特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

関宿橋のバス停と西関宿

2018年10月07日 17時57分13秒 | 旅行

鉄道線を有していない関宿町の人々は恐らく野田のボンクラどもよりも路線バスに対する造詣が深いと思います。
わたくしが花も恥じらう高校2年生であった遥か昔、関宿町木間ヶ瀬に住まう友人がおりました。
その友人宅にはお母さんが書いたとおぼしき小さいメモ用紙にミミズみたいな罫線を引いて手書きした
バス時刻表が冷蔵庫にマグネットで貼ってありました。
木間ヶ瀬というと以前覚えている個人的思い出のありったけを当ブログに綴った野12のことです。
子供の頃住んでいた野田市山崎のわたくしの家の至近にも野07という路線がありましたが日中7、8便しかなく、
自転車ひと漕ぎすれば梅郷駅から電車に乗ることができたのでうちのボンクラ母はバスの時刻表なんか書いてなかったと思います。
さらなるボンクラなわたくしはそのバスに乗って野田市駅へあるいは流山駅へ行ってまたそこからいろいろ知らない土地へ行くバスに
お得で便利な小児運賃で乗りまくっておりました。
友人宅の台所を見ながら、「あんなに本数が少ないにも拘わらず鉄道がないこの土地の人々はバスの時刻を大事に控えておくのだな」と思いました。

ここのところ関宿町シリーズと勝手に称していろいろ話しておりますが、町民でもなんでもない者にあれこれ言われるのも何でしょうから
今回を当シリーズ最後とし、後はお茶でも飲みながらプロ野球のクライマックスシリーズでも見たいと思います。

さて、前回昭和時代の境町の記憶を申しあげた際、「一度だけ東武動物公園駅ゆきに乗って帰ったことがあった」と書いたと思います。
その路線は東武から朝日自動車に移譲された今なお現役バリバリで、わたくしも当ブログのために最近2、3度乗ってきたところですが、
「これは後代の人々のために触れておいたほうがいいかな」と思った所が一点あります。



その路線の千葉県最後のバス停は「関宿橋東詰」といいます。
現在は関宿橋の本物の東詰からうんと北側のただの土手道の斜面にバス停が立っています。





ところが現在ある関宿橋というのは実は昭和から平成に改まった1991年に架け替えられた橋で、
わたくしの小学生時代は現在地よりもずっと北方にありました。


すなわち現在関宿橋東詰のバス停があるところこそが関宿橋の架橋地だったのです。
ただし橋詰そのものには法律上バス停留所を設けることができませんから、橋からバス車両長程度、法的に許し得るギリギリ程度かなと思われる離隔距離をとって
橋そばの道路挟んでバス停が2つ、境車庫ゆきと『杉戸駅』ゆきが立っていました。
バスの方向幕こそ改名したばかりの「東武動物公園駅」に更新されていましたが、沿道のバス停は未更新でまだ「杉戸駅 ゆき」と書いてありました。
またそのとき最前席からヒョイと行路表を覗き見しましたが、面白いことに「東武動物公園駅」の文字のうち「園」だけは画数が多くて文字が潰れてしまうので「口」と略字にし
「東武動物公口駅」と書いてありました。
また当時の東武バスの運賃表示器は幕式で運賃区界停留所のバス停名が表示されていたことを従前お話ししました。
ここもやはり運賃区界で「関 宿 橋 東 詰」と運賃表示の左側に書いてあるのですが通過して幕が動くと今度は次停留所の「関 宿 橋 西 詰」が出てくるのです。
幕変更前と変更後の字面がそっくりなので「あれ、また機械の誤動作かな」と思いました。
つまり運賃区はたったの1停留所間だったのです。
これは何を言わんとしているのかというと、橋の東詰か西詰を起終点とする古いバス路線が大昔あったであろうと推察できるわけです。
わたくしが死んだ後、後代の人々の間に昭和時代の関宿を調べようという方がいたならばこの点に留意しておいて損はないと思いますよ。
停留所名の上に丸数字が付されていたのも従前触れた通りですが片道一回しか乗ったことがないので何番が書いてあったか覚えていません。
ボンクラな子供には東武動物公園とやらがどれほど関宿から離れたところにあるのかわかりませんので、降りるときに持ち合わせの回数券やら現金やら書き集めても
お金が足りなかったらどうしようかと肝を冷やしながら道中すごしたものです。
なお現行の朝日バスは全く異なる運賃区にしているようです。


