瞑想のスピリッチュアルな感覚

瞑想行から日本人のスピリチュアルな感性を明らかにする

養生医療を禁じた「医療・服薬を妨害する禁厭・祈祷の取締」の弊害について

2008-02-05 16:30:35 | 宗教
 いま「止観病患境」にみる養生医療を要約したが、これによって加行所における加持祈祷などの癒しの実際が理解できたはずである。じつはこれらが寺社における施薬や施療などの医療行為の根幹であり、一般庶民が生死の現実を生き抜くためのシステムとして、信仰と医療とは共に支えあいながら機能していたことが見えてくるのである。そこでは「医者が捨てたら坊主が拾う」という言葉すらそこでは生きていたほどである。
 たとえ医療としては不治の病であったとしても、僧侶がその病者を宗教的な感性で支える全人的な医療が行われていたのである。現代人からみれば信仰と医療がいっしょくたになっているので、何とも迷信的な感じがするのは否めないが、実際にはこれこそが宗教的な癒し、全人的な医療であるといえる。
 たとえば、天平二年(七〇三)の光明皇后が創設したといわれる施薬院は、いったん中世になってに衰亡したが、豊臣秀吉が再興し、それを江戸幕府が受けつぐ形で明治まで続いた。とくに徳川吉宗の時代になると、江戸庶民に馴染みのある養生所と呼ばれる無料の公的な医療機関が町内につくられるようになる。また施薬院や養生所のように医療を目的とする施設ばかりではなく、ごく当たり前の寺社でも病気平癒の加持祈祷は行われており、祈祷と共に護符やお札守りの服用(本来はお札守りなどを身につけること)が勧められていたのである。そこでは貧しい病人たちへの施薬や施療などがおこなわれ、現代でいえば終末医療まで視座にいれた医療と介護が行われていたのである。
 ここで江戸時代の庶民と医療の現状についてふれておけば、町数は一六〇〇余、町人五〇万人強というからまさに江戸は大都市である。そして、その医療事情はといえば、医師は町人四、五〇〇人あたりに一人というから悪くはないが、実際には経済的に医師の診療を受けられる庶民はごく一部であったという。
 とくに一般庶民にいたっては、医療どころではなく食事の事情もきわめて悪く、たとえ大店の奉公人であっても、食事は日に二度の一汁一菜の食事があたりまえで、それに月に一度でもメザシなどの魚類がつけば上々だったのである。そのため庶民は慢性的な栄養失調で羅病率はかなり高く、奉公人が病気になれば納戸部屋へ追いやられ、さらに病床が長期になれば食事すらままならず、そのまま放置されて死を待つことになる。たとえ実家へと帰されたとしても、口減らしのために奉公へでた者の居場所はなく、やはり医療を受けられぬまま死を待つだけだったという。現代と比較すれば江戸庶民は想像を絶する四苦八苦を道を歩んでいたのである。
 時代は幕末から明治へと移ったといっても、庶民の諸事情は突如として改善されるわけはない。明治新政府はこのような世情の中で、寺社で行われていた医療や加持祈祷は幕藩体制を支えた敵対文化として、一方的に西洋の治療医学へと塗り替えていったのである。さきの「医療・服薬を妨害する禁厭・祈祷の取締」が実施され、庶民の癒しを引き受けていた寺社の施薬・施療が禁止されたばかりではなく、そこでは漢方医学を始め針・灸・按摩にいたるまで養生医療のすべてが禁止されたのである。
