特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

西関宿から春日部へ行くバスと古い国境線3 武蔵国へ

2021年06月15日 23時59分34秒 | 旅行

千葉県のみなさまおめでとうございます。本日6月15日は千葉県民の日でございます。

 

 

さて、わたくしは西関宿~春日部線を辿っておりますうちについに国境を越え千葉県の北半を構成する下総国とお別れと相成りました。
 ところでこれまで出てきた下総国葛飾郡の人たちが千葉県民から埼玉県民へと見事に転身なされたのは明治8年のことでございました。
 千葉県民であった前は印旛県民、印旛県民のそのまた前は葛飾県民。その流れはわたくしの郷里の野田の連中と同じです。それで国境線に沿ってキッコーパンのお店があったのかはわかりません。
 
 


 そうするとここいら辺りの下総国の偉大な先人たちは県に陳情に行こうとしたら遥か江戸川向こうの流山市、後には千葉市までテクテク行ってそして当然帰ってきていたわけでそれは交通の発達した現代人からしても相当に大変なことでありましょう。
 もし当地で罪人が出たら首も胴体も帰ってきません。何故なら川を越えて流山の葛飾県庁まで送致され、わたくしが小学生時代にその山の怖さも知らずに柏行きのバスによく乗った怪山で斬首獄門とされたからです。西関宿のある幸手市には将門公の首塚があります。

 


 
葛飾県・印旛県の時代は帆掛け船にでも乗れば多少は労の減る江戸川べりの流山だからまだよいでしょう。
 ところがこれが千葉県となったら江戸川を下りきってもまだなお先の、絶海断崖人外魔境、ここは地の果てアルジェリアどうせカスバの夜でも咲かない前途遼遠艱難辛苦を乗り越えたはるか彼方、上総国との境にある千葉市まで行くわけで気の遠くなるような長旅になります。あまりにも遠いんで当時の村長さんが千葉県庁までの旅費をどう工面したかを記した貴重な古文書が埼玉県には残っているそうです。6月15日をさぞ苦々しい思いで迎えていたことであろうと思われます。
 

 

辿って来たバス路線は船渡橋を渡りいよいよもって葛飾郡は葛飾郡でも武蔵国葛飾郡に歩みをすすめることとなりました。バスが生きていた当時は信号機はなかったでしょうがここを左折して春日部へ行っております。粕壁宿と関宿を結んだ古道だと言いながらこんな直角に曲がる道だったのか?と訝しむかもしれませんが大正時代おそらくまだバス開通前のことと思いますが中川の氾濫を抑えるために道路の新造、付け替えがあったのでこんな交差点が出来上がったのです。

 

 

 


左折して左手の中川の向こうに懐かしい下総国を拝みながら200か300メートルほど行くとこういうT字路が出てきます。バスがあった頃ここから先の直線道路はありません。そのかわりほぼ直角に近いこの急カーブでバスは右へぐいっと曲がっていて、そしてこの急カーブの前後に船戸橋の次のバス停「東電前」という停留所があったというのですが・・・・・東京電力のことでしょうか?
 しかしくるっと見回しても手作り豆腐工房京屋とかいうお店に目を奪われてどこにも変電所や送電線鉄塔が見当たりません。この角のやや手前にちっちゃな畑あってそこで野良仕事してたおばあちゃんがいたので尋ねてみましたがここのバス停のことはあまりよく覚えていない方でした。
ところでどうして真っすぐの道がなかったのか?
バスが走り始めた頃、この先は中川が一番暴れていた所でバスどころか人すら通れなかったらしい。あまりの暴れ川ぶりにたまらず村人が八幡様のお社を築き、水神の怒りを鎮めていたといういわくつきの土地だったのです。八幡様というと源氏の神様で春日部には源氏方の八幡神社がありますから、やはり春日部までバスが通じていたのはインビジブルハンドオブゴッドだったのです。

 
中川低地の水田が美しい・・・・遠くに赤城榛名の山々の連なりが霞んで見えます。かつては腰を曲げて田植えする人の姿を見ながらここをバスが走っていたのですな。


その次のバス停は「六地蔵」といい、どこにあったのかはそのまま道を行くとすぐわかります。
なぜならお地蔵さんが分かりやすく道沿いに並んでいるからです。ただ6体以上あるのがなんともかんともですが。
 で、先の畑仕事のご婦人によるとこの地蔵さんの近くだか道挟んだ向かいだかにかなり昔、何らかの商店があったそうでやはり昭和時代のバス停というものはお店のそばがよく似合います。
 しかしロクジゾウとは東武バスも心の琴線に触れるよい名を採ったものです。すげの笠と手ぬぐいをかぶせればうちの前に米俵とか金銀財宝を持ってきてくれるかも知れません。

