特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

柏07とボーリング場と素敵なラブリーボーイ

2019年08月13日 19時15分58秒 | 旅行

1980年代アイドル全盛期に少年時代を過ごしたわれわれ世代は
「右手に缶コーラ」と言われると無条件で「左手には白いサンダル」と歌いはじめる
不思議な習性をもっています。
夏色のと言われるとナンシーと返しますが渚のと言われるとバルコニーかシンドバッドという者、
あるいはハイカラ人魚という者もいるかもしれない。
まあそんな遠い遠い昔のお話です。

 

 


柏・流山間には諏訪道というさらなる大昔の古道があったと申しました。
わたくしが乗っていたバスは諏訪神社前というバス停からその諏訪道そのものを通り
古道としてあるいはバス路線としての終点流山へと達しておりました。
『流山研究 におどり 第7号』(昭和63年 崙書房)には道往く人に聞きながらやっさもっさとこの古道を辿る
面白い紀行文が載っています。

 


昭和30年前後作成と思われる『東武鉄道案内』(東武鉄道旅客課)においてもなお
諏訪神社は沿線の名所旧跡として紹介され豊四季駅の左側に柏流山間のバス路線とともに記されています。

 

しかしこの神社は酷暑でも深い森の木々で参道は暗く
柏駅からトボトボ歩いてくるとまったくもって実によい癒しスポットになります。

 

 


諏訪神社前を過ぎてすぐに野田線の踏切があります。
わたくしがバスの沼に落ちた頃すでに運河~柏間は複線化されていましたが
こんなゴテゴテした踏切ではありませんでした。
小汚いセイジクリームの4両編成がノッタラクッタラと通過すると電鐘の小さい音がしておりました。

 

 


踏切を越えると100㍍も行かぬうちに右側に材木屋さんらしき建物があります。
わたくしが初めて来たときもありました。あの頃もこんな佇まいでした。

 

 

その材木小屋を過ぎてほどなく後年お店でもやってたのかも知れないこの白いシャッターの建物の前辺りに
諏訪神社前の次のバス停「公民館前」が置かれておりました。
当時はこの建物はなく材木小屋の離れのような小屋が一つあっただけのように記憶しています。
地名が付いていないのでどこの公民館を指したものかわかりませんでしたが、
流山行きのバスに乗っていると道路右にあった数本の木立ちの奥に
「富士見町 青年館」と書いた2階屋の建物が見え「公民館前ではなく青年館前じゃないか」
と思ったものです。

 

 

現在は「富士見町ふるさと会館」と建物名が変わっているようです。
青年館へ通ずる小道の入口にはあの頃小さい牛乳屋さんがあって流山から柏へ行くバスからは
ガラスケースに並ぶ東武電車と同じ色をした「森永マミー」の小瓶がよく見え
喉の激しい渇きを覚えて身をよじらせたものです。
若い人たちが買っても飲まずに即捨てるというタピオカは置いとくとして
ビールとか乳製品とかは瓶入りになったとたん美味しそうに見えますね。
ペットボトルの処分先が無くなって今環境問題になってますけど瓶にすればいいんですよ、瓶に。
ガラス瓶は拾って酒屋持ってくと子供といえども10円くれますから。

 

 

 

 

「おキちやの」ではなく独特の存在感を示す「おもちゃのヒロセ」の隣、
明るい緑地のテントの店は今は呑み屋みたいになってますが、
あの頃はおにぎりとか鮭の切り身とか何らかの手作り食品を並べていた食料品店で、
そのまた隣、今富士タクシーの安全第一の看板があるスペースには、かつてブロック塀に囲われた
店屋でもなんでもない人ん家が建っていました。
その塀の前に「富士見町」というバス停がありました。
町名のわりにはここから富士山を望めた記憶なぞ全くありませんが、
このおもちゃ屋さんのウインドウには「がっくり都市」という強烈なワードと共にわたくし世代の
脳裏に今も残る名番組「世界一周双六ゲーム」のボード盤発売予告のポスターがあったのが
鮮やかに覚えています。

