本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

〝高瀬露は悪女ではない〟の〝全「証言」〟

2014-01-06 14:51:10 | 高瀬露
 初出年と思われる年次順に以下に並べてみ。
*********************************<「証言」集>************************************
<0.『高橋慶吾宛の高瀬露?からの書簡』(昭和2年6月9日付)>
(7) 露は賢治の所で賛美歌を歌ったり、パンやリンゴを御馳走になったりしたが遅くなったので寄るつもりだった慶吾の所には寄らずに帰った。<慶吾宛露?書簡>
(8) 賢治はまだレコードを聞かせると言ったが暗くなっていたので露はそれは辞退して早々帰宅した。その際露はずっと賢治に送って貰った。<慶吾宛露?書簡>
(9) 露は賢治から『女一人では来てはいけない』と言われたのでがっかりするとともに、今後は伺えないでしょうと慶吾に伝えて寄こした。<慶吾宛露?書簡>
ただし、食べたリンゴが〝マツ赤ナリンゴ〟となっているので、この書簡には多少信憑性に疑義あり

<注:昭和4年に賢治と露の間で書簡の遣り取りがあったと言われているようだが、公になっているのは現時点では賢治が書いた書簡下書のみなので資料として扱うことはアンフェアになるから、資料の対象としては外したい。

<1.座談会「先生を語る」>(昭和10年頃か)
(1) あの女のことで騒いだことがある。(高橋慶吾)
(2) 先生がおられるうちに女が来る、何でも借りた本を朝早く返しに来るんだ。(高橋慶吾)
(3) 先生はあの人の来ないようにするためにずいぶん苦労された。門口に不在と書いた札をたてたり、顔に灰を塗って出たこともある。そしてご自分を癩病だといっていた。(高橋慶吾)
(4) あの女の人はどうしてもいっしょになりたいといっていた。(高橋慶吾)
(5) 西の村の人達が二、三人来たとき、先生は二階にいたし、女の人は台所で何かこそこそ働いていた。そしたらまもなくライスカレーをこしらえて二階に運んだ。そのとき先生は村の人たちに具合が悪がって、この人は某村の小学校の先生ですと、紹介していた。よっぽど困ってしまったのだろう。ところが女の人は先生にぜひ召上がれというし、先生は、私はたべる資格はありませんから、私にかまはずあなた方がたべて下さい、とけっしてご自身は食べないものだから女の人はずいぶん失望したようすだった。そして女はついに怒って下へ降りてオルガンをブーブー鳴らした。そしたら先生はこのへんの人は昼間は働いているのだからオルガンはやめてくれといったが、やめなかつた。その時は先生も怒って側にいる私たちは困った。(高橋慶吾)
(6) あの時のライスカレーは先生は食べなかったな。(伊藤忠一)
(7) そんなようなことがあって後、先生はあの女を不純な人間だといっていた。(高橋慶吾)
(8) いつだったか先生のところへ行ったとき、女が一人いたので、「先生がおられるか」と聞いたら、「いない」といったので帰ろうかと思って出て来たら襖を明けて先生がでて来られたときは驚いた。女が来たのでかくれていたのであろう。(伊藤忠一)
(9) あの女は最初私のところに来て先生を紹介してくれというので私が先生へ連れて行ったのだ、最初のうちは先生も確固した人だと賞めていたが、そのうちに女がかくれて一人先生をたずねたり、しつこく先生にからまってゆくので先生も弱ってしまったのだろう。(高橋慶吾)
(10) しかし女もかわいそうなところもある。(高橋慶吾)

<2.関登久也のものと思われる日記>(昭和5年10月)
(1) 昭和5年10月4日の夜に高瀬露が関登久也の家を訪ねた。その際に賢治の叔母ヤスがやって来て怒った。それは露と賢治との結婚話に関してである。<関?日記>
(2) 昭和5年10月4日に高瀬露が関登久也の家を訪れ、賢治から貰ったという書籍を賢治に返してほしいと頼んで置いて行った。<関?日記>
ただし、理由は現時点では言えないがこの日記には多少疑問点がある。幸いその日誌の所在も教わったので今年中に現物に相まみえたいと思っている。

