特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

野田市駅と野田車庫と柏03 柏駅西口ゆき

2017年08月02日 05時05分50秒 | 旅行
わたくしは公共交通機関を小児運賃で利用できる人生最後の時期、小学5年から6年生にかけての年月を野田市内の路線バスに乗って乗ってまた乗りまくって過ごしていたことは従前お話してきたとおりです。
今ブログを記しながら思い返せば一番乗車回数が多かったのが野田市駅~流山駅前の野07、恐らく次が柏03 野田市駅~柏駅西口線でありましょう。

 「柏03」は柏と称していながら実態は柏営業所ではなく野田出張所管内路線であり野田車庫から入出庫して運行されていました。柏11、柏14もそうです。
水堰橋の手前で柏駅へUターンして野田はバッサリという現役の柏03とは似て非なるものです。

 東武のあちこちの路線を見ますと、柏とか埼玉の新座など鉄道駅とバス車庫が甚だしく離れている土地が多いなかで例えば西新井車庫は大師前駅の目と鼻の先にありますね。

 

 東武バスの野田車庫とは一体どこにあったかというと実は野田の駅前そのものが野田車庫です。
法令によると旅客事業者の車庫には整備をなし得る器具工具の常備が求められ大抵給油設備があるので不燃材作りの建屋が必要とのことらしいですが、駅前にそれらしきものは見当たりません。


 目の前の県道を挟んだ向かいに整備のピットがあります。県道の両サイドをもって車庫としていたのです。
そして今もそのようです。
 
 而して野田市駅から出ていた路線は全車両が「野田車庫始発」を称さねばならないはずですが、不思議なことに車庫ではなく始発地は「野田市駅」です。
見知らぬ土地で路線バスに乗るのはどこへ連れて行かれるかわからなくて怖い思いをするものですが、「○○車庫」よりも「○○駅」と方向幕にあったほうが安心でしょう。
鉄道線で逃げればよいのですから。

 ところが柏03という路線には「野田車庫発着」というものがありました。
昭和56年には1日一本程度で、駅前で方向幕をグルグル回しているときに存在を知ったきりでしたが、遅くとも昭和58年の正月頃には本数が増え日曜日の昼間に一本柏からやってくる便があり実際に乗車しました。
さらに野田車庫発柏駅西口ゆきも日曜日の昼間にありました。
 


 昭和58年の野田市駅前の地図。当時野田市駅の改札に貼ってあった手書きの案内通り1~4番までバスのりばに番号を付しました。
『東武野田ギフトショップ』は東武百貨店の出張所のような店でしたが、昭和56~57年はまだありません。
その前にあるたどたどしく「野田車庫」と書いたところは柏駅西口発野田車庫行きの終点たるバス停が立っていたところです。



野田車庫の一部敷地に建てられた東武野田ギフトショップ。
ギフト品は大したものがありませんでしたが喫茶店のコーヒーがおいしかったです。
東武バス撤退より前に閉鎖されています。民度の低い野田市民にも虚礼廃止の明があったのです。




 現在、茨急バスが「1番線」と名づけており今緑色したまめバスが停まっている場所に東武時代「1番のりば」と「2番のりば」がありました。
2番のりばは野03 越谷駅行きと北越谷駅線用でした。
 問題の柏線は1番のりばから出ていて、今と同じようにシェルター屋根と長椅子を備えていました。



 当時の野田市駅のバス停の下手糞な復元図。1~4番まで皆こんな感じの電灯内臓型で野田市近傍では北越谷や岩槻にもこのタイプのバス停がありました。
電源取りは今日都内路線で見られる地中線供給ではなくポールのてっぺんに電柱トランスからの架空引込線受電部があり絶縁ブッシングらしきものが付いていましたが面倒なので略です。




 2番のりばの左にある怪しいスペースは昭和時代(恐らく今も)企業等の特定・貸切バス乗り場になっていて、以前触れた紫ゴルフ場のクラブバスや、すぐそばの工場内に駐停車場所があるにも関わらずキッコーマン社のバスが停まっていたことがあります。
 以前、梅郷電建住宅が出来たときに野田市駅前に青木功の顔が描かれた分譲広告の看板があった、とどこかでお話しましたがその看板があったのがここです。



