瞑想のスピリッチュアルな感覚

瞑想行から日本人のスピリチュアルな感性を明らかにする

現代の葬式仏教について

2008-01-16 15:00:13 | 宗教
○現代の葬式仏教について
 このように信仰について考えはじめると、現代の仏教界が世間から葬式仏教と揶揄されていても、ご本人たちはどこ吹く風とばかりに意に介さない様は、それでも信仰者の「おこない」なのかと考えさせられるのは私だけではないだろう。世間の方々が抱くこの種の違和感について、著名な高僧がどのように弁明しても分が悪く、その風評は檀家制度の上にあぐらをかき、葬儀費用が高い、高額のを度々要求される、説教・法話ができない等云々と、はたまた釈迦・宗祖・開祖方は命がけで仏法の真理を弘められたのはいったい何だったのか?、宗祖・開祖の名をかたり自らの生活の安定を図るための手段であってよいのだろうか等々、それはもう挙げはじめたら切りがないほどである。
 仏教はお釈迦さまの時代から現在にいたるまで、またインドでも中国でも日本でも、全て生きているヒトのために教えが説かれ、死を目前にしたヒトに経典を読む「臨終勤行」の作法はあるとしても、死者のために読むお経などは存在しない。追善供養も「相手を敬い尊敬する行為」に転じていくための手段だったのである。
 たしかに仏教教団は葬儀と無関係でなかったが、ただそれは単に「死者の冥福を祈るだけの葬儀」というわけではなかった。日常的には自分と無縁であると思っていた死が、身近に起こったために、ヒトは「死という厳然たる事実」をしっかりと見つめることになる。そこで仏教本来のメインテーマである「生老病死」の四苦や八苦の事実が、ようやく自分自身に意識化されて恐れおののくことになる。
 この現実苦から目を背けずに、克服すべき道を切り開き、死を受け入れたとき、死を抱えて生きることが出来るようになる。こうした生き方に気づく絶好のチャンスとして葬儀を執り行われるわけであり、じつに葬式法要も生きている人々のための儀式ということなのである。このような仏教のあり方を知ってか知らないが(それこそこちらも関知しないが)、現代の仏教を葬式仏教といってはばからない僧侶は多い。後学のためにひと言つけ加えておけば、現代のように僧侶が葬儀を積極的に行うようになったのは、わずか一四〇年ほど前のことである。
 ちょうど明治新政府によって宗教弾圧が行われていた頃である。ご存じのように、明治維新とは将軍徳川慶喜の大政奉還(慶応三年十月、一八六七年)から明治天皇の王政復古宣言(同年一二月)、江戸幕府の倒壊(慶応四年)を経て、明治新政府の成立にいたる一連の過程である。
 この明治維新の目的はといえば、江戸幕府が築いた幕藩体制の打倒であった。幕藩体制は、各藩の経済基盤である領地によって維持され、民衆は現代の戸籍法にあたる寺請制度によって管理されていたのである。明治新政府は、幕藩体制の要にある仏教を排斥するため、慶応四年三月十三日(一八六八年)に祭政一致・神祇官再興(天皇・宗教による国家政治)を布告し、同二十八日には神仏分離令(神仏習合を廃止)を発布したのである。
 とくに明治四年一月五日(一八七一年)に発布された社寺領上地令によって、僧侶たちは新政府の意向に従わなければ経済的な基盤が奪われるという危機的な状況に直面していた。その最中、仏教界にとっては致命的となる戸籍法が同年四月四日に制定され、続いて宗門人別帳、寺請制度が相次いで廃止された。今様にいえばそれまで寺請制度に組み込まれ官営であった寺院が急きょ民営化され、仏教界は大混乱となったのである。
 さらに(詳細は後述するが)これに追い打ちをかけるように、明治政府は幕藩体制に貢献した養生医療(じつは仏教そのもののことなのだが)を払拭するため、治療医学(西洋医学)を導入して寺社における加持祈祷まで禁止してしまったのである。これによって仏教界は大きく衰退してしまうことになる。しかし、そこに僧侶にとって一つの救いがもたらされる。戸籍法制定のあと明治五年六月に太政官が、自葬を禁止し、必ず神官・僧侶に依頼するよう布告したからである。
 その理由は簡単で、戸籍を削除するためにきちんと葬儀法要を営みなさいと言うのである。これ以降は僧侶による葬儀法要が一般化して、これ以降寺院社会の経済基盤は、葬儀法要の施収入に大きく依存するようになるのである。
 私のところのお檀家さんが「御前さん、わが家の何代か前の先祖がこれを奉納したのですよね」と言っても、一般の家庭では過去帳を遡っても、せいぜい明治初めの戒名が見つかる程度で、それ以上遡っても戒名は見あたらない。まさに仏式に則り戒名をつけて執りおこなわれる葬儀が一般化したのがその頃だからである。
 まあ、戒名が見あたらないといっても、ご先祖さまがないというのではなく、ただその当時と葬儀のあり方が違うだけである。それ以前はどのような葬儀が執りおこなわれていたかといえば、まさに楢山節孝にみた世界そのものである。死体は「人捨て場」に放置され、化野といって限りなく風葬・鳥葬に近い土葬であったという。江戸時代の農民町民、武家階級でも下級武士たちは、まさにはかなし墓なしで、地方では村外れの埋葬塚に、町中では寺院の無縁塚などに化野され、そこで塔婆の一本でも立て僧侶の読経でも供養されれば大変丁寧な葬儀だった。ようは現代人が思うほどその時代の庶民も僧侶も葬儀法要をそれほど重く受け止めていなかったということである(鈴木理生『江戸の町は骨だらけ』
ちくま学術文庫)。

最新の画像もっと見る