 この明治政府が採用した西洋の治療医学は、科学の知に基づく医師の資格をもつ専門家の治療集団によって実施され、病気の治療のみを目的とするようになったということである。そこではそれまでの多元的な養生医療は否定され、医療の現場から寺社における加持祈祷や護符などによる癒しの実際は迷信として排斥されたということである。これが何を意味するかといえば、そこでは不治の病に冒された弱者を癒す手だてが失われ、医療の視座が不治の病人から治療可能な生者へと移ったこということである。
 このように養生医療では共有されていた信仰と医療が明確に分離されたことで、日本人はこの時点からきわめて徐々にではあるが、宗教的な感性を喪失する運命を背負うことになった。さきに現代人にとって信仰という「おこない」のイメージは、困ったときの神頼みというような、何かにすがりつく感じで神さまや仏さまを拝んでいれば、ご神仏の特別なお力によって経済的、健康的に幸せになれる感覚だといったが、これはこの運命のことをいったのである。一四〇年の歳月をかけて日本人は現在のように姿になったのである。
 医療が西洋の治療医学へと塗りかえられることで、それまでの日本人が営んでいた生老病死のはざまで生きる庶民の現実を支えてきた寺社の癒しが失われた。それは治療医学によって、信仰の世界から「生老と死のサイクル」をつなぐ「病」が突如としてもぎ取られたことで、生死も死もすべて観念化されたことを意味する。生老病死という四苦の現実は、生老の生きている過程と死の結果とが、「病苦」によってつながっているからである。
 この事実は現代の医療現場が如実に物語っている。たとえば、私たちは日常の家庭生活は、当たり前のように家族そろって「生老」のふるまいのままに暮らしている。そして、もしその家族の中で誰かが重篤な病にたおれれば、それはそのまま病院へと運ばれて家庭の中から「病」は隔離されて見えなくなる。そこで、もしその病が不治であれば、そのまま病院で死を迎えることになる。実際に現代人はその九十パーセントあまりが病院で死を迎えている。さらに病院で臨終を看取られた病人は骸となってはじめて家族のもとへと帰るが、それは家族にとっては「病」の結果であって、とくに子供たちは家庭生活の中で病苦の現実をかいま見ることなく、観念的な病苦を通じて「死」と遭遇するだけであり、病苦に続く死苦の実際については何にも伝わらなくなっているのである。
 このように寺社における宗教的な「おこない」と医療が明確に分離されたことで、日本人はそれまで培ってきた生老病死の四苦のサイクルが断ち切られ、宗教的な感性を喪失してしまったのである。そのために、現代の多くの宗教が「ご利益信心」を目玉にして勧誘し、その口上を聞けば、曰く「あのお経より、この『法華経』に功徳があるから」という具合になってしまい、それこそ「ねえ?、あの人なにか信心しているんですって!」という具合に、その信仰のあり方に違和感を抱いていても、何とも宗教的なことが釈然としないのである。
 しかし、いま西洋の治療医学が病気の治療のみを目的とするといったが、それは明治政府が敵対文化であった幕藩体制を崩壊させるために行った施策であって、治療医学そのもの問題ではない。事実、キリスト教文化圏の病院には、チャプレンと呼ばれる牧師が常駐しており、患者の要請に応じて応じて、病気平癒の祈祷などをしている。とくに欧州では信仰治療などを含む代替医療や、司祭や牧師のヒーラーによる病気平癒の祈りにも保健が利用できるようになっているという。この辺りのことは、日本ではかなり遅れているのである。

