特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

西関宿から春日部へ行くバスと古い国境線4 春日部

2021年07月01日 23時59分07秒 | 旅行

今、中国の秦の国を描いた『キングダム』というアニメがNHKで放映中ですね。
少年時代の始皇帝が囚われとなっていた趙の国から国境を越えて秦へ脱出する話がうんと最初の方のストーリーにあるのですが春秋戦国時代でも国境線は非常に大事な概念であったのだと思い知らされます。

ときに下総と武蔵の国境はどこか。
この細道の左を流れているのが中川。川の向こうは下総国、今いるのは武蔵国。
この武蔵の側にあるとんでもない細道を、死地に力ずくで活路をこじあけるために常に皆の背についていた天下の大将軍王騎のごとくバスは春日部駅目指して疾駆していたのです。


右を見るとこれまた美しい田んぼ。まことに目の保養。
外米輸入などまだ解禁されておらずわたくしが乗りバスにかまけていた小学生の頃、社会科で水稲耕作の授業があって「田植えをする前に田んぼでしておくことはなにか?」という問題がありました。
 答えは「しろかき」だったと思いますがある子が先生に指されて「田植えで腹が減らないように米を喰っとく」などと答えて「その米をこれから作るんだろうが、馬鹿」と先生が言って教室が爆笑の渦に包まれたのを思い出しました。

 


さらに細道を2、300メートル進みけっこうなカーブを曲がるとやっと道路に中央線がペイントされた太い道になりました。
なおバスがまだあった昭和50年代に至っても幅員は狭いまんまだったそうで運転士さんも車掌さんもなかなかに大変なご苦労があったことと思われます。

 


やっと太くなった道を進むとT字路があって前方に墓地がありその向こうにこんもりしたちっちゃな森があります。この森は古くからある香取神社の祠です。
 バス開通時この地は埼玉県北葛飾郡田宮村、その前は武蔵国葛飾郡蓮沼村といっていた所ですが、前々回お話しした広報すぎとに「関宿町から松戸行きのバスが出ている」と勘違いした文章を記した筆者は「北蓮沼 北蓮生」と名乗っているのでこの地の人なのでしょう。
 なお北蓮生氏は同じコラムの中で、「おくのほそ道」を往く松尾芭蕉一行が粕壁宿から関宿の関所にさしかかったところ水上の船荷検分はあったが陸路の通行人に対しては取り調べがなかったので門人河井曾良は驚いたようだ、と書いていますがこれは関宿と日光街道栗橋の関とがごっちゃになってしまっています。しかしもしかするとこのブログで綴っている春日部駅~西関宿~栗橋駅間のバス路線が大いに杉戸町内を経由していた事実に引きずられての誤記かもしれません。
 ところでここにある神社が武蔵とちっとも関係のない下総の一の宮、香取神社であることは非常に興味深いことです。

 

どうしてかと言うと、武蔵国の人々が崇め奉るべき神は大宮に鎮座する氷川神社でなければならないからです。
 わたくしの郷里下総野田は香取神社はもちろんですが茨城県と踵を接しているので常陸国の鹿島神社もそこここにあって実際そうした名前のバス停がごろごろしていました。
 練習巡洋艦の名でなぜか今日なお一部のゲーマー層によく知られている香取と鹿島は元来利根川の水神であったのですが当地には中川があっても利根川はありません。これこそ徳川氏の関東移封以前の武蔵国葛飾郡が丸ごと下総国であったという証拠なのです。わたくしはまだ国境を越えていなかったのだ。キングダムなら趙の弓矢の一斉射撃を喰らうことでしょう。
 最近youtuber31人が宴会・立ちションして大きな騒動になっていますがあのニュース見てたら、かなり前に弊ブログでお話しした柏・花野井の香取神社で子供の頃立ちションした記憶が蘇ってきました。

 

萬年橋から辿ってきてちょうど1kmほど、ここが次のバス停「火の見下」停留所があったところでしょう。しかし現在ではぐるっと見回しても火の見やぐらなんか見当たりません。


ただし沿道右側に杉戸町消防団第八分団という消防団の建屋があります。

 

消防団を過ぎると野良仕事中に立ち話していた70~80歳くらいの女性が2人いたのでバスのお話しを伺いました。2人なので片方が間違ったことを言うともう片方が訂正するという具合なのでよい話がきけました。

