本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

「非常な寒い気候で、ひどい凶作」という誤認

2015-11-12 08:00:00 | 「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い
「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い
鈴木 守
 昭和2年は「非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作」という誤認
 さてここで『新校本年譜』を見てみると、その昭和2年7月において、
七月中旬<注1>「方眼罫手帳」に天候不順を憂えるメモ。「肥料設計ニヨル万一ノ損失は辨償スベシ」
 昔から岩手県では稲作に関して旱魃に凶作なしといい、多雨冷温のときは凶作になる。
七月一八日(月) 盛岡測候所に調査に出向く(書簡231)。
七月一九日(火) 盛岡測候所福井規矩三へ礼状(書簡231)。
 福井規矩三の「測候所と宮沢君」によれば、「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」
というような記述がある。
 たしかに「多雨冷温のときは凶作になる」は尤もなことだが、「稲作に関して旱魃に凶作なし」とは言い切れないということは先に実証したところである。さて、そんなことよりここで問題とせねばならないことは、福井の「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」という証言である。ましてこの福井は当時盛岡測候所長だったから、この証言を皆端から信じ切ってしまうだろうからなおさらにである。
 そのせいでだろうか、その典拠を明らかにしていないので確かなことは言えないが、例えば
 わたしたちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏と一九二八年の四〇日の旱魃で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。当時の彼は、決して「ナミダヲナガシ」ただけではなかった。「オロオロアルキ」ばかりしてはいない。
              <『宮沢賢治 その独自性と同時代性』(N著、翰林書房)173pより>
という記述や
 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。
              <『イーハトーヴの植物学』(I氏著、洋々社)79pより>
そして、
    一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。
             <『宮沢賢治 第6号』(洋々社、1986年)78pより>
とか、『新編銀河鉄道の夜』(新潮文庫)の所収年譜には、
    (昭和2年)五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する。
というような記述に出会う。
 つまり「一九二七年の冷温多雨の夏」や「昭和二年は…六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった」などという断定にしばしば出会う。しかしながら、福井の証言「昭和二年は…ひどい凶作であった」は歴史的事実とはいいがたいことを先に私は実証したところであり、こうなると残りの「昭和二年は非常な寒い気候が続いて」の部分についても検証してみる必要がありそうだ。

 そこでまずは、同年譜が「非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作」の典拠であるという福井の「測候所と宮澤君」を見てみると、
 大正十三年のは、とてもきつかつた。雨が不足で一般に植え付けが困難であつたが、ことに胆沢郡永岡付近が水廻りが悪かつた。花巻方面はさほどでもなかつたが、後も雨が不足で作物が困難になつて来てをつた。昔から岩手県では旱魃に凶作なしといふて、多雨冷温の時は凶作が多いが、旱天には凶作がない。あの君としては、水不足が気象の方から、どういふ変化を示すものであるといふことを専門家から聴き、盛岡測候所の記録を調べて、どういふ対策を樹てたらよいかといふことに頭を悩まされたことと思ふ。七月の末の雨の降り様について、いままでの降雨量や年々の雨の降った日取りなどを聴き、調べて帰られた。昭和二年はまた非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった。そのときもあの君はやつて来られていろいろと話しまた調べて帰られた。
              <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)316p~より>
という記述があり、たしかにそこには「昭和二年はまた非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」と述べてあることを知ることができる。
 しかも、賢治の『方眼罫手帳』にはたしかに天候不順を憂えているとも思われる次のようなメモ
△気温比較表ヲ見タシ
△今月上旬中ノ雨量ハ平年ニ比シ而ク(ママ)大ナルモノナリヤ
 日照量ハ如何
 風速平均は如何
△本年モ俗伝ノ如ク海温低ク不順ナル七月下旬ト八月トヲ迎フベキヤ否ヤ
              <『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)386p~より>
もあるから、この福井の証言は素直に歴史的事実だったと思いたくなる。
 しかし、『新校本年譜』にあるとおりこのメモがこの年の「七月中旬<注1>」の記載であるというのであれば、冷静にこのメモを読んでみると、このメモからは実はそれほど賢治が「今までの天候不順や現状を憂えている」とは必ずしも受け取れるわけではなかろう。純粋に科学的な視点からの疑問と、そのための気象データを知りたいということを賢治は備忘的にメモしていたに過ぎないとも解釈できるからである。だからせいぜいこのメモから私が読み取れることは、「今後天候不順が起こるのだろうか」ということを賢治は気に留めていたということである。
 それは、例えば卜蔵建治氏の『ヤマセと冷害』によれば、大正時代以降は大正2年の大冷害以降しばらく「気温的稲作安定期」が続き、
 一九三一年(昭和六年)までの一八年間は冷害らしいもの「サムサノナツハオロオロアルキ」はなく気温の面ではかなり安定していた。むしろ暑い夏で…旱魃が多く発生している。<注2>
という(この歴史的事実はよく知られていることのはずだし、賢治自身もこのことに気付いていなかったはずがない…)ことだから、賢治のこの最後のメモ「本年モ俗伝ノ如ク海温低ク不順ナル七月下旬ト八月トヲ迎フベキヤ否ヤ」はこの当時は無用な心配であったことからも、賢治はそのことを気に留めていた程度であったということが裏付けられるのではなかろうか。