葬式仏教以前の僧侶や寺院は何をしていたか

2008-01-22 16:44:11 | 宗教
 いま一般的に執り行われている仏式の葬儀法要がわずか一四〇年ほど前といったが、それ以前の僧侶が何をしていたのか、寺院はどのように社会的に機能していたのだろうかと、素朴な疑問がのこる。さきに戸籍法制定のところでふれたように、それまでは江戸幕府の三奉行の一つで、寺社奉行の監督下で宗門人別帳(村の宗門改め帳簿、後の人別帳)・寺請制度(キリシタン信徒ではない証明)という公的な職務を担っていたことなどは分かる。
 またこの明治政府の法改正で興味深いことは、寺社における医薬の販売(施薬)、医療行為(施療)を禁じるために、明治七年六月に「医療・服薬を妨害する禁厭(まじない)・祈祷(おはらい)の取締」を実施したことである。明治政府は維新直後の廃仏毀釈に加えて、幕藩体制を支えた仏教と一緒に養生医療(和漢方など医療)を払拭するため、治療医学としての西洋医学を導入採用したのである。
 それまでの世間の人びとといえば、往々病気になれば漢方医を受診して漢方薬などを施薬されていたように思いがちであるが、実際には病気なれば寺社へと詣でては、養生医療を受診し護符をもらい、加持祈祷をして病気の回復を祈願していたのが現状だった。しかし、このような寺社における施薬や施療など養生医療の行為は、さきの幕藩体制と同様に敵対文化として弾圧され、さらに西洋医学者によって「陰陽五行説に基づいた疾病観や祈祷は迷信で愚者の行為である」と退けられながら、一方的に西洋の治療医学へと塗り替えられてしまったのである。
 ここでこの流れの実際を日蓮門下に流布していた祈祷修法(病気平癒の加持祈祷と護符などの施薬を行う作法のこと)の歴史から眺めてみよう。まず江戸初期には積善房の身延流(山梨県南巨摩郡)と遠壽院・智泉院の中山流(千葉県市川市)の二大門流を形成していたが、これらの内で積善房と智泉院の門流は、幕末から明治時代にかけて吹き荒れた廃仏毀釈によって廃絶されている。この廃絶の決め手になるのが、さきの明治七年の取締である。
 その吹き荒れた嵐の中にあって、辛うじて法灯を存続できたのは中山門流の遠壽院流のみであった。その理由は当時遠壽院(遠壽院加行所)の住職伝師であった朝田日光師が、遠壽院流の祈祷相伝である毒消しの護符(秘妙符)を服用して「毒薬を飲んでも死にいたらなかった」からだという。何とも無謀な話ではあるが、これによって千葉県知事の医薬品扱い許可の鑑札を賜り廃絶いたらなかったと伝わっている。荒唐無稽のような話であるが、毒薬を飲んだ話の真贋は別にして、その当時は医薬品扱い許可の鑑札がなければ、寺社などの施薬や施療といった医療行為が厳重に禁止されていたということである。
 ところで、このような養生医療の中で、僧侶や寺院が担ってきた癒しの実際はどのようなものだったのか。とくに明治七年の取締が実施されててから以降、日蓮門下の祈祷相伝を一手に担うことになる遠壽院が明治三年六月に発した「祈祷改正規則之掟」には、面白い文言が見え隠れしているので、これを挙げよう。
 この改正規則によれば、明治維新後に寺社で行われていた施薬や施療などの医療行為の扱いをどうしたものか、苦渋の選択を迫られていることが見てとれる。規則の文言は、まず祈祷相承の権威性については伝師(相伝の師)に対する制誡厳重を誓わせながら、業病や狂気というから現代でいえば原因不明の奇病や精神病などに対する平癒の加持祈祷を依頼された場合には、「遠壽院住職伝師の指示を仰ぎ勝手に執行してはならない」という注意書きがみえる。
 しかし、実際には勝手に加持祈祷が行われたようで、この改正規則には別記が追加され、加持祈祷の修練で遠壽院行堂へと入行を志す者は「総じて一ヶ寺の住職であること、また権中講義以上の僧階で、僧侶になってから(法臈)二〇年以上経ている者にかぎり試験の上」と入行者の規定が厳しく改められている。
 さらにこの改正規則には「止観病患境により修学し、怠慢なく苦修練行によって色心清浄にすべきこと」という興味深い一項が挙げられている。そして、その「止観病患境依修学無怠慢」には、わざわざ朱墨の傍線がうたれている。これによって何がわかるかといえば、遠壽院加行所における一百日間の苦修練行が「止観病患境」に則って行われていたという事実である。
 一般的に加行所(加行[prayoga]とは、ある一定期間の修行こと、ここでは修行道場をいう)で切磋琢磨される修行のようすは祈祷相承などの相伝ごとであり、門外不出で世間の目にふれることはまずない。そこで「止観病患境により修学し」とあるから興味深いのである。まずこの「止観病患境」が何かといえば、文献的には中国六世紀に天台大師智によって撰述された『摩訶止観』という修行の指南書、その第七章「修正止観」第三節「観病患境」のことで、とくにその時代の養生医療である和漢方とも密接に関わるものである。加行所ではこのような養生医療の病因論に従いながら苦修練行が実施され、加持祈祷などの癒しの実際が相伝されていたということは大変に興味深い事実である。これによって葬式仏教以前の僧侶や寺院が果たしていた役割として、その時代の養生医療の一翼を担っていたことが見えてくるからである。