ところで、その境町~東武動物公園線以外にも野田市駅~小山・七郷~岩井車庫、野田市駅~境車庫、野田市駅~工業団地入口といった他の境営業所の路線に乗っていたことは
以前よりお話してきた通りですが、それらの路線を走るバスの車中で見ていた境営業所の路線図は覚えきれなかった、ということもお話ししたと思います。
しかしながら明瞭に覚えている部分もあって、それは「関宿橋西詰」のすぐ左隣に、
路線の起終点であることを示す二重丸の印とともに「西関宿」と書いてありその丸から線が2、3本出ていたことです。
「ん?西関宿?・・・関宿町にあるのか?関宿台町のもっと北の利根川と江戸川がくっ付く辺りにあるのか?」などと思案にくれました。




「西関宿」というのは関宿町でも千葉県でもなく、当時の埼玉県北葛飾郡幸手町、すなわち現在の幸手市の地名であることを後年知りました。
文字通り関宿の西にありますね。
江戸川の大河を越えた埼玉県になにゆえ千葉県の地名があるのかというと、実は当地は関宿城のお殿様が下に~~下にっ、と治めていた関宿藩領の一部であって、
さらに明治時代まで千葉県東葛飾郡関宿町に帰属した土地だったからです。
ちなみに西関宿の北隣にデンと鎮座する「五霞町」、茨城県の飛び地みたいな存在で何年か前デイリーポータルという有名サイトで取り上げられたこの町も
また丸ごと関宿藩領だったところです。

わたくしは同時代を生きながら一度も西関宿のバス路線に乗ったことがありません。大人の半額で乗れたのに惜しいことをしました。
しかし関宿町シリーズの最後にと、老骨に鞭打ち実際に当地を訪れてみました。




グーグルのストリートビューを見るとずばり「西関宿」というバス停が見えますが、現在はありません。
幸手市のコミュニティバスらしき路線があったようですが現在は廃止されています。

バス路線の「記録」というのはものの書物を見ればいくらでもわかります。
路線バスの車内に車掌さんの化粧の匂いが漂っていた時代をリアルに知らない若い人にだってわかるでしょう。
ところが乗った「記憶」となるとこればっかりは本当に乗った者しか語り得ないものです。
わたくしが訪れたときたまたま野菜畑の様子を見に来ていた地元のご婦人がおられて、西関宿のバスの思い出をうかがったのでご紹介したいと思います。
改めてご婦人に感謝申し上げます。




集落の中心、自動販売機が数基ある商店の隣に植えこみがあります。
その奥隣に青地に白抜き文字で「P」と書いてあるどこかの会社の駐車場、そのまた奥に赤茶色のトタン屋根のお家があります。
このお家が占める場所とどこかの会社の駐車場はもともと何もないぽっかりとしたひとつの空間でした。
昭和40年代、永久橋としての関宿橋が出来ると河川敷までのバス乗り入れを止めた東武鉄道はその空間に「東武バスのりば」という
標識のようなものを置いて野ざらしの折返場を設けていたのだそうです。
「西 関 宿」と方向幕を掲げ青い縞線が幾本もボディに引かれた東武バスが、ボンネットだったりリアエンジンだったり様々だったそうですが、
ここに着くと白シャツの車掌さんがトットコトと降りてきてそれほど大きくない声で「オーライ オーライ」と誘導しバスはお尻からこのスペースに入って停まり、発車まで一休みです。


目の前のお店の主人と一緒にお茶を飲んで一服していたり、車内から持ち出したバケツを抱えて断りなく近所の家の水道から水を汲むと
フロントガラスにビシャっと浴びせ、泥んこがへばりついた車体を雑巾でごしごし洗車していたそうです。
昭和時代には野田のわたくしの家でもよく近所で工事しているヘルメット姿の知らないおっちゃんが庭にいきなり入ってきて
水道の蛇口に口をじかに付けて水をゴクゴク飲んでいたものです。
それを咎める者など一人もいません。井戸水なんだから水道代もかかりません。よい時代でした。
スペース付近に待ち客用の椅子だったか石台だったか何らかの人が座れるものがあって、
客あしらいを終えた車掌さんが帽子をかたわらに置いて本を読んで座っている、という光景もあったそうです。
とっくに廃業したと思われるこの店を見てください。
「たばこ」の電照盤、路上埋込式の灰皿、そしてなにやらホーロー看板がある、わたくしの小学生の頃バス停のそばには必ずこういう佇まいのお店があったのです。





