特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

西関宿から春日部へ行くバスと古い国境線1 史的概観

2021年06月01日 23時53分09秒 | 旅行

 かつて埼玉県幸手市にある西関宿という土地のお話しをいたしました。そのときさる地元の方をつかまえて西関宿のバスはどうなっていたのか?などいろいろお話を伺う機会がありました。わたくしは西関宿と対岸の関宿を結ぶバス路線について聞きたかったのですがその方は「ここからは幸手へ行ってた、栗橋へ行ってた」とどこへ行くバスがあったのかをご丁寧にお話しいただきました。もし見ておられましたらその節はまことにありがとうございました。
 そのとき私の脳裏に小学5年生の時だったか6年生の時だったか少年時代に見た境町のバスの路線図がふつふつと浮かんできたのでございます。
 前回「一本松」という渋い名前のバス停の名がその路線図にあったと申しました。今回は渋いというかなんと申しましょうかともかく子供が見たら絶対に忘れられない名前でございました。

 

 

 

 

 

 昭和時代の境車庫の東武バスの路線図などといえばそれはそれは大変に広域で停留所数も甚だしくひどくごみごみしていてはっきり覚えていない、ということは前回お話しした通りで小学生という生き物は国語の教科書の文字よりフォントサイズの小さい文字を本能的に忌避してしまうものです。そこをなんとかおぼろげなレイアウトを描くとこんな感じです。

 あくまで心象風景を基にしたレイアウトであって正確さはこれっぽちもないのでご注意。長須とか結城とかすでにとっくに廃止されていたバス停も載っていました。だから昔のバスは路線の改廃があってもすぐに修正したり路線図取替なんかしなかったのでしょうね。

 そんな路線図でも前回お話しした「一本松」以外にも心に引っかかる停留所もあって例えば古河~岩井線にあった「生子」。オイゴと読むのですがわたくしは「ナマコ」と黙読しておりました。
ナマコで思い出しましたが、お笑いまんが道場の富永一朗さんのご冥福をつつしんでお祈り申し上げます。
 

 

さらに強烈に覚えているのが「黒右衛門」というバス停の名で今回はその黒右衛門バス停があった路線をお話ししたいと思います。
 ところで「ドラえもん」が関東ローカルでテレ朝平日夕方の10分番組であったことを覚えてる方はどれほどいらっしゃるでしょうか。日曜朝っぱらの再放送枠とはOP曲も異なっていたり、一社提供枠でしたが曜日によって提供社も変わっていて第一家庭電器だったり、武田鉄矢が火消しの纏いを振り回して「明日はダイエー、一の市!」と叫んでるCMがあったり、わたくしと同時代を過ごした方にはさぞ懐かしいことであろうと思います。ところがその帯番組が突如金曜夜週1の30分番組に変わってしまった!これは子供にはショックでしたね。毎日楽しみに見てたのに。

 でもその後釜がハットリくんですぐに心の隙間は埋まる。ドラえもんの移動先の真裏がじゃりん子チエで漫才ブームの影響で西川のりおがCVやってて「夕やけロンちゃん」でもあの汚い声で宣伝して京急狂のロングおじさんもひいてたけどいざ見たらチエちゃんが焼いてるホルモンが美味しそうな程度で大して面白くなかった。

 しかし吉村アナとか高崎の某大学のO教授とか電気学科出身はどうしてかくも乗り物を語りたがるのでありましょうや。そういえば単結は路線図のようにも見えるしトランスのマークはバス停の形によく似ている。

 話がまたあさっての方向へいきつつありますが、そのほぼ同時期にクロえもんというドラえもんのパチもんのような名前を路線図に見つけて「どんな所だろうか?」と興味を抱いたわけです。
 が、わたくしは一度も乗ったことがない。そういう方向幕を見たこともない。ただ同時代を生きた者として触れざるを得ない。なぜか。それはこの路線もまた前回同様、埼玉県なのに下総国・千葉県だったという場所を往くもので下総国・千葉県民としては万難を排してでも足を運ばざるを得ないのです。

 


 

 

 わたくしども千葉県出身者はしばしば自らを「房総」と称する。ということは下総国は千葉県でなければならないのになにゆえ埼玉県に下総国域が夥しく広がっているのか?武蔵国と下総国の境目はどうなっていたか?世の歴史に詳しいさまざまな方々のお話を参照しますと上図のようになります。
 