<3.高橋慶吾の「賢治先生」>(昭和14年11月)
(1) 某一女性が先生にすつかり惚れ込んで、夜となく、昼となく訪ねて来たことがありました。<「賢治先生」>
(2) 或る時、先生が二階で御勉強中訪ねてきてお掃除をしたり、台所をあちこち探してライスカレーを料理したのです。恰度そこに肥料設計の依頼に数人の百姓たちが来て、料理や家事のことをしてゐるその女の人をみてびつくりしたのでしたが、先生は如何したらよいか困つてしまはれ、そのライスカレーをその百姓たちに御馳走し、御自分は「食べる資格がない」と言つて頑として食べられず、そのまゝ二階に上つてしまはれたのです、その女の人は「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」とひどく腹をたて、まるで乱調子にオルガンをぶかぶか弾くので先生は益々困つてしまひ、「夜なればよいが、昼はお百姓さん達がみんな外で働いてゐる時ですし、そう言ふ事はしない事にしてゐますから止して下さい。」と言つて仲々やめなかつたのでした。<「賢治先生」>
(3) 先生はこの人の事で非常に苦しまれ、或る時は顔に灰を塗つて面会した事もあり、十日位も「本日不在」の貼り紙をして、その人から遠ざかることを考へられたやうでした。<「賢治先生」>
(4) その頃私がおうかがひした時、真赤な顔をして目を泣きはらし居られ「すみませんが今日はこのまゝ帰つて下さい。」と言われたこともありました。「賢治先生」
(5) お父さんはこう言ふ風に苦しんでゐられる先生に対して「その苦しみはお前の不注意から求めたことだ。初めて会った時にその人にさあおかけなさいと言つただらう。そこにすでに間違いのもとがあつたのだ。女の人に対する時、歯を出して笑つたり、胸を拡げてゐたりすべきものではない。」と厳しく反省を求められ、「賢治先生」
(6) 先生も又ほんとうに自分が悪かったのだと自らもそう思ひになられたやうでした。「賢治先生」

<4.関登久也の「面影」>(昭和15年9月)
(1) 賢治が亡くなる1年位前(昭和7年)の一旦病気が良くなった頃に、森荘已池が賢治にその後の露の行為についての話をした。<関登久也>
(2) すると翌日賢治は大層興奮してわざわざ関登久也の家を訪ね、露が賢治のことを中傷的に言っているので賢治は関にその弁解をし、了解を求めた。<関登久也>
(3) その際関は、かつて賢治が他人の言に対してその経緯を語って了解を求める様なことはなかったから、賢治の違った場合を見たような感じを受け、それだけ賢治が普通人に近く見えていつもよりも一層親しさを覚えた。その時の賢治の態度面ざしはいつもの凛としたものとは異なり、そ反対の普通の親しみを多く感じた。<関登久也>