 

そのうち杉戸町の町営バスのバス停がぽつりとあるのが見えてきますが東武バス時代はここにバス停は設けられていません。バス停の丸板に「反対側を兼ねます」と注記してあり道の片っぽにしか標柱を置かないという懐かしいやり方をしています。東武バスもこの路線では同じことをしていたことが地元の方の話でわかっています。自分が乗ったことのないバス路線については乗ったことがある人の証言が絶対無比です。しかし背後の田んぼの美しいことは言葉を要さないほどです。

 

 


 
先の暴れ川の部位を避けるようにグル~と円を描くようにカーブが続く道をまだまだ往きますとバスと全然関係ないんですがヤマザキデイリーストア、土渕商店が右にあります。もう30年くらいやってます。
ここ、わたくしの母が杉戸町でパートで働いてた頃の行きつけのお店で、母と一緒に来たらなんだか店のおばちゃんと仲良く喋っていて、お弁当1個買うと伊藤園のおーいお茶を1本無料で貰えるサービスがありましたがはてさて今もやってるのかな。バスなんかとっくのとうになくなってて車で来ましたけど。

 

やがて他の道との十字路が出てきます。この十字路のこちら側に「萬年橋」あるいは字面を変えて「万年橋」という名のバス停がありました。左折してかなり行ったところにその橋があるのですがバスは真っすぐ行きます。ブロック塀に琺瑯看板がありますね、なんとなくバス停がここにあった匂いがいたします。

 

万年橋は中川に架かっていて橋の向こうはまた下総国です。粕壁町の住人越沼良助氏が乗合自動車業を興したのとほぼ同時期、大正14年10月に完成しており万年橋のバス停は当時すでにあったかもしれません。

 


先の十字路を進むとまた太い道路と交差します。向こうにも続く道があります。この交差している道路はかなり近年に出来たようでバスの行路に全然関与しません。バスは向こう側へ続く道へ進むのです。


道のかたわらの電柱に昭和22年カスリーン台風の水位というのが取り付けられています。低地は美しい水田と引き換えに大いなるリスクを背負うのだ。

 


電柱を過ぎると、、、、これまた狭い!
 前回の東川のバス停があったところとどっこいどっこい位でしょうか。戦前のシボレー、A型フォードだと車幅2200あたり、いすゞBUが2500くらいでしたか、いずれにせよギリギリ。すれ違いなんてとんでもない。車掌さんも顔出せませんよ。
 新編武蔵風土記稿に「関宿往還カカレリ巾九尺許」とあって九尺許すなわち2700あるかないかだと言っておりますから江戸時代から幅員がほとんど変わっていないまさに古道っ!


 と、ここでわたくしは道の狭さを覚えながらそれに相反するある思案をいたしました。

 

 乗合バス、それ以前は乗合馬車、そのまた前は人力車、リックショー、さらにその前は馬一頭に人間が一人通れれば道というものの幅員は十分であった、競馬のゲージは宝塚記念でゴールドシップが立ち上がってしまうほど狭いですね。
 平地が甚だ乏しい日本の国土において、公費でもって貴重な平地の面積を道路のために大きく割くことが国土利用の正しいあり方なのだろうか、わたくしたちの世代は日本経済は永遠に成長するなどと大人たちに騙されてしまったので幼いころから「道路が広くなりました」と上の世代の声高な咆哮を聞くと何も考えずに「それは良いことだ」と馬鹿喜びしていた。
 米中みたいな成長の余地がふんだんな超大国ならまだしもあらゆる経済事象が急速にシュリンクする、言葉を選ばずに言えば衰退国となった日本を目の当たりにして日々を過ごしている例えばさとり世代のような頭脳さかしくあらゆる事象の損益計算に巧みで賢い後代の人々は「道路が広くなりました」と聞いて果たして喜ぶだろうか?と。


道は幅員を保ち、左の青葱の向こうに再び中川のおだやかな水面が現れ総武両国の岸辺に一陣の涼風をもたらす。

 

 

まもなく道は広くなり万年橋の次のバス停跡地がやってきますが、また次回。


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