 東京都民にもお馴染みの江戸川は太古の昔、律令制下で日本の国分けがなされてから何百年も後に人工的に無理やり作られた河川であって国境策定にいささかも関与し得ません。江戸川が存在しない当時、国境線としてセレクトされたのは今日吉川市辺りで中川に合流している「古利根川」であったと言われております。
 そして川の西側武蔵国域には「埼玉郡」が、東側の下総国域には「葛飾郡」という郡が置かれました。これが何百年も何百年も、関宿築城後もなお続きました。
 やがて江戸時代になると江戸川開削とか五街道整備とか徳川氏による大きなすったもんだがあって、古利根川ではなくそのさらに東を流れる「中川」をもって国境線と定められた・・・らしいです。
 
 松伏町は下総と武蔵とで半分割されており、現在の茨城急行バス松伏本社は下総国域の果て、下総台地、一名金杉台地の南東端にあって三方を中川低地に囲まれています。茨急は昭和56年の大正大学埼玉校舎のオープンに併せて埼玉県に移転してしまいますが下総国の東端からほんの100メートルも歩けば着いてしまう常陸国真壁郡の下妻町が創業の地であってそこは茨城は茨城であるけれども下総国の匂いが濃い。どうしてかというと「下妻物語」が人気の頃下妻に行ったらマックスコーヒーが置いてあったから。
 適応障害になるくらい下らないこと申しましたがともかく奇しくも創業地と同じ下総国の下総台地に今もなお本社を構えているわけです。
 吉川市には江戸川の向こうから下総国がたんこぶのように出っ張ってきてます。この部位には平方新田と深井新田という地名が残されていて、かつて下総側の野田~流山間のバス路線に平方、東深井というバス停があったことが懐かしく思い出されます。
 前回の宝珠花を含めちらりほらりと埼玉県へはみ出していた下総国もここがはみ出しの最南端です。
 而して下総国葛飾郡の西半は「武蔵国葛飾郡」と改称のうえ下総国から切り離されてしまいました。さらに廃藩置県で武蔵国葛飾郡は埼玉県に、下総国葛飾郡は江戸川のどっち側にあろうが片っ端から千葉県にされたというのです。

 以上の話は「利根川東遷」という歴史上のビッグテーマになっていて未だ全貌が詳らかになっておらず歴史家たちの頭を悩ませているのだそうです。
この辺に着目して現地の庚申塚を見て回った方の大変興味深いブログがあるのでぜひ見てください。

 


さっきの地図の一部を大きくしますとこんな感じです。
前回お話しした芦橋廻りの日枝神社線の行路やいくつかの明治の大合併以前の旧村の名前も書きました。春日部駅~西関宿線は三田(さんでん)のバス停から杉戸町の椿に入るまで武蔵・下総の境目を行き来しています。三田と船渡橋(ふなとばし)だけは今も他路線の現役のバス停としてその名を残していますが他は廃止消失しています。
 往古「せきやど道」と呼ばれる日光街道粕壁宿と関宿の2つの宿場を繋いだ、北条氏の時代からあったと言われるとてつもない古道があるのですが春日部~西関宿線はその道をまるまる全線走破しているという、この点だけでもまことに歴史的に意義深い路線と申せましょう。
 

 途中にある今は幸手市となった惣新田という大きな村は中川の東側にあるので下総国でもよさそうですが、やはり国境変更時の中川の流路は今と異なり、総武国境に沿い流れて惣新田村の南端で中川と合している矮小な小川が中川の原初流路だったそうでそれでこの村は武蔵国になっているのです。
 現在においては関宿を経由する春日部駅~境車庫線という朝日バスの路線が休日に数本ありますがそれとは全く別物であることはご理解いただきたいと思います。
 ところで古利根川と中川とが春日部の南あたりでぎゅっと接近しております。これだけ河川ですぼめられた地形だと川が上流から運んできた肥沃な土が堆積してよい藤の花が咲きそうですね。東武鉄道藤の牛島駅がここにあります。

 

 


『世界一藤のかすかべ』(昭和5年)の藤花園と粕壁町鳥瞰図(「新編図録春日部市史」)
 春日部延伸直後の総武鉄道が藤の開花期を迎えて慌てて牛島駅から駅名変更した由来となった藤花園。一説に園からいくばくか貰ったので駅名変えたとかまことしやかに伝わっておりますがともかくそこは南埼玉郡粕壁町ではなく北葛飾郡幸松村にありました。「こうまつ」と聞いてもどこだかさっぱりなので「かすかべ」と称したのです。南埼玉郡宮代町にあるのに杉戸駅と称したとの同じいきさつです。声優国府田マリ子氏の出身地として高名な宮代町は元は百間村といい駅名を面白く思わない村民が改称を陳情していたことが「武蔵野ひざくりげ」(朝日新聞)という書物に載っています。
 