<5.関登久也>(昭和18年9月)
 「返禮」
(1) 賢治は亡くなる1年位前の病気がひとまず良くなった頃に関の家を訪ねて来て、露が賢治のことを中傷的に言うのでそのことについて賢治は関に一応の了解を求めた。<関登久也>
(2) 関はその際の賢治がそれまでとは違って見えたように感じるとともに、普通人に近く見えて何時よりも一層親しさを覚えた。<関登久也>
(3) 賢治は露をどうしようとも考えなかったが、露は賢治を慕うあまり毎日何かを持つて訪ねた。当時賢治は独りの生活をしていたので訪ねるのには都合がよかったと思う。<関登久也>
(4) 他の人に物を与えることは好きでも貰うことは極力嫌つた賢治は、露から食物とか花とか色んなものを貰うた度に何かを返礼していた様だ。<関登久也>
(5) 賢治が露に贈った物の中には本などは勿論、布団の様なものもあつたそうだ。
(6) 露は布団を貰ったから益々思慕の念を強めたという話もあり、後で賢治はその事のために少々中傷された。<関登久也>
 「女人」
(11) 或る女の人が賢治氏を非常に慕ひ、しばしば協會を訪れました。<関登久也>
(12) 賢治氏が、一女のために勿論身をあやまるやうなことはないにしても、苦しまれたことは事実です。<関登久也>
(13) 政次郎は「その苦しみお前の不注意から起きたことだ。始めて逢つた時に甘い言葉をかけたのがそもそもの誤り。女人に相對する時はげらげら笑つたり胸をひろげたりすべきものではない。」と嚴しく反省をうながされました。<関登久也>