 

 

がっくり都市かどうか知りませんが隣には「ロンドン」という看板が残されています。

 

 


おもちゃ屋の道路向かいに建つ天気の子ならぬ松竹の子というお店は
東映でも松竹でもなくマツタケノコと読むそうですが当時はなく、
かと言ってただの民家とか空き地だったというわけでもなく何らかの地味な商店があったと思います。

その向こう隣の草ぼうぼうになっているところには中華料理屋のような食事処があって、
そのまた向こう隣のこげ茶のタイル壁で上部に化粧板を貼り詰めている建物は
「やちよ」という美容室でこれは小学生の頃からありまして「まだあったか!」とビックリしました。

そのまた隣には夕方頃バスに乗って差し掛かるとタレの良い香りの煙が
車内にまで入り込んでくるなわ暖簾の美味しそうな焼き鳥屋さんがあったと思います。
信号を越えてすぐには沿道に面して八百屋さんがありました。
この辺は道路の両側に商店が並ぶ「商店街」と言ってしまってもいいかもしれない雰囲気で
それなりに人っ気を強く感じる土地でした。

現在は徒歩10分か15分位の所につくばエキスプレスの「流山おおたかの森」なる新駅が出来て
路線バス需要は著しく減衰しましたが、そんなものなど存在しない、鉄道が近くにないような時代に
商店街らしき光景が沿道に広がっていたとはどういうことか。
すなわちこの界隈はかの古道、諏訪道を往く商人や諏訪神社参詣者相手の何らかの商いが成立するスポット、大げさに言うと門前町だったのかも知れません。
江戸時代ならば霊峰富士を拝みつつ茶の一杯を出す若い茶屋娘の一人や二人路傍にいてもおかしくない。
大正時代に柏のサカエ自動車商会がこの道にバスを走らせるようになったのも全く自然に了解されることでありましょう。

 

 


信号を越えると右側にまことに大きな白い建物が見えてきたものです。
現在山崎帝国堂という会社が入っているここには「タイガーボウル」と看板の残っていた
ボーリング場がありました。
当時すでに廃業してたようで陽の沈みが早い冬場にバスから眺めると明かり一つなく真っ暗でしたが、
屋上にはボーリング場であることを示すピンを模した大きなサインオブジェが乗っていて
鄙びた田舎道に忽然と現れる巨大な姿から強烈な印象を受けました。
ピンのみならず建物外壁が真っ白で一部に赤いペイントが残っていてア・バオア・クーの
ホワイトベースみたいだな、と思いました。



あのボーリング場の面影がネットに残されていないものかと検索したところ
なんと当時の姿がyoutubeにありました。
このボーリング場を見ていると今は失われた沿道の様々な光景がじわじわと思い出されてまいります。

 

 

その次に奇しくも「となりのトトロ」でネコバスが出現したバス停と全く同じ名前の
「稲荷前」というバス停がありました。この永寿稲荷神社に由来するものでしょう。
あちらは七国山行東電鉄バスでしたがこちらは流山駅東口行東武鉄道バスでした。
東電鉄のは一時間に一本ありますが、東武鉄道柏07は一日に4本で大した本数ではないにもかかわらず
東電鉄と同じように平休日別ダイヤになっていました。
乗降する人はいつ乗っても子供なり大人なり一人か二人はおられ、
何もなしに通過したことはなかったように思います。

 

 

ところで神社の大木の向こう隣、黄色い杭があって街路灯がある草ぼうぼうの土地にはあの頃、
緑色の網フェンスで覆われた結構広めのテニスコートがありました。


バス停標柱は神社そのものの前ではなくそのテニスコートの前に置かれていました。
テニスコートはどこかの学校のものだったか私設のものだったのかわかりません。
ボーリング場があってテニスコートもあるのだから豊四季という所はずいぶん球技にお熱な土地です。
サッカーとゴルフは隣の十余二に取られましたけど。