 さて、左下にある粕壁駅乗合自動車案内という欄を見ると路線が7つあってうち右から3つ目に「関宿行 田宮桜井吉田ヲ経テ」とあります。埼玉県に残る古い事物において「関宿」と書いてあったらそれはお城のある千葉県関宿町のことではなく埼玉県の西関宿を指しています。田宮は武蔵国の北葛飾郡田宮村、桜井は下総国北葛飾郡桜井村、吉田は明治22年以降に惣新田村が属した武蔵国の北葛飾郡吉田村のことで総武国境をいったりきたりしてた様子がここからも窺えます。
 

 上図をよくみると駅の目と鼻の先に「越沼」という文字が見えます。路線バス黎明期に粕壁駅を拠点に貨物・乗合自動車業をおこし、戦前の有名な紳士録『人事興信録』に載るほどの春日部自動車界の大立者、越沼良助氏のA型フォードやシボレーが車掌を従えて駅前にすっくと居並ぶ姿を想起しますと思わず胸が熱くなってまいります。鉄道省全国乗合自動車便覧によると越沼氏の手でスタートした粕壁駅~関宿線の開業は大正15年8月11日のこととあります。なお当地春日部市粕壁4428番地には終戦後そのまま東武バス春日部車庫と東武通運春日部営業所が置かれました。

 

古利根川を越える昭和22年の東武バス。塗装が後年の貸切車と同じだが一般乗合営業中。車長に比べてボンネットは短く日野製と違い幅広。フロント側面の白く写る円はミラーで前照灯はボンネット下部に嵌込んでいる。(「久喜・幸手・蓮田の100年」郷土出版社)
 昭和18年県の指導で越沼氏は駅構内営業権の全てをリリースして東武鉄道が承継企業となりましたが、春日部・西関宿間の路線は恐らくは不急不要線として休止されたものかと思います。
 

 戦後の昭和22年カスリーン台風で東京・埼玉に大洪水が起きた時埼玉新聞に「春日部町の以下のバスは運休。境行き」という一文があってそこから東武バスの春日部~境町の路線があったことがわかります。これは当時の地理的条件から間違いなく西関宿を経由しております。

 経由といってもバスに乗ったまま通過していくのではありません。西関宿で下車して乗車券(わたくしの子供の頃東武バスの車掌は『キップ』と言っていた)を持ったまま渡船に乗り継ぎ対岸の千葉県関宿町に上陸するとそこにいる境町ゆきのバスにまた乗り継いで再び出発進行という段取りです。かなり前にお話しした野田~小山~岩井線のバスはわたくしの祖母の代までバス1両まるごと渡船に乗り込むというドラスティックなやり方をしていましたが関宿にそんな船はありません。運賃は通し計算で行われ船賃はバス代に含まれていたので無料で乗れたということです。


 


 

『五霞村のあゆみ』(昭和55年 茨城広報センター)の巻末年表に昭和26年8月10日東武バス春日部駅前~西関宿~五霞村役場間開通、昭和28年3月21日五霞村役場~栗橋まで路線延長、という記載があります。
 昭和17年刊「猿島郡郷土誌」の五霞村の項に西関宿の北隣「江川」と同村川妻までの道路改修がなったので栗橋駅の間に乗合自動車が最近走るようになった、という文章があります。この路線は境町の茨城急行自動車のものなのですがここにいう茨城急行自動車なる企業は、先述の下総国の北東端に興って南西端に本社を移して埼玉県内で活発に蠢動を続けている同名法人とは東京と栃木の関東バスと同じくらいに社名以外の全てがことごとく異なる企業で、そもそも今日すでに存在していません。

 この会社が越沼氏のテリトリーを侵していた痕跡は全く見当たらないので西関宿~春日部間のバスは全く越沼氏の独占下にあったのでしょう。越沼氏の功績大なることはこのほど地元の古老の方々から聞けた貴重な話があるので次回以降にお伝えしたいと思います。
 ところでこの戦前版茨城急行自動車株式会社について大きく触れている人は少ないようですのでこちらの方は今ここで能書きを申したいと思います。

 下総古河藩の旧家に生まれ、茨城毎日新聞の社主を務めるかたわら東武鉄道の指定を得て古河町内で貨物自動車業を営んでいた茨城県区選出の立憲政友会代議士、佐藤洋之助氏が昭和8年境町船戸町に創設した乗合自動車会社であって、漸次拡大する路線網は周辺交通需要に対し強大なヘゲモニーを構築、それは茨城県内の旧下総国域の北半を覆い南半の常総鉄道会社自動車部と健全な競争をしていました。
 「猿島郡郷土誌」の筆者は衰えゆく利根川水運への悲しい定めから境町が救われた感謝を込めて「自動車交通と船橋の開通に依りて陸路千葉埼玉と通じ東武線杉戸駅とも容易に連絡なし得るを以て本町を経由する貨客の数非常に多て茨城急行自動車株式會社の設立は町発達のため多大の貢献をもたらしぬ」と記し全433頁に及ぶ長大な郷土誌の最後を締めくくっています。
 