 キッコーマン社員送迎バス(『野田醤油株式会社五十年史』)。トップドア車のようです。MR470かな?
窓下と車体最下部のラインは黄色で、キッコーマンのソース用卓上瓶と同じ色合いをしていました。
昭和37年の地下鉄日比谷線の北越谷乗入れで送迎地を東京都内から北越谷駅へ変更したそうですが、東武バス野田営業所が越谷駅行きに加えて北越谷駅行きを始めたのも同時期であろうと思われます


 

 さて、柏駅西口行きはこのような動線でのりばへ来て、大利根温泉行き・流山駅前行きと同じ1番のりばから発していました。
 しかしながら、柏・大利根温泉行きに1番のりばから乗る人を見かけたことは野田出張所廃止に至るまで記憶にありません。
強いて言えば一人だけ見ました。私自身です。



 見かけたことがないのは別に私のヒキの弱いせいではありません。
 柏03は、驚くべきことに野田市駅を出た後、終点に辿り着くより遥か前にまたまた野田市駅に戻ってくるのです。
このバスは柏とはあさっての方向、愛宕駅を経由後、野田本町通りすなわち流山街道を南下して野田市駅の4番のりばへ来ます。
 4番のりばは野田市駅にあるにも関わらず野田市駅を出たバスの「途中停留所」でもある、という極めてパラドックスなバス停だったのです。逆もまた真なり。




 駅を出てから10分内外で4番へ来るのだから柏方面へバスで行こうという人はみんな4番のりばへ行ってしまいます。
「①愛宕神社」「②下町」と運賃区界停留所を2つ超えてきたバスに乗るので、運賃も1番のりばから乗るより昭和時代は確か10円安くなります。
 
 昭和58年「柏16 野田市駅・野田車庫~梅郷電建第一住宅~柏駅西口」という野田管轄の新系統路線が加わりました。
 平成13年野田出張所閉鎖後、各路線の廃止・茨城急行への移管が行われたなか、柏03は柏駅西口~柏市立高校折返しとなり野田市駅・野田車庫で柏03を見ることはできなくなりました。
 TXが出来るやや前に乗った時、終点柏駅西口まで完乗すると駅発も車庫発も同じ運賃でした。昭和56、7年でもそうだったと思います。
 バスに特段こだわりのない地元の一般乗降客で終点まで完乗した人がいたかどうかは知りませんが。
 
 柏16は東武のままTX開業まで生き残り高田車庫の西柏営業所の車両で運行を続けていました。系統番号と起終点地を変えて今日なお「柏13 野田梅郷住宅循環線」として命脈を保っています。
 西柏への管轄替後ほどなくLED方向幕車ばかりが来るようになってしまい大好きな柏高島屋のロゴが見れず残念な思いをいたしました。
 

 野田市駅の案内図では「4番のりば」と書いてありましたが、実際は「野田車庫」と停留所ポールに書いてあり「4」などどこにも書いてありませんでした。



 これは平成13年の野田車庫バス停が写っているもので昭和50年代と異なりポール上部に「4」と書いてあり、先ほどの下手糞な図のバス停ポールよりすっきりしています。
電源が架空線なのがわかります。人の背中が見えていますがこの人も4番すなわち野田車庫からのバスを待つ人です。
4番と3番はまさに「一つ屋根の下」なのである雨の日、3番の東宝珠花行きに乗ろうと乗り場へ行くと屋根の下に4番のバス待ちの人がワンサカいて、体の小さい子供だった私は大人の足元にまぎれこんで雨をしのいだことがあります。

 


 ところで駅ではなく野田車庫発の場合、どういう動線で柏へ向かったかというとこのようになります。野田車庫発の車両は野田市駅行きと同じ敷地から出てきてるのに「駅」ではなく「車庫」発なのです。
小学生の私の目にこれは大変面白いこととして映りました。
 柏高島屋のロゴ入りなのは同じですが側方の方向幕はしっかり野田車庫発となっており、運賃表示も「券なし」からスタートするので整理券が出てきません。
8トラテープのイントロダクションも「コノてーぷハ柏ぜろさんケートー野田車庫ハツ大利根温泉ケーユ柏駅西口ユキデス」と車庫であることを強く主張して車内に流れてきます。


 なぜ全て車庫発にしなかったのでしょうか。
1つに野田~柏間のバスが開通した当時、旧野田町駅が「下町」付近にあり経路変更が出来なかったから、という歴史的理由の可能性もありますが、今ひとつは1番乗り場から出たバスに愛宕駅や愛宕神社から乗ってくる人が少なからずいたというのもありましょう。
幼時を思い出せば平日の夕方なら愛宕駅から勤め人が、日曜日だとヨーカドーで買い物してきた奥様連が愛宕神社から乗ってきたものです。かつぎ屋のおばちゃんが仲町から乗って野田車庫で降りていった、ということもありました。