<7.森荘已池の『宮沢賢治と三人の女性』>(昭和24年1月)
(1) 協会員の一人が花巻の西の方の村で小学校で教員をしている露を連れてきて賢治に紹介した。<森荘已池>
(2) 露は村へ稲作指導に来た賢治をその小学校で初めて見た。<森荘已池>
(3) その後露はときどき賢治を下根子桜の家に訪問するようになった。初めのうちは、ちらけ勝ちなそこらここらが綺麗になったり、賢治が計画している芝居に出演して貰うことなどを考えたり、しっかりした人だと協会員にも語ったりして賢治も喜んでいるようだった。<森荘已池>
(4) 賢治は独り住まいゆえ露も訪問しやすかったのであろうし、かつ男独りの生活の不自由さを見て、露は訪ねて来るときは花とか食べ物、卓上用品などを持って来るのも当然のことであった。だから彼女の好意に溢れた贈り物はだんだん彼を恐縮させ、精神的に息づまらせて行った。もちろん、その度に賢治は本とか、花とか何かしらきっと返礼はしていた。<森荘已池>
(5) しばらくすると、どうやら露の思慕と恋情とは焔のように燃えつのって、そのため露はつい朝早く賢治がまだ起床しない時間に訪ねてきたり、一日に二回も三回も遠いところをやって来たりするようになった。<森荘已池>
(6) 賢治はすっかり困惑してしまって、「本日不在」の札を門口に貼ったり、顔に墨を塗って会ったりした。<森荘已池>
(7) あるとき協会員の一人が訪れると、賢治はおらずその女の人が独りいたので先生はいないかと問うと居ないという。仕方なく彼が帰ろうとすると俄かに座敷の奥の押入の襖があいて、賢治が現れ出た。その教え子は思わず二人の顔を見比べた。露の来訪を知って賢治は素早く押入の中に隠れていたのであった。<森荘已池>
(8) 1928年の秋の日、森が賢治を訪ようとして下根子桜に向かった際、和服姿の露とすれ違った。派手ではなかったが上品な柄の着物だった。その顔を見て異常だと直感した。目がきらきらと輝いていた。そして丸顔の両頬がかっかっと燃えるように赤かった。全部の顔色が小麦色ゆえ、燃える頬はりんごのように健康な色だった。かなりの精神の昂奮でないと、人はこんなに体全体で上気するものではなかった。歓喜とか、そういう単純なものを超えて、体の中で焔が燃え盛っているような感じだった。<森荘已池>
(9) 二階に音がした。しきりにガラス窓を開けている賢治を見た彼は私に気がつくと、ニコニコッと笑った。明るいいつもの顔だった。私たちは縁側に座を占めた。彼はじっと私の心の底をのぞきこむようにして「いま、途中で会ったでしょう?」といきなり訊いた。「ハアー」と森は答え後は何も言わなかった。少しの沈黙があった後賢治は「女臭くていかんですよ」と言った。<森荘已池>
(10) 花巻の近郊の村人たちが下根子に訪ねて来たことがあった。賢治はその人たちと一緒に二階にいたが、露は下の台所で何かコトコトやっていた。<森荘已池>
(11) 村人たちは、露のいることについてどう考えているかと賢治は心を痛めた。露は彼女の勤めている学校のある村にもはや家も借りてあり、世帯道具も整えてその家に迎え、今すぐにでも結婚生活を始められるように楽しく生活を設計していた。露はそれほど真剣だった。<森荘已池>
(12) 賢治は露に布団を何かの返礼にやったことがあった。その布団が露の希望と意志を決定的なものにしたのかも知れなかった。<森荘已池>
(13) 二階で談笑していると、露は手料理のカレー・ライスを運び始めた。賢治は「この方は、××村の小学校の先生です」と紹介した。皆んな食べ始めたが賢治だけは食べようともしなかった。露が是非おあがり下さいと賢治に勧めると、「私にはかまわないで下さい。私には食べる資格はありません」と答えた。露は口をゆがませ頬をひきつらし、目に瞬きも与えなかった。露は次第に震え出し、真赤な顔が蒼白になるとふいと飛び降りるように階下に降りていった。降りて行ったと思う隙もなく、オルガンの音がきこえてきた。<森荘已池>
(14) 顔色を変え、ぎゅっと鋭い目付きをして賢治は階下に降りて行った。「皆んな昼間は働いているのですから、オルガンは遠慮して下さい。止めて下さい」と賢治はオルガンの音に消されないように声を高くして言ったが、露は止めようともしなかった。<森荘已池>
(15) 露の噂は政次郎の耳にも入り、「お前のその苦しみは、お前が自分で作ったことだ――」「初めて女のひとに会ったとき、お前は甘い言葉をかけ、白い歯を出して笑っただろう。それが、そもそもの起こりだ。女の人に会うときは、歯を見せて笑ったり、胸をひろげたりしてはいけないのだ。お前は反対のことばかりしていただろう」。たしかにそのとおりなのであり、一言も返す言葉もなかった。<森荘已池>
(16) 「私はレプラです」恐らくこの一言が手ひどい打撃を露に与え、心臓を突き刺し、二度と再びやってこないに違いないと賢治は考えたのだ。<森荘已池>
(17) ところが逆に、賢治がレプラであることは露を殉教的にし、ますます愛情をかきたて、意思を堅めさせたに過ぎなかった。逆効果であった。露は賢治と結婚しなければと、すぐにでも家庭を営めるように準備をし、真向から全身全霊で押してくるのであった。露はクリスチャンであった。<森荘已池>
(18) 「私はレプラです」という虚構の宣言などはまったく子供っぽいことにしか見えなかった。露はその虚構の告白にかえって歓喜した。やがては賢治を看病することによって賢治の全部を所有することができるのだ。喜びでなくてなんであろう。恐ろしいことを言ったものだ。<森荘已池>
(19) しかしながら以上のような事件は、昭和3年に自然に終末を告げた。「昭和三年八月、心身の疲労を癒す暇もなく気候不順による稲作の不良を心痛し、風雨の中を東奔西走し、遂に風邪をえ、やがて肋膜炎となり帰宅して父母のもとに病臥す。」という年譜が、それを物語ってる。<森荘已池>

<8.佐藤勝治の「賢治二題」>(昭和29年2月)
 私は、「賢治○○」の著者から、病床の彼にその後のT女の行為について話したら、翌日大層興奮してその著者である彼の友人の家にわざわざ出かけて来て、T女との事についていろいろと弁明して行つたと、直接聞いたのである。その時はそんなにむきになつて弁解した賢治を一寸おかしいと思つたぐらいであつたが、その後にその手記が発表となり、後日「賢治○○」の著者の性格を知り、その後で又このようなDさんの話を聞くに及んで、この手記成立の理由が私には明確に解けたのである。<佐藤勝治>