「もう40年前かそこらにはなくなってた。そこのなんと言ったか、火の見のとこにバス停があってバスとまるんでそこで降りて帰ってくるんだ。道の幅は今の半分しかなくて砂利道だった。自転車じゃタイヤがパンクする。バス来るとそらもう砂利のほこりがすごかったな。道広げるというんでうちはひっこめさせられたんだ。道が広がった頃は朝と夕に一度ずつしかなかった。道の細かったその前は結構あったよ。バスだか電車だかの車掌やってた人がここからちょっと行ったところに住んでたんだけどもう亡くなってしまったんだけどバスに乗って帰ってきたことがあった。朝早く出てって夜遅く帰ってきて大変だったと思うよ。栗橋??いや関宿に行ってたんじゃなかったかな、乗ってったことないけど春日部にはよく行った。結婚式だの葬式だのでいかなきゃなんないから。あとびっくり市っていってバスがよく溜まってたところ(駅前にあった旧春日部車庫か?)の裏あたりで肉が安くなるセールやってて、それがあるときはバスもなんだかよく混んでた。びっくりというほど安くないけどな(一同大笑いす)。まあ大荷物でな、みんな。今だと杉戸のバス(杉戸町内循環バス)あるけどあれは(顔を見合わせながら)使い物にならないよ」。

なんとなーくじんわりと往時の乗合バスの風情というか素朴さというかそんなものが窺えるよいお話しでした。

 

 

 


さらに往くとある伝兵衛橋。まさか橋の上そのものにバス停を置かなかったでしょうがこの辺に次の伝兵衛橋というバス停がありました。先日のタモリ倶楽部はバスマニア特集やってまして世田谷の水車橋とかバス停の歴史的な名前についても取り上げてましたがここは恐らく伝兵衛さんという人が作った橋なんでしょう。

 


ひなびた沿道に突然ストロベリーショートケーキという随分ストレートな名前のお店が現れました。もちろんバスがあった時代には存在していなかったでしょう。ググったら本当に苺のショートケーキに特化しているお店らしいです。
 この店名を見ているだけで深キョンやら今ジャニーズの社長になったタッキーの初々しい制服姿が脳裏に浮かんでくるのはなぜでしょう。

 

 

しばられ地蔵という、荒縄でお地蔵様がぐるぐる巻きにされてるとんでもないバス停が中川の下流に下って行くとありますが、同じ川の中流域には魔よけの赤布を纏って橋を往く里人を暖かな眼差しで見守るお地蔵様がいます。
次のバス停だった「堤根橋」はお地蔵様のさらに左側、隼天神というお社に通じている小道の入口あたりにあったそうです。

 

さらに春日部方面へ400メートル。急な左カーブがあります。


 カーブ越えるとすぐにデイリーヤマザキが右手に見えその軒先からややこちら10Mほど戻った所に「桑崎」というバス停がありました。店舗の道挟んだ向かいに「沢の鶴 Yショップ プチマート」という電照看板があります。こちらは前回お話ししたデイリーヤマザキと違って母の行きつけでも何でもありません。
 桑崎というのは脇道に入れば通じる杉戸町大字堤根字桑崎という字名から名付けたのは間違いなさそうですが、バス停が置かれていた場所は厳密には大字本郷という土地で春日部駅まで歩いて通っている人もいるのだそうです。この辺りは明治初期の迅速測図でも集落が確認できるのでバス停が設けられてしかるべき場所です。
気づけば道路の中央線は追越禁止の黄色い線に変わっており、もはやのどかな田舎道といった風情がだいぶ薄くなってきました。

 

ほんのちょっと行くと杉戸町から春日部市に入ります。建物が道の両脇に続くようになりましたが一応これでも古道「関宿道」であって、往時は関宿藩士が江戸へ行くときにも使われた道です。
 先のご婦人方の話によれば、沿道にこんなに建物がぽいぽい建つようになったのは昭和50年代中庸からの話であって当路線の最末期になってからのことです。それまではともかく本当に何にもない、街灯一つすらないので夜は真っ暗、それはそれは怖い道であったと述懐しています。


物流倉庫だらけの面白くもなんともない殺風景な道を1キロ近く進むとサンギという会社さんがあります。この辺りに「西不動院野」というバス停がありました。
 肝心のお不動さまはじゃあここから東に行けばあるのだろうと思いたくなりますがありません。
 なんでも反対側の西にあった小淵不動院というお不動さまの知行だったので不動院野と呼ばれたのだそうですが、肝心の不動院は「春日部市史」によると廃仏毀釈運動でこなごなに破壊されたということです。お不動さまなのに不動の地位を築くことはできなかったのです。
 

