瞑想のスピリッチュアルな感覚

瞑想行から日本人のスピリチュアルな感性を明らかにする

初めまして、瞑想やヨーガなど伝統的な技法などを公開します

2008-01-08 14:43:44 | 瞑想
初めまして、このブログは日蓮門下唯一無二の修行の場である遠壽院行堂(千葉県市川市中山)から投稿です。

遠壽院行堂は昨年11月1日開堂して本年2月10日までの100日間、その内の12月5日までの35日間が不眠不休の読経三昧の日課で行われてます。私はそこで指導をする副伝師をしています。

基本的な日課をお話しておけば、3時間おきに1日7回の水行(水をかぶる)、就寝は夜11時の最後の水行をすまして、布団の中へZzZzZz途端にグッスリ、朝は2時30分ころ起床、3時の水行、4時から5時まで朝勤、朝夕の5時30分ころ赴粥(お粥の一汁一菜)、6時の水行、その後9時、12時、3時、6時水行、水行の間は読経三昧に明け暮れる。

食事は1日2度ほどでおおよそ1000キロカロリー、着物は木綿の白衣と清浄衣という麻の衣一枚、生活空間に暖房器具はありません。

過酷な35日間は読経三昧、食事は少なく、睡眠少なし、当然のように頭はからっぽです。ハタ目には大変そうですが、まあ実際に大変のですが、ある時点から、ランナーズハイのように、辛い気分が、座りだこがつぶれて痛いはずの足も、痛いながらに感覚が遮断されて、いい感じになる??

まさにヨーガな生活になってます。辛いという身体的な感覚は、外からの感覚ですが、読経して、瞑想して、水行している内に、意識は外側と遮断されて、内側の何かとつながって、何とも言いようのない感覚になる。心理学的には大洋感覚といいますかね。

脳内的にはβエンドルフィンあたりがドッとでて、快感神経をくすぐっているのでしょう。宗教的なことは必ず身体を頼りにしながら、身体を超えてゆくヨーガです。

副伝師として修行の指導しているボクですら、朝3時の水行をしていますが、伝師部部屋も暖房なしで、苦行を受け入れる気分さえあれば、脳内ホルモンがドッと出て、いい感じになりますね。「こころ」がゆっくりと動いている。

新年を迎えても、行僧のヨーガな生活は毎日が新しいことばかりで、新鮮な感覚で過ごすことが出来ます。こういう伝統的な修行の場は、日本ではほとんどない状態、建物はあっても伝承が途絶えている。

そういう瞑想の感覚、スピリチュアルな感覚で世間の宗教的なことを眺めると、現在はやっているヨーガなども含めて、ボクには一つの疑問がある。

なぜ現代人は宗教的な感性に気づかないのかとね。僧侶も同じだ。こう言いのけてしまうと、お前だけが宗教的なことを知っているというのか!!ッとばかりにお叱りを受けそうだ。

しかし、あまりにも宗教的に無知なことばかりが目にとまるのである。修行の場にある僧侶ですら、何時間の読経??と読経の時間の長さ宗教的なステージの高さに通じると思う、粗食という、寒いという逆境に耐えることが修行であり、自身のステージの高さにつながるというように?である。

そういう宗教的なステージは瞑想の深さ、体験的な目盛りのことなんですね、おおよそ、いま流行している仏教瞑想も、ヨーガ瞑想も、ほとんどがこういうことに気がついてない?

まあ、理屈はぬきにして、サットバの時間帯である早朝の4時ころから8時ころの間に瞑想することです。これが伝統的な瞑想技術です。正統性は伝統ですから。 

8日の今朝3時の水行時の気温は6℃、三箇日が2℃弱ですから、新年になってから一番暖かい朝でした。不思議ですね、ヒトの身体は1、2℃の変化がハッキリ分かります。寒いときは、1℃、いや0.5℃違ってもその温かさが感じられるものですね。

さて今朝がた7時ころに表堂へとお経に行きました、入行以来法華経1日一巻を読むようにしていますので、8日間で一部を読む計算ですね。およそ小一時間読経三昧で、いつもは寒いので内引き用のブランケット、アルパカの毛布を使うのですが今日は暖かで、ふようなくらいでした。

いつものように、読経三昧からもどって回向をはじめたら、なんと大猫が、ボス猫のような人相の悪いヤツが、こっちを見てました。目が合ったら、プイッと横向いて出て行ってしまった。

しばらくして、そいつがまた歩いてましたが、目が合うとプイッと横向いて、しまう。さっきボクの法華経の読経を聞いていた猫め!、と思っていたら、随分と昔聞いた説話を思い出した。

この猫、来世に人に生まれ変わるぞ?ッと変かことを思いだした。『今鏡』の昔語に、ある坊さんがお経を読むと、ヨダレが出るって?困って、祈願をかけたら夢を見た、「牛が車を引いて、その車には『法華経』一部が積んである。あるお寺の前で止まる、牛は門前につながれて、夏の暑い日、尾がハエを追いながら、口の周りにはヨダレがいっぱい、ハエがとまったりする。

するとお寺から法華経読誦の声が聞こえる、牛はヨダレをたらしながらそれを聞いている」、そこで僧侶は気づいた、私は前世では牛だった、法華経を聞いて、その功徳で人に生まれ変わったたと。

まあ変なこと言いましたが、ボクのお経を聞いていた、どら猫君、来世ではヒトに生まれ変わるかもね、こういう感覚になることが宗教心であったり、スピリッチュアルな感覚なんですね、不思議にそういう感覚になれるのが、修行の場ですね。

最新の画像もっと見る