道路沿いをほんの10秒か20秒も歩けばそこはお隣茨城県五霞町で、
「ごかりん号」江川本村なる折返場がありますが当時はただの「人ん家」だったそうで西関宿とは時代も場所も全くの別物です。







西関宿のバス路線がいかなるものであったか。
それはこの『埼玉県市町村誌』の幸手町の頁において、「西関宿~吉田橋~幸手駅前」「西関宿~船戸橋~春日部駅前」と記載されている詳細に委ねまして、
今少しお話しを戻し、再び関宿橋について触れたいと思います。
ところで上図で西関宿の南で「至境町」の線と合しそのまま南へ直下して「至春日部」へと消えていく路線が描画されています。
これはわたくしの小学生当時でも境営業所の路線図に描画されていた西関宿~春日部駅東口線のことで、「西関宿ってどこだ?」と考えるきっかけになった路線です。
関宿橋西詰で杉戸・幸手方面行と別れたあと一番最初に「黒右衛門」という凄まじくインパクトのある名前の停留所が記されていたのが今でも忘れられません。
恐らく「クロエモン」と読むのでしょうが、もしも当時お金が自由に使える大人だったならば万難を排してでも現地のバス停を見に行ってたでしょう。
なお現行の境車庫~春日部駅東口線とは全くルートが異なります。



昭和27年の関宿橋。(『二川・関宿地区の民俗』 野田市史編纂委員会)
わたくしが小学生時代にバスに乗って渡った旧関宿橋のさらに一世代前、舟橋だったころの旧々関宿橋です。
前回申し上げた境橋と異なり、こんな橋では小山の渡し船にすら難なく乗り込んださしもの東武バスであってもまず通れません。
ずっと向こうに関宿閘門が見えるので手前側が埼玉県西関宿、向岸が千葉県関宿であることがわかります。
対岸の千葉県側の関宿のことを「東関宿」とも呼びます。
先の西関宿のご婦人もそう呼んでいました。
そうすると、東関宿のさらに東隣、利根川を越えた向こうにあった関宿領、すなわち現在の茨城県境町を東東関宿と呼ぶのかどうかは尋ね漏らしました。
東関宿の堤の上に陽光をこちらに反射するボンネットバスのようなものが映っています。
関宿橋は昭和7年に個人経営の橋として開通、昭和10年東武鉄道・茨城急行(現同名企業とは別)に所有が移るも
昭和13年河川氾濫で橋流出後「船橋組合」という団体の手に渡っています。
公共財ではなく私有橋なので、西関宿側に置かれた料金徴収小屋の屋根がチラッと橋たもとに見えます。



10年後、昭和37年の関宿橋。(『日本の河川 江戸川』 建設省)
これはいすゞBXでしょうか。手前が千葉県側です。
西関宿から渡って来る人を境町から来たバスが待っています。
運転士のおじさんが降りて橋を見ています。
このバスは関宿を抜けてそのまんま境橋を渡って茨城へ行きます。


この2年後、バスでも通れる橋梁の付いた関宿橋が下流に完成、関宿舟橋は破却・撤去されます。
関宿の西と東をつないだバス路線はこうして姿を消したのです。




関宿橋上から見た現在の江戸川上流。
赤い水利施設のもっと先、何やら工事をしているように見える桟橋のようなものが見えますが、さらにそのやや先が舟橋が架っていた所だそうです。
川を挟んで両岸にバスが止まっている姿が見えないものか、わたくしは飽くことなく橋上から川を眺め続け西関宿を後にしました。


2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (元東武沿線民)
2019-05-09 13:05:32
西関宿を通る東武バス路線は末期は五霞に入った「江川」というバス停まで行ってました。舗装もされていない回転場だった記憶です。昭和50年代終わりころまでは幸手、東武動物公園、春日部への路線があり、幸手以外は1日1~2本まで減っていたと思います。その幸手線も幸手市制施行のころひっそりと消えていきました。
返信する
ご指摘ありがとうございます (surrender90)
2019-07-18 22:41:28
江川は江川ではなく「江川車庫」と方向幕にございませんでしたか?
ところが車内の路線図には「江川」だけしか書いてなかった。
こんな感じで覚えております。
路線図では西関宿と江川は非常に近接して描画されていて、
相当近いところなんだろうなあと想像をめぐらしておりました。
運賃がいくら取られるのか怖くて一度も言ったことがないのが残念です。
ありがとうございました。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。