 


国道4号線と交差する向こうに高々と立派な松の木のお屋敷があります。先のご婦人方はこの国道すなわち奥州街道、一名日光街道のことを「オナリミチ」と面白い呼び方をしていました。

 

その大きな松の影の下には日光街道と関宿道とを分かつ小渕追分の道しるべという古い石碑が二又道のど真ん中に鎮座ましましておられるのですが、それをちょっと過ぎたお屋敷の美しい白壁のあたりに「小渕」というバス停があったそうです。ここは日光街道の道中であり関宿道の起点にもなっています。
 ここから西には食肉偽装で悪名をはせた雪印食品の工場がありましたがその地はもっと前は地方競馬の春日部競馬場だったというのを最近知りました。馬肉を牛と偽装して出されたら競馬ファンは泣きます。さらに西へ行くとあるのがクレヨンしんちゃんの聖地・北春日部駅で、ここから行くなら北が付かないただの春日部駅よりも遥かに近かろうと思われます。
 追分のところには春日部の家具製造が盛んなことをうかがわせる「ふすま 内装工事」とか「山田タンス」といった文字が見えます。昭和34年4月の埼玉新聞に「春日部箪笥組合」が新婚の皇太子夫妻に桐タンスを献上という記事が載っていますがこの7月から春日部郷土資料館でこのほどその本物が展示されるそうです。日本のような高温多湿の国には桐が一番ですね。

 

いにしえの日光街道をどんどん春日部駅へ近づくとこういうT字路に当たります。この辺りは武蔵国葛飾郡八丁目村といって徳川氏が来る前、北条氏の時代まではわたくしと同じ下総国人が居住していた地です。これが明治の迅速測図を見ると人家が粕壁宿からこの辺までずーっと連続して描かれており、古くから春日部と一体化していたのだなと分かります。
 この交差点の前後に「大三前」というバス停がありました。春日部に大三などという字名はありませんから一体なにをもって大三の前だと言っているのか?小一でも中二でもダメで大学三年生しか乗れないバス停だったのか?

 

この角には大三家具店という家具の名店があったのです。
十二支の寅の年には火災が多いという俗信があって家具屋さんはトラの干支を嫌うものですが、これは阪神タイガースが優勝した昭和37年、トラ年の年の瀬を迎えた大三家具店(広報かすかべ昭和37年12月号)。今年も阪神好調ですがウシ年なのでオリックスバファローズも強いですね。

 


そして新町橋という橋を渡るのですが、この古利根川が往古の下総国と武蔵国の分かれ目だったところになります。ここから先はもはや葛飾郡でもなんでもない、渋沢栄一を生んだ全くもって混じりっけなしのサラブレッド埼玉であって、橋を渡り切ったところに「岩槻新道」というバス停が置かれていたそうです。「雨の御堂筋」の梅田新道の新道とは異なり「しんどう」と読みます。
 新町橋というからには近代に入ってから架けられた橋のように感じますが江戸時代すでにここに橋が架かっていました。
 ここから古利根川のほんの少しだけ上流にまたまた古という字がつく「古隅田川」という川との分流点があります。その川には「業平橋」という名の橋が残っています。春日部市はそここそが伊勢物語に有名な在原業平が歌を詠じたところであって真の下総国との境目だと主張しています。ところで昔東武線の準急列車で業平橋行きというのがありましたな。


 新町橋の下流には橋桁がやけに赤い橋がありますが、そのまたすぐ下流の右岸には関宿と同じように河岸があったそうで、一体何が荷揚げされていたかというと福島県で伐採された桐の木材だったそうです。

 

それが春日部の桐家具業の発達を促し、なかんずく春日部にバスが現れたのとほぼ同じ頃の出来事として、厚見重次郎という人はワシントン海軍軍縮条約が成った記念に開催された“上野平和博覧会”なるイベントに桐タンスを出品して最優秀賞を取り、大いに春日部の名を上げしめたということです。
 牛島の藤をこてんぱんに酷評した作家、田山花袋も家具製造業の豊かなことを評価しており、古利根川は島忠、大塚家具といった春日部家具メジャーの母なる川のような存在なのでしょう。

