間で一部を読む計算ですね。およそ小一時間読経三昧で、いつもは寒いので内引き用のブランケット、アルパカの毛布を使うのですが今日は暖かで、ふようなくらいでした。

いつものように、読経三昧からもどって回向をはじめたら、なんと大猫が、ボス猫のような人相の悪いヤツが、こっちを見てました。目が合ったら、プイッと横向いて出て行ってしまった。

しばらくして、そいつがまた歩いてましたが、目が合うとプイッと横向いて、しまう。さっきボクの法華経の読経を聞いていた猫め!、と思っていたら、随分と昔聞いた説話を思い出した。

この猫、来世に人に生まれ変わるぞ?ッと変かことを思いだした。『今鏡』の昔語に、ある坊さんがお経を読むと、ヨダレが出るって?困って、祈願をかけたら夢を見た、「牛が車を引いて、その車には『法華経』一部が積んである。あるお寺の前で止まる、牛は門前につながれて、夏の暑い日、尾がハエを追いながら、口の周りにはヨダレがいっぱい、ハエがとまったりする。

するとお寺から法華経読誦の声が聞こえる、牛はヨダレをたらしながらそれを聞いている」、そこで僧侶は気づいた、私は前世では牛だった、法華経を聞いて、その功徳で人に生まれ変わったたと。

まあ変なこと言いましたが、ボクのお経を聞いていた、どら猫君、来世ではヒトに生まれ変わるかもね、こういう感覚になることが宗教心であったり、スピリッチュアルな感覚なんですね、不思議にそういう感覚になれるのが、修行の場ですね。