ここで言わせてください

過去や現在
おりまぜてます。

根無し草 完

2022-04-15 10:40:00 | 根無し草
昨年、令和3年の4月上旬
叔母さんから父親が入院したと連絡が入った。

1〜2週間位で退院出来ると。
自営でまだ仕事も現役でしていたし、入院する前日まで自分で運転して色々出かけていたそうだ。

弟に何年かぶりに電話をした。
「電話したら喜ぶよ」と言われ
父親にショートメールでメッセージを送った。
「良くなることを祈っています」
「ありがとう」
と返信が来た。


子ども達にそれぞれメッセージを送るように伝えた。

何て送って、何て返信が来たかは聞いていないが
ちゃんとしてくれただろう。


翌日「体調どうですか?」と送っても返信は来なかった。
最近の子ども達の写真を送ろうとしてもショートメッセージに貼り付ける事が出来なかった。


入院から8日目の朝、
弟から
お父さん今朝亡くなりました。
とLINEが入った。


私は酷い後悔の念と喪失感に襲われた。

憎しみの対象、、、

私が今こうして、
自分の人生を
自分で選択して生きている!
それを見せつけてやろうと躍起になっていた相手が居なくなった。


葬儀の時Rさんに30年ぶりに会った。
弟はRさんの事を「お母さん」と呼んでいた。
可愛らしい奥さんと大学生になった息子と高校生の娘の4人で、Rさんを手伝っていた。


私は娘だけ連れて葬儀に出た。
父親の姉に当たる伯母さんに、父親と連絡を取っていたのかと聞かれ、子ども達の節目にお祝いが振込まれていたことを伝えた。それは良かったねぇと伯母は言った。