 

岩槻新道とやらをまっすぐ行くと高架化で来年だか再来年あたりには見納めになる東武の春日部大踏切があります。越沼良助氏が粕壁町で最初に開通させた乗合自動車路線は、今日の春日部駅東口を出て大踏切を越え、東北本線白岡駅付近の旅館の前を終点とする路線であったとされています。
 また岩槻自動車株式会社による粕壁町~岩槻町線もこの大踏切を越えていますが関宿からやってきたバスはここまでは来ませんでした。春日部駅の改札口というと踏切を越えることなく着ける駅東側に一か所あるだけだったからです。
 クレヨンしんちゃんが特定輸送バスに誤乗した北カスカベ女子産業大学、埼玉紅さそり隊が庄和町のスケバンと暴れていたかすかべ森林公園はこの踏切を越えた所に実在する施設をモデルにしていて駅の西側が舞台になっていますが、紅さそり隊が真っ茶色の硬派な弁当を持ってくるアクション女子高はこちら側にあります。
 大塚家具の社長さんの母校にして珍しい公立男子校の進学校として知られる春日部高校はやはり踏切を越えた八木崎駅の面前にあって、自動改札になるまでそこの生徒さんだけは特別に無改札で出ることができたそうです。

 

 

 

その改札口がある方へ行くためにバスはこの交差点を左折したことになっています。そもそも日光街道や関宿道から粕壁宿に入るには往古からここを曲がってしか行きようがありません。
日光街道のみならず東海道とか中仙道とかでも宿場町にはこのように90度直角に屈曲するポイントが必ず設けられているそうで、なんでも行旅人の人相改めを容易にするためとか大名行列がすれ違わないようにするとかだそうです。この屈曲こそが春日部に街道があり宿場があった絶対不揺の証拠と申せましょう。

 

反対側に屈曲すると最勝寺という古刹があります。「おくのほそ道」の松尾芭蕉がたった一日で江戸から春日部まで歩いてきたのは有名ですがこの寺に詣でたのではないかという説があります。


昭和61~62年頃、道を曲がってから最勝寺を見たところ(『カラーワイド埼玉』 埼玉県)。左側を見ると道路の拡幅がすでに始まったことがわかります。関宿からのバスが生きていたのはその5、6年ほど前のことになります。現在の当地のロケーションはおもむき豊かな瓦屋根の重厚な建物が目障りなタワマンに変じてしまっており往時の路線バスを偲ぶ妨げとなっています。

 

 


右側にある埼玉りそな銀行はかつての埼玉銀行春日部支店、さらに以前は武州銀行、さらにさらに遡って乗合自動車が走り始めたはるかいにしえの頃には地元有志で設立された「粕壁銀行」がありました。この辺りに東武鉄道が路線廃止するまでの60年間に亘って「銀行前」という名のバス停が置かれていました。粕壁町の古写真に武州銀行時代の建物を収めたものがあり建物の道挟んだ向かい斜めには静岡県沼津の東海バス等でよく見かける棒バス停が映っています。

 

昭和63年か平成元年、道路拡幅により街道に歩道が整備されたときの写真(わたしたちのかすかべ)。
電柱に関宿町出身の演歌歌手、半田浩二氏のポスターが括り付けられています。

 


春日部は野田醤油労働争議の時に争議団粕壁支部が結成されたほど我が野田と関係が深い土地で、野田と同じように上町・仲町がありますがなぜか下町がない。銀行があった辺りは粕壁上町というのですが銀行前を過ぎてぐいぐい日光街道を南下すると右手に春日部仲町郵便局というのがあります。その隣のクリーニング屋のまた隣に右に入る道があります。
 鉄道開闢以来春日部の人々はこの入り道を停車場通りと名付けており、街道からバスが駅前に行くことが出来る唯一の道でした。

それは高校生のわたくしが東宝珠花から終バスに乗ってきて春日部駅の野田線ホームで立喰いラーメンをふうふうしながらすすっていたあの時もそうでした。


 昭和50年、停車場通りから街道に出てくる川崎重工製東武バス(『春日部市議会だより』)。「後のり」の表示板が無いので1扉ツーマン車。昭和47年開店のヨーカドー春日部店の広告板があるので春日部出張所の車両です。これは宝珠花方面か当時運行されていたアクション女子高校、もといっ、春日部女子高行きのようですが、もし関宿(西関宿・栗橋駅)へ行くバスならばこの反対側へ曲がっていきます。
 ところでこのバスの頭の先には「丸や」という鮮魚店があります。自転車の奥さんもそこで買い物したのかもしれません。その鮮魚店こそが今日埼玉県東部を中心に手広く展開し一時期宝珠花橋の関宿側にもあったスーパー「マルヤ」の祖です。