 実は、当時湯口村の村長等を務めたこともある阿部晁はいわゆる『阿部晁の家政日誌』を付けているのだが、その日誌には日々の天気も付記してある。そこでその日誌から昭和2、3年7月の天気について拾ってみると下表のようになる。

              <『昭和2年 阿部晁の家政日誌』より、なお降水量は盛岡地方気象台より>
しかも、阿部晁の家は花巻の石神(あの鼬幣神社のある地域、花巻農学校の直ぐ近く)であるから、これらの天気は当時の花巻の天気と判断してほぼ間違いなかろう。よって、上掲表に従えば昭和2年7月の上・中旬は雨量も多く「天候不順」にも見えるから、福井が言うところの「昭和二年はまた非常な寒い気候が続いて」は一見否定できなさそうである。

 ところが、その福井が発行している『岩手県気象年報』(岩手県盛岡・宮古測候所)に基づいて大正15年~昭和3年の稲作期間の気温と雨量のデータ、それも花巻のものを以下にグラフ化してみると、
《表1》

《表2》

《表3》

              <『岩手県気象年報(大正15年、昭和2年、昭和3年』(岩手県盛岡・宮古測候所、福井規矩三発行人)より>
となる。そしてこのデータに基づくならば、《表1》からは昭和2年も6月の田植時に雨量が少ないことが判るが、前年に比べればまだましである。また《表2~3》からは同2年は気温も例年より高め、3年間の中でいちばん高いので稲作にとってはよい傾向の年だと言える。
 ところで岩手の農家が一番恐れているのが冷害で、一般に
    冷害=多雨冷温
という図式が成り立つが、少なくともこの昭和2年はこれらのグラフから解るように
    多雨高温
であるからこの図式には当て嵌まらない。つまり福井自身がこの年報を通して、
    昭和二年は非常な寒い気候が続いて
ということを真っ向から否定していてることになる。
 それでは一体歴史的事実はどちらかというと、もちろん客観的なデータから導かれる方であり、
    昭和2年の稲作期間の天候は決して「昭和二年は非常な寒い気候が続いて」などということはなかった。
ということにならざるを得ない。そしてこのことは、先に実証できた
 昭和2年の稲作は県全体では平年作よりも0.8%の増収(稗貫郡のそれについては前年比約7%もの増収)だった。
とも符合する。
 よって、福井規矩三の「測候所と宮沢君」における「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」という証言は完全に間違いであり、福井の大いなる誤認であったということにならざるを得ない。それどころか、
 稗貫郡の昭和2年の水稲は天候にも恵まれ、周りの郡とは違っては稲熱病による被害もそれほどではなく、昭和2年の米作は少なくとも平年作を上回っていた。
と判断したほうがより歴史的事実に近かったと言えるだろうことがわかった。

 そこでくどくなるが、あまりにも誤認が浸透・定着している実態を憂えて、最後に
 少なくとも稗貫地方に限って言えば、「一九二七(昭和二)年は、多雨冷温天候不順の夏だった」とか「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」とか、はたまた「昭和二年は…未曾有の大凶作となった」というようなことは決してなかった。
と、そして、
・わたしたちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏と一九二八年の四〇日の旱魃で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。当時の彼は、決して「ナミダヲナガシ」ただけではなかった。「オロオロアルキ」ばかりしてはいない。
・昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。
・昭和2年:五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する。
というような記述をまるごとそのまま真実だと受け止めるわけにはいかないのだということを最後に確認させてもらいたい。

<注1> 実は、あくまでもこの「(昭和2年)七月中旬」は『校本全集』による推定であり、賢治がそう記していたいたわけではない。
             <『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)698pより>
<注2> ト蔵建治氏は次のように述べている。
 ところがその後、この物語(投稿者註:「グスコーブドリの伝記」のこと)が世に出るキッカケとなった一九三一年(昭和六年)までの一八年間は冷害らしいもの「サムサノナツハオロオロアルキ」はなく気温の面ではかなり安定していた。むしろ暑い夏で「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」=晴天続きで雨が少なく田圃に水がなくなり枯れてゆく水稲を見て、無念さから思わず涙する農民の姿=旱魃が多く発生している(図2・3)。この物語にも挙げたように冷害年の天候の描写が何度かでてくるが、彼が体験した一八九〇年代後半から一九一三年までの冷害頻発期(図2・2)のものや江戸時代からの言い伝えなどを文章にしたものだろう。
【図2・2『宮沢賢治の生涯とイーハトーブの冷害』】

              <『ヤマセと冷害』(ト蔵建治著、成山堂書店)14p~より>
 賢治が生きていた時代の冷害による凶作年としては、盛岡中学を卒業する大正3年までの間には明治35年(賢治6歳)、同39年(10歳)、大正2年(17歳)の3回があるにはあったが、賢治18歳~没年までの間は冷害はただ一度の昭和6年しかなかったことになる。
 なお、下表も参照されたし。





 したがって、少なくとも下根子桜時代は「サムサノナツ」であったことはなく、気象学的見地からは賢治が「サムサノナツハオロオロアルキ」するようなことは実はあり得なかったのである。もし仮にそのようなことがあったとすれば、それはそれこそ〔雨ニモマケズ〕をノートに書いた年、しばらくぶりに賢治が経験した大冷害であった昭和6年であれば理屈上では可能だったが、その年は賢治は東北砕石工場花巻出張所所長としての営業活動や、發熱・病臥のために実質叶わぬことであったということになるだろう。

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