いつも連絡をくれる叔母さんは、駅からの行きも帰りもずっと私に寄り添ってくれた。


父親と私の希薄な関係を知っている親戚たちは、何故私がそんなに泣くのか、不思議に思っただろう。


このやり場のない説明し難い感情を、どこかにぶつけたくて
このブログを始めた。
一年前の4月16日に。

傷口をさらけ出し直視する作業はきつかった。

出来るだけ正確にその時の状況や感情を思い出そうとして、過去に何度も傷付けられた。

何十年も自分に問いかけていた。

「生まれてきた意味はあるのか?」

考えに考え抜いた結論。

『人生は成就するものだ』

それが答えだった。

どれだけ苦しくても生きる、
生き抜いてやる。



   〜〜〜〜〜〜〜〜


夫や、子供たちにも話してない事をブログには書いた。

私の育った環境を知っている人達は皆、神様の元へ戻って行った。

機能不全家族で育った私の過去を知っているのは、
私と、読んで下さった方だけの
秘密。

長い暗い話を読んで頂き

ありがとうございました。

おしまい。

根無し草 regret

2022-04-13 15:50:00 | 根無し草
私が父親と暮らしたのはのべ10年くらい。

家を出てから会ったのは全部で5回くらいかなぁ。


家を出てすぐの21歳頃に、私を可愛がってくれた大きいばあちゃんの10年の法事があり、

叔母さんから連絡を貰って会場まで行ったら追い返された。

その時に数分会った。


次に大きいばあちゃんの、亡くなって20年の法事。その時は追い返されなかった。

私が31歳の時。
お互い話をすることもなく、父親は遠くからまだ小さな子ども達をチラッと見ていた。


私が41歳になるまで長生きしてくれた、耳の不自由なおばあちゃんのお通夜とお葬式。

おばあちゃん、今までありがとう。私が生きてこれたのはおばあちゃんのおかげです。

凄く泣いた。一緒にししまるちゃんも凄く泣いていた。

中2になったピングーは、大人に混じっておばあちゃんの棺を抱えてくれた。

ひ孫たち、お陰様で無事に大きくなりました。
これからも見守ってくださいね。

     〜〜〜〜

その頃から父親から連絡が来るようになった。


叔母さんから私の携帯番号を聞き、電話をかけてきた。


私は体が強張った。


ちなみにその頃、私の弟は工業高校を卒業後バイト先で出会った一つ年上の可愛らしい女性と結婚して2児のパパになっていた。


父親からの電話は子どもを連れて出ておいで、一緒にご飯でも食べようと言うさそいだった。


何度も何度も連絡があるので、一度二人を連れて会いに行った。


回らない小さなお寿司屋さんに入り、弟一家と私達三人と父親の8人で二テーブルに分かれて食事をした。

上の握りを食べさせてくれ、
子ども達に好きな物を追加しなさい、と言って
子ども達が『まぐろ』と言ったのに
トロを頼んで、子ども達を喜ばせていた。

帰りにはお小遣いを渡していた。

゜゜゜゜
今までの私の生き様は何だったんだろう。
全部長い長い悪い夢だったのか。

゜゜゜゜
それから2〜3年後又、おいでと連絡があった。
ピングーが高校に入ったタイミングで沢山の御祝いが振り込まれてきた。

ピングーは高校の行事があった為、
私、サム、ししまるちゃんの三人で会いに行った。

サムは単身赴任で遠方におり、
ご当地のお酒を父親のお土産に買って来てくれた。

父親が色々失礼な態度と発言をして以来、実に24年ぶりだった。

私とサム44歳、
ししまるちゃん14歳。
無邪気なししまるちゃんは沢山話し、大好きなお刺身を食べ、帰りにお小遣いを貰っていた。
父親と分かれてから、私達三人は観光を楽しんだ。


だからと言って、それから交流が始まるわけでも無かった。
私から連絡することは無かった。


おいでおいでと言われても、ピングーの受験勉強や、ししまるちゃんのクラブ活動があり、中高生を抱える家庭の休日に
家族が揃って出向くのは難しかった。


ピングーが大学合格した頃
又連絡があり、
御祝い振込みたいのに、お前から連絡してこんかい。と軽く叱られた。


又皆で出ておいで、と言われたけど、
今度はししまるちゃんの大学受験で忙しく、合格したら、と断った。

出てくるのが難しかったら、こっちから近くまで行くよ。
と父親は言った。


私が、そしたら家へ来てもらったら、、、と言ったら
そうやな、それが良いなと嬉しそうに返事をしていた。


そのうち、コロナ禍になった。


ししまるちゃんが大学に入学して10ヶ月が経った。
昨年、令和3年の2月に再び父親から電話があった。

ししまるちゃんの受験について聞かれ、合格して入学していることを伝えた。

はよ連絡してこな、入学祝い用意してるのに。
と軽く叱られ、翌日に振り込んでくれた。


私はお礼の電話をして、最後に
「コロナが落ち着いたら子ども達連れて会いに行きます」
「お父さん、お元気でね」
と言った。
「おまえもな」

それが最後の会話になるとは思わなかった。

おいでおいでと何度も連絡が来て
入学の度に高校名や大学名を聞き、御祝いが振り込まれ

そのうち。

としか返事をしなかった。

私は凄く後悔をした。

今でも後悔している。

機能不全家族で一番立場の弱い私に全ての攻撃が来たのは分かっていた。

お父さん、20年前から後悔していたんじゃないですか?
だから、あんなに連絡を寄越して。
昔は凄く憎んでいました。


最期は私の子ども達に良いおじいちゃんと思われたと思う。

会いに行かなかったことを

私が後悔しています。

一年間苦しみました。




444 turn over a new leaf

2022-04-04 12:08:24 | self-awareness
まず始めに。。。

皆さまブログを通して仲良くして下さり、ありがとうございます!

R3.4.4、昨年の今日は土砂降りの雨でした。

私にとって、
あまり良い一年ではありませんでした…
というより、辛い試練の一年でした。


自分が壊れてしまいそうで
ブログを始めました。


何百回も自問自答をくり返し、
自分の軌跡を見つめ直し、、


生きると言うことは修行なんだ


と言うことがわかりました。


(人生は苦難を乗り越えること)
では無く、


『人生は与えられた事を成就すること』
だそうです。


先日ブログで紹介した、
加藤諦三先生によると


苦労の人生を生きる人は

   『苦悩能力』

と言う凄い能力を持っているそうです。


これは生きるにあたり、最高の能力だそうです。


私はこれを知ったから、これからの修行も楽しみになりました。


R4年4月4日 月曜日 快晴

私の誕生日。


命を与えて頂きありがとうございます!


関わって下さる全ての皆さまに
感謝します!


ありがとうございます!