<9.関登久也の「羅須地人協会時代」>(昭和32年8月)
(7) 協会を訪れる人の中には、何人かの女性もあったようだ。<関登久也>
(8) そのうちの一人が露で、最初は賢治も「なかなかしっかりした人だ」と露のことを誉めていたが、露が熱意をこめて来るので、少し困ったようだ。そこで「本日不在」という貼り紙をはったり、別の部屋にかくれていたりしてなるべく会わないようにしていたが、しまいにはさすがの賢治も怒ってしまい、露に少し辛くあたったようだ。<関登久也>
(9) 政次郎はそんな噂を聞いて、「それは、おまえの不注意から起きたことだ。はじめて会った時に甘いことばをかけたのが、そもそもの間違いだ。女人に相対する時は、ゲラゲラ笑ったり、胸をひろげたりして会うべきものではない」と、きびしく反省をうながしたとのことだ。<関登久也>
(10) これはあながち、賢治ばかりが悪いとも言えない。<関登久也>

<10.伊藤与蔵の『賢治聞書』>(昭和47年8月)
(1) 病気の賢治を見舞いに行った際、法華経について知りたかったならば高瀬露が良い本を持っているから借りて読んでみなさいと言われ、高瀬のところへ行ってその本を借りて読み、賢治に言われた農学校前の南部さんのお寺へ返した。<伊藤与蔵>
(2) みんなは楽器の練習を途中で投げ出したかたちになり、演奏会をやろうという最初の勢いもなくなり中止した。賢治のオルガンだけは上手になり伴奏などもつけてひけるようになった。たぶん高瀬露に習ったのだろうとみんなで話していた。<伊藤与蔵>
(3) 高瀬露が別荘に来ていたときに一度だけ会ったことがある。忠一と二人で別荘へ遊びに行き、「先生」と大きな声で呼んだら井戸のそばにいた露から「先生はお休みになっておられますから静にして下さい」ときつい調子で注意をうけた。忠一が与蔵に「先生の大事な人なんだろうから、静に帰ろう」というので二人は帰った。その時の露のそ振りは賢治の奥さんでもあるかのようだった。あとで伊藤忠一君から、高瀬露子さんという人だと教えられました。<伊藤与蔵>
(4) ある夜、高瀬露がお母さんと二人で提灯をさげて別荘の方に行くのに会った。提灯には「高瀬」と書いてありましたし、見たところ確かに露子さんでした。<伊藤与蔵>

<11.『宮沢賢治 その愛と性』(儀府成一著、芸術生活社、昭和47年12月発行)は単なるフィクション。資料たりえず。>

<12.「宮沢清六さんから聞いたこと」>(昭和49年10月)
(1) 宮澤清六が白系ロシア人のパン屋と2人で下根子桜に賢治を訪ねたら、賢治は二階の窓から顔を出し、清六が「おもしろいお客さんを連れてきた」と言ったら「ホウ」と言ったので2人は二階に上って行った。<宮澤清六>
(2) その時2階には先客の露がいた。都合4人でレコードを聴いた。その後露がオルガンを弾きロシア人は賛美歌を歌い、賢治と清六はじっとそれを聴いていた。<宮澤清六>

<13.校本年譜>(昭和52年10月)
(1) 羅須地人協会に女性のいないこともあり、露は劇のけいこなどには欠かせない人であったということだから、当初の露は賢治を始めとした協会員等から協会への立ち入りを容認されていた存在であった。<校本年譜>
(2) この頃(昭和2年の秋の早い頃)高瀬露は下根子桜の宮澤家別宅に時々訪ねてきたが賢治から拒絶されるようになっていた。<校本年譜>
(3) 顔に墨を塗ったのはハンセン病であると偽るためであった。<校本年譜>
(4) この時露が関家を訪問して同級生のナヲに告げたことは〝賢治がレプラである云々〟であり、これが噂となった一部に広まった。<校本年譜>
(5) この時賢治が父から説教を受けた訳は、賢治が不用意に「私はライ病ですから」と露に対して発言したからである。<校本年譜>
(6) 露が寶閑小学校勤務時の大正13、14年頃に同校で農会主催の講習会が度々あり、賢治は同会で講師をしていたので露とは顔見知りであった上、花巻高女で土曜午後にしばしば行われていた音楽愛好者の集いに露も出席していた。<校本年譜>