 

通りに入って行くとボンネットバスの絵がついたシャッターの店舗、その隣に「タンス」というのぼりを置いた桐材店があります。この宝珠花ゆきのボンネットバスを郷愁をもって眺めていたら「おんや、春日部は初めてきたの?」と声かけてきた優しいご婦人がいて、またいろいろとお話しを伺うことができましたのでそれも加えてさらにお話しをしましょう。

 

先へ進んで三菱UFJの前の駐車場のそのまた奥には駅東口に作られた大塚家具のショールームがありました。その大塚家具の脇から入って行くと非常に道の狭いカオスな商業地になっていて東武名画座という映画館もあり中学生時代に「ザデイアフター」という映画を見に来たことがあります。映画館近くに昭和レトロ自販機の精髄、ハンバーガーの自販機が置いてあり、伊勢三という家具店もありました。今思い返すと春日部にはやはり家具屋が多かったように思います。

 

西関宿を発ってどれほどの時が過ぎたことか、春日部駅前に着けて運行終了となります。
昭和48年、三菱銀行あたりの上階から撮影したらしいこの写真(春日部市議会だより)をいろいろ凝視すると、改札口のすぐ隣に「ハウス」という脇広告が見える車両含めてバスが2台停まっています。バスのお尻側に白く写る商工地図が掲げられてますがここはバスの乗り場ではなく待機場所になっています。
 どうやって乗るのかと言うと、発車時刻になるとバスがにょこにょこと車長半分ほど出てきて中扉が駅から見えるくらいの絶妙の位置でストップし、車掌さんが「お待たせしましたあぁぁぁ」と大声をあげて客をいざなっていた、ということです。
 コンテナボックスが2段積みになっている貨物をさばくスペースの縁際に二面式のバス停のようなものが2本並立していますがバス停ではなく貨物が行き来して危ないから立入禁止と啓発しているものです。
 駅舎は瓦葺の平屋でわたくしが高校生の頃もこの和風の風情ある様式でした。コンテナの前には東武通運労組の赤旗が翻っています。右下の不二家の看板の隣には春日部にあった東武通運埼玉支店の事務所屋がありました。
 駅の前にシュロの木があってストライプの庇のそば屋と太陽ホールというパチンコ屋が並んでいて、もっと右へ行くと木造2階建ての東武バス春日部出張所があり、客からよく見えるように大きな路線図板が立っていたそうです。その背後に西口へ移転する前の車庫がありました。

 

建屋外壁をモルタルにし畳敷きの女子更衣室を増設した昭和41年改修時の記録によれば所属の乗合バス車両数は14、貸切車両3、運転士21名、車掌さんが24人。
 担当路線には浦和駅ゆきや春日部女子高さらに当時あった「春日部病院」を起終点とする市内線もありましたが対キロ営業成績最高は宝珠花を経る日枝神社線であって、それは越谷営業所管内全路線と比較しても相当な成績だったと伝わります。
 春日部出張所は越谷営業所の出張所で杉戸駅脇にあった杉戸出張所は境営業所の出張所です。東武通運の営業所でした。
越谷は当時春日部ともう一つ吉川にも出来たばかりの出張所を持っていて、管内併せて67台の乗合車両を有し、前述の春日部ー宝珠花ー日枝神社線の他に越谷ー吉川ー金町・亀有線というドル箱がありました。
 越谷営業所の前身はまたしてもわが総武鉄道であり、戦後東武鉄道は旧総武のバス路線の管理を野田営業所に預け昭和33年の組織改正まで春日部も越谷もともに野田の一出張所扱いたる「野田営業所分所」ということになっていました。  

 