あるとき、稲荷前で降りる腰のひん曲がったお年寄りがいて
降車時に運転士席横の両替機に岩倉具視の五百円札だか伊藤博文の千円札だかを突っ込むが
何度も戻ってきてしまう。
それまで幾度もバスに乗ってきてそうしたやり取りを見飽きていたわたくしは窓の外に目をやると
当該のテニスコートの隅っこにぽつねんと置かれたラジオから流れる放送に耳を傾けました。
それは小川哲也という人が司会していた文化放送の日曜昼下がりにやっていた歌番組でした。


従前申し上げてきたように当時のアイドルブームは今日のタピオカブームとは比べものにならないほど
激甚な盛り上がりを見せており、第2次ベビーブーマーの価値観は根底から覆され
メディアは経験と美ではなく若さと可愛さを女性に求めるようになりました。


愛宕のヨーカドー2Fにあった新星堂では榊原郁恵や石野真子が駆逐され松田聖子だけの
1コーナーができておりバスで愛宕へ行って「渚のバルコニー」を買ったことがあります。
音楽配信やipodはおろかウォークマンすらない時代なので早く聞きたくて帰りは電車で帰りました。
現代人にも知られる「赤いスイートピー」は何だかスローのムード歌謡みたいにわたくしには聞こえて
食指が動きませんでしたな。
あの歌は大人になってから聞かないとその高い品質に気づかないのでしょう。

 

綺羅星のごとき当時の新人アイドルの一人に小泉今日子がいました。
当時の小学生が登校前に見ていた東京12チャンネルの番組で「おはスタ」というのがあって、
アイドルが呼ばれて持ち歌を歌うコーナーがありました。
それで事前に「素敵なラブリーボーイ」という歌で彼女の存在を知りました。

『レッドビッキーズ』を通してTVでよく見ていた林寛子のオリジナルは古すぎて
さすがにわたくしも知らない。
ところで志賀ちゃんは今どこでどうなさってるのでしょうか。

 

下らないアイドル論評で話が大きく脇にそれつつありますが、
さて、ラジオは小泉今日子とスタジオ間で生電話をしており、まだ「キョンキョン」なる
愛称は一般的ではなく、小川哲也は「コイズミサン」と呼んでいました。
アナログタロウのような不要不急な前口上の後にアップテンポなイントロが続いたところで
コートのなかにいた麦わらを被ったおじさんがプチッとラジオを消してしまいました。

「あなたは特別な男の子~」の1フレーズを期待していた特別な男の子でもなんでもないわたくしは
突然の静寂に気づかぬままうろ覚えのそのフレーズを口ずさみました。
すると建物探訪の渡辺篤史みたいな顔した運転士のおじさんが背筋を大きくねじってわたくしを一睨みしました。
さらに通路挟んで真横の席に濃紺のボストンバックのようなものを膝の上に置いて座る
おかっぱの中学生みたいなお姉さんが拳骨を口に押し当てにやにやしながらわたくしを見ていました。
ある意味針のむしろの特別な男の子になってしまったわたくしは
大変恥ずかしくなり、歌詞に相反して何ものをも自由にできなくなりました。


人には忘れなければならないこともあります。
個人的にはむしろ忘れたいエピソードでした。
しかし崙書房のいう「記憶を文字化する」行為をいざ自身で行なってみたとき、
せっかく忘れていたのに鮮やかに蘇ってしまうものがあります。
そして隠蔽したい記憶をどう扱うか迷う場面にぶつかります。
隠蔽すると後世に紡がなければならないものまで無かったことにしてしまいます。
安倍さんはどうしますかね。

 


当地には路線バス停留所があった痕跡として、錆きって判読不能に陥った琺瑯看板が残されています。
電話番号の市外局番が4桁でこの錆具合からもしかするとわたくしが東武バスの中で
素敵なラブリーボーイを独唱したあの日にもあったかも知れません。
そう思うとバスの思い出とともにまた恥ずかしさがキューっと胸にこみあげ、
あの日あの時バスに乗り合わせた人がこのブログを見つけたらどうしようかと心配になってまいります。


いよいよ次のバス停から流山市に突入しますがそれはまた次回お話ししたいと思います。



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。