 茨城県を語るとき決して逸することのできないTV番組にフジテレビ土曜朝方にOAされていた『おはよう茨城』がありますが古河だったか結城だったか何か新しくできる施設を取り上げた回で茨城急行と思しき戦前のバス画像が映ったことがあります。これが戦中に悪名高い「陸運統制令」によって紆余曲折を経て東武鉄道の一部門と変じ、わたくしが小さなまなこをしばたたかせて路線図を見ていた東武バスの境営業所あるいは下館あるいは笠間の営業所となったわけです。

 


 

 

 

 昭和45年埼玉県発行「埼玉県市町村誌第19巻」北葛飾郡幸手町の項と国会図書館から埼玉の草加図書館に送信してもらって見れた「全国バス路線要覧」から西関宿間に纏わるものをかき集め39年と45年を比較したものを作ると以下の4つができます。

★春日部駅前~西関宿~栗橋駅前  5.5往復(昭和39年)→3往復(昭和45年)
☆春日部駅前~西関宿 粁程14.5Km  所要45分 16:00発の片道1本のみ(昭和39年)→4往復(昭和45年)
◆西関宿~栗橋駅前 6:10発の片道1本のみ(昭和39年)→幸手駅前~西関宿~栗橋へ延伸されて3往復(昭和45年)
◆西関宿~吉羽~幸手駅前 5往復(昭和39年)→11往復(昭和45年)

下2つは黒右衛門や春日部市域には当たりもかすりもしない参考記録的なものですが西関宿のバス結節点としての重要さが伝わると思います。西関宿は戦後幸手町になりましたので町の行政地たる幸手駅行きが多いのは自然なことです。やや歩けば旧茨城急行からあった境町~幸手駅前という1日3往復(昭和45年)のバスも三田から乗れたでしょう。

 自然じゃないのが春日部駅前~西関宿~栗橋駅前線の往復5.5という、自然数でも何でもない数字で、これは春日部発が6本、栗橋発が5本のように往復同数ではなかったことを表しています。
ここに昭和45年3往復あったという春日部駅前~西関宿線。今回は西関宿から春日部駅を辿りたいと思います。
 

 

      

 江戸川の向こうに筑波山を望むここ西関宿は関宿です。関宿を手に入れることは一国を手に入れることに等しいと北条氏康を言わしめた要害中の要害にして要衝中の要衝、それが関宿。これから先に訪れる下総国だった村落よりもはるかに長いこと千葉県だったところです。
 

 関宿藩は江戸川に向河岸・向下河岸・内河岸の3つの河岸をもっていてこれを関宿三河岸といいます。同じ関宿藩の河岸でも江戸川ではなく利根川沿いの旧茨城急行自動車がブイブイ言わせていた境にあった河岸は境河岸といいます。
 

 関宿三河岸のうち内河岸は関宿城大手門の前にあった荷上げ場のことで即ち現在の関宿そのものです。残る2つが今日の埼玉県幸手市西関宿で元来は千葉県東葛飾郡関宿町向河岸、千葉県東葛飾郡関宿町向下河岸という名でした。明治7年千葉県庁の人口調査で関宿町は県下5番目の大邑とされましたがもちろん西関宿の人々も勘定に入っています。
 

 「恋の関宿、情けの境、情け知らずの宝珠花」という歌が伝わっておりともかく河岸というところは船頭の荒くれ者と港湾労働者さらに彼ら相手の花街で昼よりむしろ夜の方が結構にぎわっていたらしい。田山花袋の題が「海へ山へ」だったかと思いますが関宿を取り上げた紀行随筆集のようなものがあってそこにも関宿の花街の田舎娘がどうしたこうしたなどと書いてありました。


 
 同県人であった西関宿の先人には千葉県にまつわる偉人が沢山いて、例えば江戸時代の書家に亀田鵬斎という人がいて「なんでも鑑定団」で取り上げられたことがあるほどの書の大家なのだそうですがその息子、亀田綾瀬(りょうらい)は儒学者となり関宿藩お抱えの学者となりました。西関宿の浅間社には綾瀬が揮毫した「徳大勢至塔」という供養塔があります。
 