駅前にバス以外の車両の乗入が禁止されたという昭和51年の写真(広報かすかべ)。その5年前に西口改札が出来ていますので、春日部駅前ではなく春日部駅東口というべきですが西口にバスのりばが出来たのは出張所と車庫が移転した4年後の昭和55年4月のことなので春日部駅ゆきのバスの方向幕は相変わらず「春 日 部 駅」のままだったはずです。
  ここに3台映っているバスのうち2台は方向幕まで映っており、左は日枝神社、右は栗橋です。栗橋駅前でも栗橋駅でもなく「栗 橋」と漢字2文字です。これが春日部と西関宿を結んでいたバスです。 春日部の人物によって創始された路線ですが春日部出張所が東口にあった当時から春日部ではなく境営業所の管轄であったことが古写真や境町議会議事録からわかります。それでわたくしは境のバスに乗っていてこの路線を知ることができたのです。
 而して春日部~西関宿・栗橋線に野田営業所は関与しなかったわけで今では千葉県野田市の一部と化したあの関宿こそが実は千葉県の影が一番薄い土地だったのではないかとわたくしは古いバス路線を辿っていて感じつつあるのです。

 

駅前にあった春日部出張所兼車庫の移転先は駅の遥か南西にある上大増という地区で都市計画で買収した田地を埋め立てた一角にあり、紙切り芸の先代林家正楽が確かその辺りの農家の出身ではなかったかと思います。
  車庫付近で掘削をしていたら単純泉が湧いて出たというので、春日部湯元温泉というスーパー銭湯のようなものが出来、現在もあります。
 文化放送で昔「吉田照美のやる気MANMAN」という番組がありましたが、この番組が春日部湯元温泉から生放送したことがあって番組中に「春日部は優しい人が多い、周りの人がお醤油とかお味噌がないとすぐに貸すかべ」というしょうもないダジャレを言う人が出てたのを思い出しましたが、優しい方と会えました。

いろいろお話していただいた方々、本当にありがとうございました。


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4 コメント

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Unknown (深川)
2021-07-19 18:43:14
はじめまして。
懐かしいです。
小学生のころ、春日部駅から1本だけ残ってた江川行きを追跡すべく(18時台に江川行き1本、他に船渡橋止まりが2本くらいあったような)、自転車でバス停を巡りました。が、船渡橋の先で夕方になってしまい、ギブアップ。真っ暗になって家に着いたら、親にしこたま怒られた…というのを思い出しました。
「やるマン」で「浦和出身のうら若き青年…」とか言ってましたね、あのお方。
返信する
Unknown (surrender90)
2021-07-20 12:28:22
深川さま。ありがとうございます。
江川ゆきが1本で船渡橋止まりが2本ですか本数がすでに魅力的ですね。そういえばあの頃見た路線図で船渡橋が始発地を示す二重丸になってたような。
おそらく船渡橋あたりは夜は真っ暗になるでしょうからなかなかそうしようという勇気をお持ちであったのが凄いなと思います。わたしも子供の頃は帰宅が何時になるからというのを気にしながらバスに乗っておりましたよ。行動の全てが親に内緒でしたから。18時じゃあ難しい。
やるまんの毎回毎回くだらないダジャレを言うアナウンサー、なんだかんだで楽しみでした。あの時間帯では一番面白い番組だったと思いますね。
ご覧いただいて本当にありがとうございました。
返信する
Unknown (南栗橋車両管理区荒川支所)
2021-08-05 02:56:52
夜分失礼いたします

非常に申し上げにくいのですが
杉戸出張所とお書きになられていますけど
東武鉄道公式社史“営業所・出張所”の変遷で
境傘下は“古河(現・茨急古河)・下妻・岩井”の3つでございます

杉戸(現・東武動物公園)の駅前にターンテーブルはありましたが
車庫ではなく発着所かと思われます

杉戸・春日部周辺では
春日部出張所→朝日の春日部営業所化

ただし
時期的に現“朝日自動車・杉戸”と旧春日部営業所は“重複時期”があるようなので
社歴の連動もなさそうです

自己満足でGoogleマイマップを使った
バス関係のマップを作ってその過程上掘り当てる事も多々ありました

以上大きなお節介のようで申し訳ありません m(_ _)m

https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1jP2-F1ohGmnFY2nKDHY3XVBQt4F4A1Ga&ll=35.66567269619305%2C139.7311309321594&z=11

https://mikurishakanku.blog.fc2.com/
返信する
Unknown (surrender90)
2021-08-05 11:23:08
南栗橋車両管理区荒川支所さま、
ご覧なってくださいましてありがとうございます。
杉戸駅にあったのは東武鉄道ではなく東武通運の杉戸営業所でしたね。
大変失礼いたしました。
返信する

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