 野田市駅1番のりばから出たこのバスが愛宕界隈で乗せた人々は野田市大殿井とか福田村の人たちです。
そしてそれらの地域は東武が撤退した今現在、大変に公共交通が乏しく、否、無いと言ってよい状態です。後から野田市に編入した関宿町よりもさらに惨状を極めています。

 自家用車を要する郊外戸建てより車の要らない都心タワーマンションを選ぶ若い人の増加、社会問題化する高齢ドライバー。
これを踏まえたとき車社会しか生活の選択肢がないこのような地域社会にこそ路線バスによる救済が求められているのではないかと、改めて思うのです。



 4番のりば=野田車庫バス停跡地。4つあったバス乗り場のなかで野田市駅名物、関東醤油やもろみの香りが最も強く感じられる場所です。
他所からやって来た人は定めし驚かれることでしょう。
商工地図看板と白ガードレールの間に隙間がありますがここからバスに乗りました。
野田車庫で降りる人がいなければ後扉をここへ合わせて停めてくれますが、降りる人がいると前扉をここへ合わせるので、
乗る人はガードレールと車体の隙間を後扉までカニ歩きのように歩いて乗っていきました。
現在ポールは抜き取られ、跡をコンクリで塞いでいます。
自販機のポカリスウェットイラストすぐ左に小さな植物を置いた丸い形をした植木鉢めいた物がありますがそこがポールの柱が刺さっていた場所です。
オレンジ色をした縦長長方形の謎の金属は昭和56~昭和末頃まで「危ないですから入らないでください 東武バス 野田営業所」とペンキ筆書きされた注意看板が取り付けられていました。
本体が失われ取付枠と土台の石だけが当時のまま残っていますが野田市の路線バス黄金時代のよすがとして永遠に残っていて欲しいものです。




コメント (5)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 新設バス停 「山下坂上」停留所 | トップ | 柏11 三井団地行とあおいそ... »

5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (北前橋)
2017-08-04 02:19:19
再びお邪魔させていただきます。

水色の大型電光式停留所は埼玉県の大部分+千葉県の
埼玉県事務所~大宮業務部の管内では広く見られました。
導入時期は恐らくは昭和50年代初頭、消えたのは昭和60年前後でしょうか。
ただ大宮近辺では四面体ではなく六面体でした。
メーカー品のようで近隣では関東鉄道にも土浦市内で六面体と同じものが導入されていました。

車庫を始発として事実上循環として再度車庫の前を通過する系統と言えば
今でも上尾駅西口~畔吉~西上尾車庫間は西上尾車庫を二度通ります。
上尾市畔吉地区は西上尾車庫の向こう側になり、半循環の分岐がちょうど車庫の前の交差点になる為
昔からそうしたルートで運行されています。

東武の車庫の位置ですが、駅に近い場所にあり昭和40年代に移転をするというケースが多いようです。
熊谷、前橋、越谷、日光などが挙げられます。
熊谷や前橋、今も残る日光は移転後の跡地を折り返し待機用のモータープールとして使用していた事もあり、名残が感じられました。
逆に上尾や越生は最初から駅より離れた場所に設置されており、
大宮や桐生は駅というよりは市街地からの移転になります。

記憶を辿って見ましたが取り留めない書き方になってしまいました。
またお邪魔せていただきます。
返信する
Unknown (北前橋)
2017-08-05 06:27:53
不自然に思い調べてみたら六角形ではなく八角形でした。お詫びの上訂正いたします。
返信する
Unknown (surrender90)
2017-08-08 22:44:34
コメントいただきありがとうございます。大宮駅のバス停が八角形であったとのことですが私の記憶によるともうすでに昭和57年頃だと広告も付いていない細長い四面のものになっていたと覚えています。岩槻駅で見たものは東武は水色枠の四面体で国際興業は緑色の電照のないものでしたね。
返信する
Unknown (ペリカン)
2017-08-09 12:06:41
こんにちは

路線バスの旅を地で行かれていたんですね

応援ポチです
返信する
ありがとうございます (surrender90)
2017-08-10 21:19:04
ペリカン様ありがとうございます。
小児運賃制度をフル活用してあちこち言ってましたよ。
ポチりありがとうございます。感謝です。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。