 向河岸の廻船業者、鈴木辰太郎氏は昭和10年に解体するまで2艘の舟を持ち、野田の醤油樽を江戸川に沿って日本橋小網町にあった野田醤油東京出張所へ運んでいました。
 

 昭和30年の文化勲章授与者に喜多村禄郎という俳優さんがいますがその人の出自は向河岸にあった喜多藤という屋号の、関宿藩に金貸ししたこともある大商家の分家だそうです。
関宿でもなんでもないけどしかしここに来るバスが出ていた当時の杉戸町の「広報すぎと」には喜多村禄郎氏の勲章授与を言祝ぐ文が掲載されています。そこに「関宿というのはご承知のように北葛飾郡の大字西関宿で、ここには春日部駅からも杉戸駅からもバスが通じている。それから東関宿の方には松戸方面からもバスが通じているからそんなに不便な所だということはできない」とあって、京成東武共同で野田松戸間を運行していたバスが千葉県関宿まで往来しているものと勘違いしています。

 バスもへちまもなかった明治のうんとはじめに埼玉県庁が「武蔵国郡村誌」という埼玉県下全町村の人口とか地形土壌、産物など詳述した書物を作りました。これは「埼玉県」の郡村誌ではなくあくまで「武蔵国」の郡村誌という体裁のものです。なので今は埼玉県だが旧幕時代には下総国に属していた村々は扱ってないだろうと思いきや、さすが翔んで埼玉を許容するほど懐の深い埼玉県庁は旧下総国域の部分も最終巻「下総国葛飾郡村誌」というタイトルで出してくれています。
 

 そこでは北は中島村(現幸手市)から順に一村ずつ南に下り最後は金杉村(現松伏町)まで総計43ヶ村が記されています。
 中島村のさらに北の西関宿がないのはどうしたことか?というと武蔵国郡村誌が完成した明治16年では西関宿はまだ千葉県東葛飾郡関宿町であり埼玉県でもなんでもないので載っていないのです。
 

 千葉県は武蔵国郡村誌に遅れること半世紀以上、西関宿がすっかり埼玉県に染まった大正12年に千葉県東葛飾郡誌というものを上梓してますがそのなかで関宿については特別に「関宿に関する拾録」という一章を設けたほか関宿の描写に大きくボリュームを割いています。

 この西関宿の集落の江戸川堤防側の真裏に渡し船が、後には舟橋が渡されていました。そのたもとが西関宿のバスの折り返しになっていました。

 関宿の東西が舟橋で結ばれた昭和28年、東京都京橋公会堂でバスガールの美声と技を競い合う全関東バスガイドコンクールが行われ一般乗合部門に出場した茨城県代表、東武鉄道自動車局境営業所の長崎由子さんの演目は「関宿~杉戸」でした。同年末に催された東武バスガイドコンクールでは当然関宿も含まれていたであろう「杉戸~境」で長崎さんが優秀賞を獲得しています。

 宝珠花生まれの医師、飯島博氏は利根川をよく好み、しばしば西関宿へバスで行っては東関宿の利根川岸へ足を運んでいます。
「駅から乗ったバスは、菜の花と麦畑の間を20分も走ると、江戸川の高い土手をだらだらと斜めに下りて汀の広場に停まる、そこに小さな橋番の小屋が立っている。
 岸辺から粗末な板橋が突き出てその端から数艘の鉄舟が横に並んでいる。その先は又板橋が対岸に続く。並べた舟の上に厚板を敷き、舟を縛した太い綱は水中の杭に結んである。早い流れが杭や綱にぶつかって、小さな渦や泡が湧き上がる。
 洪水の時取り外し簡単な仕組みのこの橋は、西関宿の喜多村さんの経営で賃取り橋だ。ただしバスの客は無料である。バスからおりた客はぞろぞろ敷き板を軋ませながら渡るのが、一寸息抜きに楽しめて面白い。
船橋を渡ると、又バスに乗って広い河原をゆっくり走り、土手の傾斜を登って関宿の街に入る。」(『続 利根川』飯島博 三一書房)

鉄コン製の関宿橋が出来ると街中にあった小さな車庫で乗り降りするようになったと実際にバスを利用していた方は語っておられます。

 

 ここからバスは春日部へ向かっていたのですが史的な概観と称して気づけばこたつ記事的な駄文長文に終始してしまいました。

 次回はこたつから飛び出し史的な話はひとまずこれまでにして、現地で見つけたお年寄りに片っ端から話しかけてバス停の跡を訪ね歩いた紀行をお話ししたいと思いますのでお暇なときにぜひご一見いただきたいと思います。

ここまで御覧いただきありがとうございました。


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