現代の葬式仏教について

2008-01-16 15:00:13 | 宗教
○現代の葬式仏教について
 このように信仰について考えはじめると、現代の仏教界が世間から葬式仏教と揶揄されていても、ご本人たちはどこ吹く風とばかりに意に介さない様は、それでも信仰者の「おこない」なのかと考えさせられるのは私だけではないだろう。世間の方々が抱くこの種の違和感について、著名な高僧がどのように弁明しても分が悪く、その風評は檀家制度の上にあぐらをかき、葬儀費用が高い、高額のを度々要求される、説教・法話ができない等云々と、はたまた釈迦・宗祖・開祖方は命がけで仏法の真理を弘められたのはいったい何だったのか?、宗祖・開祖の名をかたり自らの生活の安定を図るための手段であってよいのだろうか等々、それはもう挙げはじめたら切りがないほどである。
 仏教はお釈迦さまの時代から現在にいたるまで、またインドでも中国でも日本でも、全て生きているヒトのために教えが説かれ、死を目前にしたヒトに経典を読む「臨終勤行」の作法はあるとしても、死者のために読むお経などは存在しない。追善供養も「相手を敬い尊敬する行為」に転じていくための手段だったのである。
 たしかに仏教教団は葬儀と無関係でなかったが、ただそれは単に「死者の冥福を祈るだけの葬儀」というわけではなかった。日常的には自分と無縁であると思っていた死が、身近に起こったために、ヒトは「死という厳然たる事実」をしっかりと見つめることになる。そこで仏教本来のメインテーマである「生老病死」の四苦や八苦の事実が、ようやく自分自身に意識化されて恐れおののくことになる。
 この現実苦から目を背けずに、克服すべき道を切り開き、死を受け入れたとき、死を抱えて生きることが出来るようになる。こうした生き方に気づく絶好のチャンスとして葬儀を執り行われるわけであり、じつに葬式法要も生きている人々のための儀式ということなのである。このような仏教のあり方を知ってか知らないが(それこそこちらも関知しないが)、現代の仏教を葬式仏教といってはばからない僧侶は多い。後学のためにひと言つけ加えておけば、現代のように僧侶が葬儀を積極的に行うようになったのは、わずか一四〇年ほど前のことである。
 ちょうど明治新政府によって宗教弾圧が行われていた頃である。ご存じのように、明治維新とは将軍徳川慶喜の大政奉還(慶応三年十月、一八六七年)から明治天皇の王政復古宣言(同年一二月)、江戸幕府の倒壊(慶応四年)を経て、明治新政府の成立にいたる一連の過程である。
 この明治維新の目的はといえば、江戸幕府が築いた幕藩体制の打倒であった。幕藩体制は、各藩の経済基盤である領地によって維持され、民衆は現代の戸籍法にあたる寺請制度によって管理されていたのである。明治新政府は、幕藩体制の要にある仏教を排斥するため、慶応四年三月十三日(一八六八年)に祭政一致・神祇官再興(天皇・宗教による国家政治)を布告し、同二十八日には神仏分離令(神仏習合を廃止)を発布したのである。
 とくに明治四年一月五日(一八七一年)に発布された社寺領上地令によって、僧侶たちは新政府の意向に従わなければ経済的な基盤が奪われるという危機的な状況に直面していた。その最中、仏教界にとっては致命的となる戸籍法が同年四月四日に制定され、続いて宗門人別帳、寺請制度が相次いで廃止された。今様にいえばそれまで寺請制度に組み込まれ官営であった寺院が急きょ民営化され、仏教界は大混乱となったのである。
 さらに(詳細は後述するが)これに追い打ちをかけるように、明治政府は幕藩体制に貢献した養生医療(じつは仏教そのもののことなのだが)を払拭するため、治療医学(西洋医学)を導入して寺社における加持祈祷まで禁止してしまったのである。これによって仏教界は大きく衰退してしまうことになる。しかし、そこに僧侶にとって一つの救いがもたらされる。戸籍法制定のあと明治五年六月に太政官が、自葬を禁止し、必ず神官・僧侶に依頼するよう布告したからである。
 その理由は簡単で、戸籍を削除するためにきちんと葬儀法要を営みなさいと言うのである。これ以降は僧侶による葬儀法要が一般化して、これ以降寺院社会の経済基盤は、葬儀法要の施収入に大きく依存するようになるのである。
 私のところのお檀家さんが「御前さん、わが家の何代か前の先祖がこれを奉納したのですよね」と言っても、一般の家庭では過去帳を遡っても、せいぜい明治初めの戒名が見つかる程度で、それ以上遡っても戒名は見あたらない。まさに仏式に則り戒名をつけて執りおこなわれる葬儀が一般化したのがその頃だからである。
 まあ、戒名が見あたらないといっても、ご先祖さまがないというのではなく、ただその当時と葬儀のあり方が違うだけである。それ以前はどのような葬儀が執りおこなわれていたかといえば、まさに楢山節孝にみた世界そのものである。死体は「人捨て場」に放置され、化野といって限りなく風葬・鳥葬に近い土葬であったという。江戸時代の農民町民、武家階級でも下級武士たちは、まさにはかなし墓なしで、地方では村外れの埋葬塚に、町中では寺院の無縁塚などに化野され、そこで塔婆の一本でも立て僧侶の読経でも供養されれば大変丁寧な葬儀だった。ようは現代人が思うほどその時代の庶民も僧侶も葬儀法要をそれほど重く受け止めていなかったということである(鈴木理生『江戸の町は骨だらけ』
ちくま学術文庫)。