<14.小倉豊文の『「雨ニモマケズ手帳」新考』>(昭和53年12月)
(1) 賢治が露の単独来訪を拒否した最初は昭和2年6月9日頃であるが、高橋慶吾の話によると、この後も露の単独訪問は繁々続いていた。<小倉豊文>
(2) したがって、顔に灰を塗るとか、戸棚にかくれるとか、不在と偽るとか、森荘已池が訪問すると彼女の辞去後の室内の女臭さを嫌って風を入れたとかいった、むしろ奇矯ともいうべき賢治の行動は、何れも前掲の手紙以後であったと推定される。<小倉豊文>
(3) 賢治の露宛手紙下書によれば、二人の手紙の往復は賢治の発病後も継続しており、クリスチャンの露は法華経信者となって賢治との交際を深めようとしたり、持ち込まれた縁談を賢治に相談することによって賢治への執心をほのめかしたりしたが、賢治の拒否の態度は依然変わらなかったらしい。その結果露は賢治の悪口を言うようになったのであろう。<小倉豊文>
(4) このことは高橋慶吾は否定していたが、小倉は関登久也夫人ナヲからこのことを直接聞いており、賢治が珍しくもこの件について釈明に来たことも関から直接聞いている。<小倉豊文>
(5) 賢治が露の単独来訪を拒否したことが記してある葉書の日付である昭和2年6月9日頃以降も、露の単独訪問は繁々続いていたと高橋慶吾は言っていた。<小倉豊文>
(6) 〝露はその後も賢治への執心をほのめかしたりしたが賢治の拒否の態度は依然変わらなかったらしく、その結果露は賢治の悪口を言うようになったのであろう〟ということに関しては高橋慶吾は否定し、ナヲは肯んじていた。<小倉豊文>

<15.高橋文彦の「宮沢賢治と木村四姉妹」>(昭和55年9月)
 実は、杲子の足どりを調べていくうちに、賢治を初め、すでにこの世の人でない人たちの過去をほじくる姿勢に疑問を投じた老婆(ここでは触れない)に邂逅した。彼女は、Mというある著名な地元賢治研究家の名を引き合いにして、彼女はもとより多くの人たちが、ありもしないことを書きたてられられ、迷惑していることを教えてくれた。架空のことを、興味本位に、あるいは神格化して書き連ねた作品の多いことを指摘し、賢治を食いものにする人たちのおろかしさに怒りをぶつけた。<高橋文彦>

<16.上田哲の「賢治をめぐる女性たち」>(平成8年3月)
(1) 高瀬露が高橋慶吾の紹介で、はじめて賢治を訪問したのは一九二六年の秋であった。そして、一九二七年の夏のはじめ、賢治から「誤解を受けないために一人では、来ないように」と言われ、信用されないことを悲しく思ったが、以後訪問を遠慮するようにした。<上田哲>
(2) 露は「事実でないことが語り継がれている」、とはっきり言った。<上田哲>

<17.上田哲の「宮澤賢治伝」の再検証(二)>(平成8年12月)
(1) 露が賢治を初めて訪ねたのは大正15年の秋頃で、昭和2年の夏までいろいろ教えてもらったが、その後は賢治の仕事の妨げになってはと思って出入りを遠慮したと露自身がある歌人に言ったと、その歌人から上田は聞いた。<上田哲>
(2) 森荘已池が露に逢ったの1928年の秋の日が初めの最後であり、その後一度も露に会っていないということを上田は森本人から確認している。<上田哲>

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